きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

五月晴れの空の下。急激退行の回復期〜ダウン症

予報ではこれから数日気温が上がり、20度後半にもなるという。

昨日はいつも参加している障がいを持つ子どもと保護者の運動の会のイベントで、野外で飯盒炊さんするというものに行ってきた。

結構な人数になるので、飯盒や米やザルや鍋やと用意し、スケジュールを作り、経費の計算をして予行練習までされた保護者の役員の方々は準備が大変だったことと思う。

私は当日、米研ぎチームに加わり、子どもたちが米を研ぎ、水を入れ替えする時の補助係や、子どもたちが敷地内から出てしまわないようにとか、遊具で危険がないように安全を見守ることや、子どもたち一人ひとりの様子を見て、必要な介入をすることを請け負っていた。

朝の9時半ごろからスタートしたが、空はすこぶる気持ちのいい青空が広がり、山のふもとの施設で行っているため、日陰もあって快適だった。

私はアウトドア派に思われがちだけれど、以外とインドア派。汗かきなので、なるべくかかない活動が好きだ。なのに、仕事は汗をかくものばかりという、この矛盾。

そんな私にとって、五月晴れともいえる爽快な風が吹くこの日は、目立つほど汗をかくこともなく、とても助かった。

 

子どもたちは野外活動とあって、元気いっぱいだ。

園児から大人になった利用者までいるため、遊びは分散されてしまうが、発達障がいだからといって、集団が嫌いかと言うと、そうでもなく、長年一緒に活動してきた仲間とは、和気あいあいと遊ぶことができる。

この日、子どもたちが、なるべく主体的に火の当番をしたり米を炊いたりすることに携わることを目的としつつ、手が空いた自由時間には自由に遊んでも良く、小中混ざったグループは、階段で「グリコ」をして盛り上がっていた。

「グリコ」とは、じゃんけんをしてグーで勝ったらグリコの3歩、パーで勝ったらパイナップルの6歩、チョキで勝ったらチョコレートの6歩進めるという昔からある遊びだ。

このグリコをして階段を上がったり下ったりする子どもたちを、うっとりとした表情で階段下から見上げる人がいた。何ともいえない憧れの様な表情で見上げている。

すぐにそれは、このグリコをしている子どもたちの輪に入り、自分も遊びたい気持ちからだと分かった。

ダウン症のその人は、入りたいけど気兼ねして自分からは入りたいとアピールすることはできずにいる。

私はそっと近寄り、「私と一緒にグリコしよう」とじゃんけんを始める素振りをしたら、ノリノリでノってくれ、すぐ始めることができた。

それからじわじわとグリコをしている子どもたちに近寄っていき、「私と〇〇ちゃんも、グリコに入れて」と言いかけた時、子どもたちも気づき、「〇〇ちゃん、グリコする?わぁい、しよう、しよう♪おいで〜」と口々に言って招き入れてくれた。

1人では階段を上り下りしながら振り返ってじゃんけんをしたり、勝敗を確認して歩数を考え数えることは難しいので、私が介助として一緒に動く。

こうして階段を上って下りてと一往復分、みんなと楽しくグリコができて、その人は本当に喜んでくれて、ハイタッチしながらその気持ちを分け合った。

炊きあがったご飯を分け、各々持ち寄ったカレーなんかをかけて食べながら、先に食べ終わった人から自由に行動している中、先ほどの人は広場の中央の日が差し込む場所に立ち、空を見上げているいた。

日の光がその人に降り注ぎ、その恍惚とした表情や姿がキラキラと光輝いてみえた。

「なんと綺麗な」

と、私はその様子を見て、うっとりしていた。

このところ、その人は言葉を発することがなくなっていた。活発にお話してくれていたのに、それが聞けなくなっていた。お母さんと、私は、それを共に心配していた。

 

次のスケジュールまで時間が空いたので、希望者は隣の施設まで散歩に出ることになった。

道のりには結構急な坂道や階段もあり、私でもしんどいなと思いながら歩いていたが、もう1人、別のダウン症の方も保護者と共に来ていて、この坂道をがんばって上っていて感心した。さすが、若いなと思った。

