きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

また出逢ってしまった。

えっと。。。

皆さん、まず初めに、私は。。。日本人ですよぉ。

大体、最後にオチや重きがあることが多いので、できれば最後まで読んでいただけると嬉しいです〜。

 

さて。

ある土曜日の午前中。

私は、あるスポーツセンターに夫と出向いた。

 

以前から、そこで月2回、発達に何らかの困難を持つお子さんたちの運動教室が開かれていることを知っていた。

地域の小学校や中学校を退職された体育の先生や校長先生たちが中心となって行われている教室だ。

これまで、土曜日は自分のところの療育が朝からガッツリ夕方まであり、そこへの参加はできないでいたが、今は責任者を退き、個人で活動をしている為、土曜日は空いていることが多い。

そこで、その運動教室で子ども達のサポートにボランティアで入っている私の知人の口利きがあり、私の個人活動のチラシを保護者の方々にお配りするために、どうぞお越しくださいと代表の方に言っていただいて、有り難くお伺いしたのだった。

午前中に児童の部と大人の部、それぞれ1時間づつ運動教室は行われる。

それぞれ10人から20人の参加者がおられ、メインの先生方の声かけによって3つほどのプログラムが行われていた。

そこにまずは私たちも補助として参加した。

 

まずは、全体でグルグル室内を歩く。先生の声かけが入ると、くるりと回ったり、反対向きに歩いたりと行動を変える。

この時点で、上手く指示に沿って行動できていないお子さんたちが見受けられる。

 

私たちは、この日新参者なので、まずは周りの先生方の動きを観察し、ボランティアの先生方の動きもさりげなくチェック。

この教室は、子どもの自主性を尊重し、のびのび楽しく運動する方針だと元より理解しているけれど、それにしても、ほとんどサポートには付いてもらえていなかった。

「やるよ〜」といった声かけがさりげなくかけられる。

しかし、無視!

うんうん、よくある光景だ。

で?

終わり。

それ以上には介入がもらえていない。

それどころか、声をかけられたお子さんたちは、表情も体も硬くして、余計に立ち止まってしまう。

うんうん、これもよくあることだ。

で?

どうなるかというと、先生方はそれ以上なす術も無く、周りを一緒になって走る。

「声をかけると、余計に反発しちゃって〜。どうしてあげたらいいかぁ。」

うんうん、難しいよね。難しいけど、、、。

 

難しければ、難しいほど、私の心はウキウキ、ワクワクし始める。

本当に難しいだろうか?

どんなアプローチも、受け入れてはもらえないだろうか?

という興味関心がムクムクと湧き上がってしまう。

私たちは新参者。今日は縁あってご招待いただいた立場。

元から活動されている先生方の動きから逸脱しすぎないように、動きすぎないように、抑え気味にしていたけれど、だんだん我慢ができなくなってきていた。

 

確かに、集団行動というものには、集団の力というものが発生し、意識レベルがはっきりと覚醒とまでいかない人も、指示がよく分からないでいる人も、大きな流れに入っている間に、知らない間に集団に沿った動きをしてしまう、という効果はある。

夏のプールの最後に、みんなで同じ方向に回って流れるプール状態を作って遊ぶ、「洗濯機」というものを、経験している人は多いはず。あれと同じである。

 

みんなでぐるぐるしていれば、そのうち、指示に沿って動けないお子さんたちも、つられている間に体が覚えて動けるようになるだろう。これをつられ行動という。

ただし、そうなるまでには、かなりの時間を要してしまう。

1回1時間。それを月2回。1年間で24回。

体の機能向上には、決して多くない時間。

声かけだけをもらっても、そこはなかなか効果に繋がりにくいだろうなあと思った。

 

みんながグルンと回っても、回らない、みんながスピードアップして小走りしても、スピードあげな〜い、声かけると余計立ち止まる〜ってしているお子さん二人の後ろから走り寄り、ガシッと背中に手を当てて、「さあ!行くぞ〜」と押し出しながら走る私。

お一人は手足に拘縮が見られるので、勿論、無理のない速さに調整している。もうお一人は身体的な困難はないけれど、精神的に硬さが見られた。

なんだ、この人は!?と、チラッと見られる。

ニヤッと笑う私。

ふん!とそっぽを向かれた。

一旦離れる。

1週して、また働きかける。

「ホイホイホイ!」とリアクション大きめで視界に入る作戦。

また来たな!という表情の一人。

「はい!スピードアップ!」

ここで、動きにくいであろうお子さんが、精神的に硬いお子さんを促し始めた。

お、これはチャンス。

いやいやだけど、つられて動き出したお子さんに、「あ、あなた、上手に走れるね!」と密かに声をかけた。

「え?」と私を見る。

目が合い、ニコッと少し微笑みかけて、私はまたその場を離れた。

 

これで、心と心は繋がった。

 

その後も走るスピードを、、、

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私はフランス人。

ここ最近、朝はゆっくりと音楽を流したり、お気に入りの動画を見たりしながら過ごしている。

 

特にお気に入りは、クララ ブランさんの動画だ。

クララ ブランさんは日本在住のフランス人。モデル、広告代理店のプロデューサー、自分のアクセサリーブランド、インフルエンサー、などなど幅広く活躍中の方。

CMにも出ておられたらしいので、ご存知の方も多いかと。

 

初めは何気なくショートを見ていたら、綺麗なお部屋、綺麗な洋服、綺麗な食事、綺麗なお顔やスタイル、、、と、ショートのちっさな画面なのに、目を引く魅力的な絵面がインパクト有り有りで、思わず引き込まれたという感じ。

ショートはお洋服や、メイク、食事が多くあげられているようだけど、その中でも特にその食事が私の関心を集めたらしい。

モデルさんだったので、勿論ヘルシーで、ダイエット食にもなるメニューだけど、そこはやはりフランスの方、チーズの使い方や食材の合わせ方が違う。

だって、桃もフライパンで焼いちゃうのだもの。思わず見ちゃうよねぇ。

そして、チアシードやパンプキンシード、ナッツ、ハーブの使い方は、日本のモデルさんも使っているのをテレビなどで見ているけれど、やっぱり違うのだ。何かが。

 

私の夫は、チーズはナチュラルチーズしか食べない。何度種類を教えてもらっても、今まで触れてこなかった物だから、ちっとも覚えられなかった。ヨーグルトや、生クリームは、脂肪分の割合に厳しくて、いつもパッケージの裏の成分表をシビアに見つめ、これはこうで、あれはこうで、と色々教えてくれるけれど、これまたそんなことは考えて生活していなかった私にはチンプンカンプン。

パンは、マーガリンやショートニングではなく、バターを使い、自然素材が主な物で作られている物だけを食べる。

そしてオイルにもこだわり多し。

私は結婚するまで、ドイツパンなど、見たこともなかった。初めて、、、

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お礼とお知らせ。

いつも、きらめき綴りをお読みいただきありがとうございます。

 

長くて固い文章もある、このブログ。

かと思うと、へんてこりんな記事もあり。

一見、一貫性のないきらめき綴りですが、続けて読んでくださる皆様は、こういった文章にご理解のあるコアな方々と、日々ご縁に感謝しています。

 

8月31日投稿の「何のために勉強するのか」では、投げ銭的役割としての有料設定にもかかわらず、ご購入下さった方、ありがとうございました。

心よりお礼申し上げます。

 

これからは、有料設定の記事も増やす予定をしております。

これは、昔からものを書いて対価を得るという活動への私の憧れでもあります。

そして、今まで培ってきたことを生かして、困っておられる方々のお役に立つことができ、合わせて自分自身もそれにより身を助けることが出来たら幸せだというところからも来ています。

子育てに関する記事などは、できればたくさんの方に読んでいただきたいとの気持ちもあり、思案していましたが、この先何らかの形で、微力ながらでも子どもたちへの支援に関わっていきたいという思いもあり、その為に、少しでもその活動に当てることができればと進めることに致しました。

 

10月からは、サブスクリプション化も予定しています。

読んでいただいた方に、何かしら考えるきっかけであったり、ワクワクであったり、きらめきだったりというものをお届けできればいいなと考えています。

 

今まで同様、一つのテーマに沿ってはいないかもしれませんが、、、

そこは、何が出るかはお楽しみ♪ 

 

どうぞ、これからも末長くお付き合いくださいませ✨

 

 

                            きらめき綴り

 

何のために勉強するのか。

「何のために勉強するのか?」

そう聞かれたら、皆さんは何と答えますか?

 

賢くなる為?

良い大学に行く為?

高いお給料をもらう為?

それとも、なりたい職業に就く為に?

 

子どもの頃は、なぜ、勉強していたのですか?

 

みんなしてるから。

お母さんがうるさいから。

なぜだかわからないけど。

いやいや。

 

大人になった皆さんは、勉強をしてみてどうでしたか?

 

してよかった。

したから今の自分がある。

世界が広がった。

問題が起こった時、解決する方法を考える力がついた。

就職してお給料をもらい、自己実現できている。

家族を養えている。

人の役に立つことができている。

 

意味がなかった。

勉強なんかするんじゃなかった。

未だに何のために勉強するのか分からないでいる。

 

おやおや。

勉強をしてみてどうだったか、「感想」は人それぞれ。色んな意見がありそうですね。

 

「感想」は、人それぞれで良いけれど、何のためにするのか?という問いは、1つの概念に対する問いですから、「感想」とはまた別の答えが必要になるんじゃないかと思うのですが、、、。

 

得てして人は、自分が通ってきた道を肯定し、人に勧めがちです。

余談ですが、私が13年程前に、離婚すべきかどうか悩んでいた時、周りの人が心配して色々とアドバイスをくれていました。

幸せだろうが幸せでなかろうが、現在進行形で婚姻関係を続けている人は「離婚しない方がいい」「してはいけない」

離婚の経験がある人は「離婚した方がいい」「時間の無駄」「早く次の出逢いへ」

と、見事きれいに分かれました。

 

勉強は必要か?という問いにも、ご自身が勉強が好きだった、好きではなくても一生懸命がんばってきた、と、いう方は「した方がいい」

勉強がキライだった、真面目にしてこなかった、という方は、「する必要ない」「しなくても困らない」と分かれるでしょうか。

 

私の息子は幼稚園の頃は「なんで行かないといけないのか」、小学生では「なんのために勉強するのか」と毎日毎日ごね、朝はそんな彼とよく膠着状態になりました。

親が当たり前だと思って通ってきた道を、「なんのために?」と子どもに真っ直ぐ問いを突きつけられると、うぐぐ、、、と答えに詰まりますよね。

こういう問いを発する子どもたちは、納得しないとテコでも動かないという傾向がありますし。

なんとかこの朝の膠着状態を何とかしたい・・・。

と、図書館に行き、この問いの答えとなる文章を探したり、メンターたちに聞いてみたり。

それからというもの、私は20年近くもこの問いを考えてきました。

冒頭の、3つの質問に対する答えの例は、そんな中で、実際に私がこれまで色んな人に問いかけて、返ってきた返事たちです。

 

「何のために勉強するのか」と考える時、では「学ぶ」ってどういうことだろう、という問いも頭をもたげます。「学ぶ」ということについても、合わせて考えていく必要ありますが、これについてはまた次の機会に私の考えを書きたいと思います。

 

さて、皆さんは、勉強が好きな人も嫌いな人も、大方の人が子ども時代にぶつぶつ文句を言いながらでも、例えみんなが行っているからという理由でも、なんとか学校に行き、勉強をしてきたと思います。

 

みんなが行くし、やってるし、親がうるさいし、それでもなんとなくでも、学校って、行くもんなんだな、と思ってきたということは、概念形成ができていたということ。ただ、概念形成はできていても、それを説明するとなると案外難しいものです。しかも、子どもたちに納得してもらおうとなると尚更。

 

私は、このブログで何度か学校の介助員をしていた話を書いています。大勢のこどもたちのサポートをしてきましたが、その中でも私のメインの担当は重度の自閉症を持つこどもたちでした。

その担当するお子さんたちに、年間ざっと見積もっても800時間は側についている計算です。私のつき方次第で、その800時間が有意義となるか、無意味となるか分かれることに気づきました。とはいえ、みんなとの一斉授業の中で、このお子さんたちにどれくらいのものを手渡してあげることができるだろうか?と考えると悩みはますます深くなります。

一斉授業の中では、みんなと同じように内容を理解することは大変に難しく、座っているだけでも困難なお子さんたちです。何をどんな風に、どれくらい伝え、取り組んでもらうかも私次第です。

その責任の重さをひしひしと感じました。

どの科目でも、私たちが「無理」だと思えば、ただ横でじっと座っているだけで45分は過ぎていきます。私たちがリアクションを起こさなければ、お子さんもただ座っているだけです。

でも、みんながその時取り組んでいる内容の中で、そのお子さんたちが出来そうなことを些細なことでもいいから見つけて工夫して伝えてあげると、お子さんたちは一生懸命それに取り組みました。

その時の取り組みは些細なことでも、繰り返し経験すると、要領を覚えてくれます。少しづつ違うバージョンで取り組んでもらっていると、徐々に要領を得て、求められていることを理解し出します。知性と理性が芽生え出す瞬間です。

私は、どんなお子さんであっても、経験に勝るものはないな、と実感していました。

 

授業では、闇雲に無理やり意味もなく時間潰しでさせているわけではなく、将来、このお子さんたちが、大人になった時、生活で少しでも役に立ちそうなことを重点的に伝え、学んでもらいました。

例えば、算数は生活の中で物の個数、買い物、時間、形、といったことはある程度覚えていると他者とコミュニケーションが取りやすいですし、買い物ではお店で欲しいものがあればお金を払う必要があり、お金が足りなければ、買うことができないとか、お釣りというものがある、ということが分かります。どれが100円で、どれが500円か?と知っていれば、分かるところまで自分で出すことができて、その人にとって主体的な生活を送る一端になるでしょう。

 

理科では、地面の温度を計るという授業もあります。

暑い日に、日向の土を直に手で触ってもらい、これが「熱い」ということ、日陰の土を触ってもらい、これが「冷たい」ということ、と繰り返し伝えます。「暑い時は日向は暑い、冷たい日陰を歩きます。涼しいよ」と実際に日向と日陰を出たり入ったりして伝えました。将来、炎天下なのに、日陰を歩くことを知らず、疲れても陽にじりじりと照らされたところで休んだり、寒いのに日陰でブルブル震えていたりするそのお子さんの姿が想像され、なんとか一人でも、難を逃れる知恵を身に付けさせてあげたいという一心でした。

 

電気の回路の授業では、豆電球の線が乾電池の+とマイナスに接触した時だけ電気がつくところを何度も見てもらいます。片方外れているとつかないところも合わせて見ることで、電気がつく仕組みを伝えました。もし、将来部屋の電気がつかなくて困ったら、真っ暗な部屋で一人座っているんじゃなくて、誰かに「壊れてる」「故障してる」と言って伝えることができるかもしれません。なぜ、つかないのか、なんとなく自分でも理解できるかもしれません。この、なんとなくでも、理解することができる、というのは、安心して暮らすためにとても大切なことです。

社会なら、自分が今住んでいるところは何という街で、何という国で、その国のどの辺りに位置しているかが分かります。そして周りには他の沢山の国があり、それぞれ取れる食べ物や、できる物が違うし、言葉が違い、歴史が違う、ということを伝えることができますよね。テレビやお店で目にしていた物に関連づけて、「これ、習ったなあ!」と関心を持って生活することができるかもしれません。

 

英語だって、<ねこ>のこと、いつもは「ねこ」って言ってるけど、「キャット」っていう言い方もあってね、みんなが言っているのはそのことだよ、と話し、社会で習ったこのアメリカって国だよと地図を見せてあげると、「なんだ、そうなのか」となんとなく腑に落ちることもできるでしょう。

 

体育は、1本のロープすら、他者からの声かけに合わせてピョンと飛び越ことができない状態から、他者の声かけに合わせて動け、自分の思った通りに体を動かすことができる力(協調運動能力)を身につけることができます。この力を身につけることで、団体の中で一斉指示により動くことができる力を養ったり、困難な状況に陥った時、そこから脱出するだけの実行力と筋力が身についたり、何より、自分がしたいと頭で思い描いた通りの行動を取る力と体を得ることができます。そして、そんな思い通りに滑らかに動く体は日常生活の基本的動作、姿勢保持、手を使った作業、といった生きていく上で重要な力に繋がっているのです。

 

音楽は、疲れてしんどい時、リラックスする方法を得られます。リズム感は他者とのリズムを合わせる力としても大切です。友達と声を合わせる楽しさや、自分の体や楽器を使って音を奏でる喜びを知ることができます。

 

さて、では国語にはどんな力があるでしょうか。

知的障害を持つお子さんたちは、物に名前があることを初めは知りません。私たちも幼い頃は同じです。物に名前があり、動作に名前があり、人に名前がある・・・といったことを学べば、簡単な自分の欲求を他者に伝えることができます。

ところが、他者にもっと分かりやすく自分の欲求を伝えるには、言葉が必要です。相手が何を言っているのか理解するためにも、言葉の獲得は必要度が高いです。そして、それをどんな風に使えば、より相手に伝わりやすいのか言葉の使い方を学ばなければ、他者とコミュニケーションを取ることに繋がりません。

また、他者が、どんな思いで、どんな意図を持って、自分に対して関わりを持とうとしているのか理解したり、予測を立てたりする力が必要で、自分はそれに対してどんな気持ちで、どんな考えがあって反応を返しているのか、自分の気持ちを理解し、言語化して相手に伝えていかなくては、コミュニケーションは出来ても、より良い関係を築いていくことが難しいです。

そして、他者が書いた文章を読んで、なるべく正しく理解することができなければ、たちまち読み間違えが起こって、喧嘩やトラブルになってしまいます。だから、名詞の後にくる助詞が、「が」なのか「に」なのか、はたまた「は」なのかという、たった一文字の使い方まで細かく授業では取り扱われ、テストに出題されたりするのです。他者が書いた文章には、なんと書いてあるか、正しく読み取る力を養うために読解力が必要で、読み取りという作業を国語の中では時間を割いて行われているのです(の、はずです)。

ところが、正しく書かれた文字通りに読むことができ、その内容を理解することができても、字義通りの解釈では、上手く行かないというのが世の常です。

正しく書かれた文面を読んだ上で、〇〇さん「は」でもいいのに、なぜ「が」にしたのか?というような細かいポイントについて熟考したり、行間から滲み出るものを読み取っていくには、書いた人の人物理解といったことまで情報として知っておく必要が出てくるのです

国語はまさに、私たちが生きていく上で、一番重要な科目ではないのかな・・・と思えます。

トラブルの少ない、幸せな人生を歩むには、他者とより良いコミュニケーションを計り、より良い関係性を作る力を育むための勉強が必要です。

 

私たちは、物心ついた時には既に話し言葉を獲得しているので、わざわざ教わっていないと思うかもしれませんが、それはある程度の言語能力が備わっていたからです。両親との関わりの中から自然と言葉の持つ体系だった原則を学んでいるのです。そして生活習慣の基本的な動作も学んできています。

では、その力があるからと言って、その後もわざわざ学ばなくても、生きていく上で十分なだけの知識やスキルを私たちは自然と習得していくことができるでしょうか?

独学で、または自然の成り行きで出会った人々との関わりの中だけで、学校に通って学習したものと同じだけの力を身につけることが果たしてできるだろうか、と考えると、私はなかなかそれは難しいのでは・・・と感じます。

 

障がいを持つお子さんたちなら尚更、この言葉の持つ体系だった原則を自然と身に付ける力が遅れていたり、体が思い取りに動かなかったりと困難なことが多い状況です。

もし、こういったお子さんたちに私が一人で手探りで、必死に生きていく上で必要と思われることを教えてあげることが果たしてできるだろうか?と考えた時、どんなに精一杯努力したとしても、学校で学ぶように満遍なく教えてあげることは不可能だなと実感しました。

 

学校に通っていれば、小学校なら6年間の中で系統だって学べるように単元ごとにまとめられていますから、次々やってくるその単元の中で、目の前のお子さんにとって将来役に立つであろう事柄をチョイスし、手段を考えて提供するだけでかなりの範囲をカバーすることができるんだ、ということに気付きました。

 

幅広く、色々なタイプのお子さんたちに置き換えて考えた時、何のために勉強するのか?と言えば、それは「より良く生きていく為」だ、と私は答えます。

 

決してテストで良い点を取るためでも、良い大学に入るためでもありません。

 

ところが、学校の若い先生方や、周りの人に聞いても、まずこういうことを答える人には出逢えませんでした。

みんな、知らないのです。

いえ、本当は、なんとなく分かってはいるのでしょうが、なんとなく考えているために、きっちりと言語化しないまま来てしまっているのかもしれません。

そして、不登校を起こしているお子さんや、発達障がいを持つお子さんの多くは、「何のために勉強するのか」を知らずにいます。

 

だから、私は、「勉強は、周りの人と、良いコミュニケーションを取ることができて、自分の気持ちも言葉に変えて相手に上手に伝えることができるし、相手の気持ちも理解することで、より良い関係を築くための力を身につけるためだよ。生きていく上で必要なお金を得ることができ、家族が増えたり、世の中や人の役に立つような仕事を見つけて自分に自信を持って生活を送ることができる。そうして、みんなが幸せに生きていく上で必要なことを学ぶために、勉強をするんだよ、自分のためなんだよ」と、私の元に集まった大切なお子さんたちに伝えています。

 

聞いたお子さんは、みんな、「そうだったのか、知らなかった、だから自分のためだったのか」と、目を輝かせて勉強に取り組みだします。

 

一人でも多く、「何のために勉強するのか」を理解して、豊かな人生を歩んで行って欲しいです。

 

 

 

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ただほど高いものはない。

一昨日、私の初めての職業について触れた記事を書きました。

学校を卒業し、大きな商業施設で働くことになったのですが、それは特に接客業がしたいと夢があったわけではなく、人と接するのが好きだったわけでもありませんでした。

ただ単に、母が接客業だったから。

母が、接客業は楽しい、とよく私に話していたから。ただ、それだけでした。

どちらかと言うと人見知りで(といっても信じてもらえない)、引っ込み思案。石橋を叩いて叩いて結局渡らない、そんなタイプだったからか、所謂、親が引いたレールの上を素直に走っただけなのだと思います。

そんな私が、よくそんな大きな商業施設に就職したなと思うのですが、そういう「流れ」だったんだろうなぁと思うのです。

 

人見知りなのに、多くのお客様に話かけないといけないし、売り場には年配の販売員さんも大勢おられて、私にはハードルの高い仕事でしたが、石の上にも三年、、、とがんばっている内に、10年近くも経ってしまいました。

そんな私が、自分にとってミスマッチな職場で、10年近く続けてこれたのは、ひたすら「修行だ、修行だ」と自分に言い聞かせてきたからだと思います。

変なところでポジティブなのか、「この仕事を辞めたら、もう私はこれだけ多くの人に関わる仕事に就くことはできないだろうな」と、辞めようかと思ってもそんな想いが必ず頭をもたげてきました。

裏返せば、それがその仕事の魅力だったのかもしれません。

 

初めての仕事では、右も左も分かっておらず、失敗も多々ありましたが、今でも、私にとっての初めての就職が、こういった大きな会社で良かったな、と今でも思うことがあります。

 

それは何かというと、やはり教育です。

挨拶、お辞儀の角度、話し方、立ち居振る舞い等、接遇マナーもそうですし、大所帯なので、年功序列のピラミッド型の先輩後輩の関係も学べました。社会の厳しさもそうかもしれません。

どれもその後の私にとって、身を助ける教育だったなと思うのですが、特にそう何度も実感する教えが1つありました。

 

それは、初めて社会に出た若者が、自社の社員として働くために、大阪の大きなターミナル駅を通って通勤することで、様々なトラブルに巻き込まれないように守る為、一番初期に新人教育として行われた研修で、

マルチ商法ねずみ講対策」でした。

 

大阪は大きな繁華街なので、日が明るい内から、改札口を降りたところで、一目でそれと分かる派手なスーツを来たお兄さんが、これまたすぐそこなのに、「〇〇って、どう行ったらいいか知ってるぅ〜?」と聞いてきます。すり抜けてもすり抜けても、また別のお兄さんが声をかけてくるのです。

 

そういったお兄さん方から、声をかけられても、「一切返事はしてはいけない」というのが一番大切なことだと教えられました。

このお兄さん方、執拗に声をかけてくるので、つい根負けして質問に対して「はい」とか「いいえ」とか、返しただけでも、隙あり!とその後もズイズイと話しかけ、自分たちの話術で思い通りに事を運ぼうとするのが手法です。

だから、良い人を捨てきれず、ついうっかり「すいません、急いでいるので」といった断り文句であっても、返さない方が身の為です。

1度隙につけこまれたら、「ちょっとそこのビルでお話聞いてもらうだけやから、5分で終わるから、少しだけお願い」とか、「美容師してるねんけど、今、アンケート取ってて、すぐそこに車停めてるねん。女の子の美容師もそこで待ってて大丈夫やから、簡単なアンケートなので、少しお願い」などといって、しつこく絡んでくるのです。

その後は断りきれなくなって、すぐ帰れば良いんだし、と苦し紛れに「じゃあ少しだけなら」、、、と、承諾せざるをえなくなり、結局、高額な商品を買わされた、とか、車で暴力振るわれたといった事件に巻き込まれてしまうのです。

 

だから、「一切返事はしない」。「目も合わさず完全無視で通り過ぎる」ように、と、念を押されたのを覚えています。

 

それと、めったに会わない古い友達などから急に誘われて会いにいったら、ねずみ講の勧誘だった、なんてことも当時は多発していて、とにかく、相手がいくら友達だったとしても、いくら商品が魅力的に見えだしても、人を次々勧誘するだけで、自分にお金が入るといった、「上手い話には、絶対のってはいけません!」と、教えられました。

 

『おいしい儲け話には必ず落とし穴がある。』

『お金は汗水垂らして稼ぐもの。』

と、この時の研修で教えられた内容は、その後も私の頭の中に何十年も刻み込まれていて、駅で度々勧誘を受けた時も、友達から誘われたらねずみ講の勧誘で、何時間も喫茶店に軟禁状態にされた時も、最後まで教えを守り、結局一度もマルチ商法ねずみ講の被害にあうことなく、過ごしてくることができました。

当時、私はどこの会社でも、こういった研修を社員に受けさせていると思っていたのですが、別の会社に就職した友達などと、歩いていると、怪しい勧誘のお兄さんに声をかけられたら、すぐに愛想良く返事してしまうなんてことが多くあり、驚いて友達に訪ねてみると、そんな研修は受けておらず、知らなかった、と、返事がいつも返ってきました。

 

同じ会社の同僚であっても、研修内容をすっかり忘れて、ほいほい返事してついていって被害にあってしまう子も結構いたりして、なんだかやり切れないな、っていう気持ちをよく持ったものです。

 

私はこうして、会社から教えてもらうことができて、本当に良かったなと、今でも時々実感することがあります。

人からの勧誘にすごく警戒している内に、なんとなく相手の話す言葉の中に、マルチやねずみ講や詐欺特有のワードや話術があることが分かるようになったからです。

その人の表情や、声のトーンも、注意深く見たり聞いたりしていれば、怪しい陰に気づくことができます。

 

ただ、それを知らない人に説明しても、なかなか分かってもらえないのがもどかしいところです。

 

人を騙そうという人たちは、皆、満面の笑顔をしています。

初めはとても優しげで、とっつきやすくてフレンドリーです。

それはこちらの警戒を解かなければならないからで、どんなに自分たちはあなたの味方で、心配なんていらないんだよ的なメッセージを全面に送ってきます。

 

徐々に、今、あなたがいつも見聞きしている世界が実は間違っていて、自分たちが本当の世界を知っているから、それを教えてあげるといった話に入ります。

時には世界的な権威を引っ張り出して説明したり、データを見せたり、動画を見せたり。いかにももっともらしくこちらの常識を崩そうと揺さぶってきます。

そして、私たちが、今まで信じていたものに対して自信を失い、心細くなったところで、おいしい話を持ちかけます。

 

『今なら』『今だけ』『今しか』『先着〇〇名』『無料で』という言葉で、こちらを焦らせます。この時、無意識に相手の声のトーンは下り、抑えつけるような話し方になります。

 

最近は特に、この『無料』という誘い文句が多くなりました。

無料相談、無料説明会、初回無料。

 

どれも、初めの誘い文句としては魅力的な言葉です。この魅力的な言葉で、「少しだけ」と私達がやってくるのを、良い人の仮面を被って待っています。

 

罠にかかれば思うツボ。無料は初めだけ。あとは高額な費用がかかる話が待っています。

 

どんなに『効果的』『絶対儲かる』と繰り返されても、これに乗ってはいけません。

この頃は相手も賢くなり、『絶対とは約束できない』と、あたかもこれまでの詐欺とは違うよ? 効果は保証できないよ?と親切に詳しく説明してる風を装う強者も出てきています。

今はネットビジネスも増え、投資や仮想通貨といったものに接することも多い世の中。

〈お金を稼ぐ〉方法が実感を伴わないものになりつつあり、何が正しくて何が間違いかが分かりにくくなりました。

 

迷ったら、必ず立ち止まり、一旦引いてください。

誰か周りのタイプの違う人たちに聞いてみてください。

落ち着いて考えれば、きっとおかしなことに気づきます。

周りの評価を聞いてからでも遅くはないですよ。

 

これだけは覚えていてください。

 

相手は必ず、満面の笑みで来ます。

巧みな話術で魅力的です。

楽しい話でつい油断してしまいます。

 

しっかり、相手の言葉の裏を聞いて、自分の頭で考えてくださいね(考えないことを勧める人は怪しいです)

そして、これからを担う、若い人たち、子どもたちが被害にあわないように、日頃から、教えてあげて守って下さい。

 

 

今も昔も、

『ただほど高いものはない』ですよ。

 

 

怖すぎる。

 

土曜日は、地域の花火大会の予定でした。

 

17時まで、とても良い天気に恵まれて、会場周辺も着々と準備が進んでいました。

 

誰もが心待ちにしていたその時。

 

暗雲が立ち込めてきて、南の方では雲から水柱が立って(実際は降りて)います。どんどんその柱状のものがこちらに近づいてくるのが見えます。

 

うそでしょ?

聞いてないよ。

絶対絶命!

避けきれない。

失望です。

凄い量の雨が降っているようです。

その水柱の太さがどんどん広がり、飛び火、いや、飛び水して、少し離れた西側でも別の水柱が立ち始めました。

と、、、。

 

凄い稲光が真下に突き刺さっています。

全然空中じゃなくて、地面まで到達しているのが遠目でもくっきりはっきり分かります。

 

夫が雨雲レーダーで、行く末を見たところ、今の雨雲、雷雲は徐々に西に逸れて、代わりに南から別の雨雲がちょうど20時頃こちらに来る予想になっているとのこと。

 

さあ、どうする?会場の責任者は?と、主催者側の心配などしながら、時計とにらめっこ。

19時になるころには、雨雲レーダー通り、さっきの雨、雷雲は辛うじてこちらに雨を降らさずに、西に西にと逸れていきます。

ただし、凄まじい稲光と雷鳴です。

ずっと、間髪入れずにドカン!ドカン!鳴り続け、地響きがしています。

その凄まじさは、空襲でも受けているかのようで、信じられず呆然としました。

ここまですごい雷は経験したことがありません。この世の終わりかと思うほどでした。

 

あの方面は西宮やなぁ、、、。どんなことになってるやろう。みんな逃げられてるやろか?と心配になるほどです。

今回は遠ざかったから良かったものの、それでも、自宅は結構階が上なので、空が近くて怖いです。

あまりの凄さに、怖いものみたさの私は、ベランダに出て、何とか稲光が取れないか挑戦することに。時折、稲光がこちらまで手を伸ばして来るので危険ですが、そんな危険は顧みず、何回も取り直します。

稲光って、さすがに光だから、速すぎてシャッターが間に合わないてすね〜。

苦心して、撮ったものがこちら!

ほら!忘れた頃にこっちに来るんですよ。

 

 

西に行ったはずなのに、時々また帰ってくるんですよ、すぐ私の頭上まで!ひぃ〜。

 

そんなことをしている内に、時刻は19時25分。

あと5分で開始だよ?と、周辺を見渡すと、見物客の皆さんは、あの凄まじい雷を見ても全くひるまず。場所を取って動かないようです。何としてでも見たい!という意欲が見てとれます。

 

19時30分。

開始時刻ギリギリになって、さっきまでの雷が嘘の様に止んだではありませんか!

時折は光っていますが、さっきまでとは比べようもありません。奇跡のようです。

外は涼しくなって、クーラーも必要なくなりました。

何という神様のイタズラか?

 

めでたく花火大会は最後まで行われました!

直前までの嵐のおかげで、かえってこの花火大会は盛り上がり、皆んな、大喜びだったようです。

 

20時に来るはずだった雨雲、どこ行ったんだろ?

 

 

大切なのは真心。

私の初めての仕事は接客業でした。

2000人近い従業員が働き、ターミナル駅から流れ込む人、人、人。

店内は従業員と利用客とで毎日ごった返しです。

勤務中は四六時中、四方八方どこから見られているか分からないので、常に立ち姿に気を配っていなければいけませんでした。

 

朝は早番なら朝礼があります。

挨拶やお辞儀の仕方。発声練習。そして表情筋の体操。

みんなの前で、リーダーの先輩が、お手本を示してくれます。

はい、目を右、左、ぐるぐる〜!

口の中で舌を唇と歯茎の間に入れてぐるぐる〜!

口をすぼめて、目を真ん中に寄せて〜。

 

リーダーって大変だな、と思いながら、若い私は笑いを堪え、模倣しました。

 

接客業にとって、笑顔は命。

常に口角を上げておかなければいけません。

 

時々、研修でロールプレイングも行われました。

天の邪鬼な私は、講師から「やってみましよう」と言われても、皆んなが見ているその場では、笑顔全開になったりしません。無愛想な受講生です。

でも、売り場に戻ったら、今習ったばかりの言葉を、そのままでは使わずに、自分流にアレンジしてから、そして笑顔全開でお客様に向き合いました。

 

売り場に立てば、私は女優(だと思うようにしていました)。スポットライトを浴びているように立ち振る舞えば、華やかさが演出されて、自然とお客様が寄ってきてくれました。

高額な商品を買いに来られたお客様には、そんな華やかさのある接客をすることも、サービスの一環だと考えていました。

 

10年近くその仕事を務め、結婚、出産を機に退職して、専業主婦になりました。

 

義理の両親と同居生活の毎日で、ある日はたと気づきます。

普通の日常生活の中では、常に口角上げる必要なくない?と。

いくら義理の両親と一緒でも、お客様に向けるような笑顔はいらない。逆に不自然だよなぁと。

そんな時、親族のお葬式がありました。

お葬式だから、笑ってはいけません。

笑ってはいけないはずなのに、気づけば自然と口角が上がります。

ダメダメ、口角上がっちゃおかしいよ。そう思うのですが、10年近く、毎日常に努力しただけあって、その表情が癖になって、自然でフラットな表情には戻れなくなっていました。

 

そういうことがあってから、私は口角を「上げない」練習を始めました。

笑いたく無い時に笑わなくていい。

笑いたい時だけ笑えばいい。

腹が立つ時は怒ればいい。

私は怒ったっていい。

力を抜いた自然な表情で、その時の気持ちが自然に滲みでるような、そんなナチュラルな自分になりたい。

 

二十代後半の私が、自分に許可を出した瞬間でした。

世の中の流れからいくと、それは逆行だったかもしれません。でも、笑顔の仮面は、もう外すことにしたのです。

 

今、いつもにこにこしていた頃の私はもういません。

代わりに、、、

眼光の鋭いオバさんがいます。

 

でも、私は今の私の方が好きです。

眼光は鋭くても、子どもたちは「◯◯先生からは愛を感じる」と、言ってくれます。

 

新しいお子さんが見学に来た時も、一度も嫌われたことはありません。

私は教室では一番最初に接する者だから、失敗は出来ません。

お母さんに連れられて、どんなところか不安に駆られてやってくるお子さんが、「この人なら」と警戒を解いてくれるために、気をつけていることはあります。

 

それは、、、。

 

相手の目線の高さに腰を落とし、しっかり目を合わすこと。

最初にしっかり「〇〇と言います。よろしくお願いします」と自己紹介すること。

そして、そっと手と手を合わす時に、こちらの心が手から流れ込んで伝わりますように、と想いを込める、ということです。

 

自閉症のお子さんは、目が合いづらいとはよく知られていることですが、本当は、しっかり目は合うのです。

お子さんが、この人なら合わせてもいいかも、と思ったら、チラッとこちらに目を向けてくれます。そのタイミングを決して逃さずに、「大丈夫だよ」という気持ちを目に込めます。

 

このポイントを、しっかりと自分で理解して行うと、これだけで初めてのお子さんともう「愛着形成」が出来てしまいます。

お子さんにとっての安全基地になるのです。

 

関係性ができた子たちには、ダメなことはダメとはっきり伝えます。

他の大人なら、根負けしたり、どうしていいか分からなくて優しい人のふりをして要求を通してしまうところでも、揺るがず対峙します。

なぜダメなのか、時間がかかっても、決して逃げずに話し合います。

「もしこれが私の子だったら、きっと通すことはできない。私はあなたのことがとても大事だ、大好きだからこそ、この要求は通せない」

という想いを込めて、本気で向き合ってさえいれば、どんなに怒られた子たちでも、

「◯◯先生からは愛を感じる」と、こちらの想いは伝わるのです。

 

 

日本人は、「笑っていないといけない」という強迫観念にかられすぎているなあと、この頃やけに感じています。

 

相手が笑っていると、ホッとしますね。

とっつきやすくて好かれます。

でも、心の中は違ったら?

それってかえって怖すぎませんか?

 

それって、自分が安心したいから、その人のそばにいませんか?

それって、本当は自分が好きなだけじゃありませんか?

その人が、もし怒っても、好きでいられますか?

怒ったことが許せない!と思いませんか?

周りから、そう思われたら困るから、余計に怒れずに笑って我慢していませんか?

そんな人間関係でいいですか?

 

 

嬉しい、楽しい、喜び、可愛い!愛おしい、大丈夫だよ、と、心が本当に感じたら、自然とそれは目に表れます。

ちょっとした目の動き、目尻、目の奥の光、そういったところに宿ります。

 

労りの気持ち、寄り添う心、愛情は、そっと相手にかけた手の温もりに篭ります。

 

そんな、さりげなさにこそ、真心は現れます。

 

華やかさはないけれど、そんな人からは誠実さを感じるでしょう。

 

大切なのは、真心なのです。