隣の施設までの道のりは、しんどいけれど、緑の美しい遊歩道で、気持ちがすぅーっとする。隣の施設には温室もあり、小規模ながらとても雰囲気の良いもので、センスよく植物が配置されていた。

庭には人工的な池があり、メダカや赤や白の大きな鯉も泳いでいた。

その鯉たちを見て、私は

「きれ〜ねぇ〜」

と言った。

そしてまた先ほどの遊歩道に出て元の場所に戻ろうと歩き出した時だった。

「きれ〜ねぇ〜」と私が言った言葉と同じトーンと間合いで、その人が声を発した。

ん?とその時は流したが、暫くすると再び同じトーンで、「きれ〜ねぇ〜」と聞こえる声を発した。

後方にいるその人の方を振り向くと、楽しそうに口が広がりニカっと笑っていたが、目が合うとサッと表情が戻った。

また暫く歩いていると、また後ろのその人から

「わぁ〜〜」

っと、大きな伸びやかな声が聞こえてきた。

振り向くとまたサッと表情が戻る。

でも今度は私の方からその人に向けて、しっかりと手を降った。こちらをジッと見つめている。

ただそれだけのことだった。

道中一度だけ、

「お茶、飲む」

とその人からお母さんに言葉が発せられた。

お母さんは淡々とはいはい、とお茶を差し出された。

ただ、それだけ。

 

でも、この、「ただそれだけ」の出来事に、非常に貴重で重い意味が含まれていた。

その人には聞こえない小さな声で、お母さんに伺った。

「この数年で、家ではさっきの様にしたいことのアピールを言葉で発しておられましたか?」と。

「全くなかった」

というお返事だった。

 

実はこのダウン症の人は、数年間言葉を失っておられた。出逢った時、すでに表情も失っておられた。お母様のお悩みは相当に深いものだっただろうと察する。

ダウン症の方の中には、成年期になり、急激に言葉、表情、動きがまるで後退するかのように減退、消失してしまうことがある。それまで朗らかで、笑顔が可愛らしく、楽しいことが大好きで、ダンスなどのリズムに乗って体を動かすことが好きだったのに、これらがまるで失ったかのように消えてしまうのだ。

これを、急激退行と呼ぶ。

原因は、一つではなく複数考えられている。

甲状腺機能の低下や脳波の異常がないかなど、医療的な検査、アプローチをしても原因がない場合、心理的な要因が検討される。

その一つは鬱である。

成人期といえば、それまでの学生としての環境から、就職、就労へと大きく環境が変わる時期へと移行する頃だ。

友達たちとワイワイ遊んだり学んだり賑やかで楽しい日々を送っていたからこそ、「大人」として就労し、働くことで対価を得る生活を送る毎日に適応するということに大きな心理的負荷がかかってしまうのだろうと思う。「嬉しい」「楽しみ」「喜び」といった面が生活からごっそりと抜けてしまうからかもしれない。

就労にはあまり長期休暇もないそうだ。生活のペースを守り、パニックを起こさなくていい環境の整備は、ご本人の為のみならず、ご家族の為でもある。

ただ、私たちでも大人になって環境が180度変わってしまうことに心身ともに追いつかず変調を来すことがあるのに対して、ダウン症の方々は、その自分の変調を自分自身がキャッチすること、言葉にして考えること、それを第三者に伝えること、に困難を抱えていることが多い。

絵を指し示す、サインやジェスチャーで伝える、文字に書く、断片的だけれど言葉で表す、という手段を普段から構築できていれば、まだ普段から小出しでも他者に発信し理解してもらうことができるかもしれないが、それでも大人になり、多感で心の機微が増えている年齢の心がキャッチする複雑さを的確に表せて分かってもらえ、望むような環境を得るというのは、かなり難しく可能性としては低いのが現状なのかもしれない。

多くは、就労で自分に充てがわれる仕事が難しすぎる、簡単すぎる、飽きてしまう、面白みを感じられない、といったことが悩みになりやすいようだ。

私事として考えてみた時、自分の世界から光が全く失われた時、言葉も表情も動くことさえ消えてしまうのは同じだと思う。

その時に、自分の気持ちを話せる人も機会も手段もなければ、そこにあるのは絶望だろう。

その絶望を、ダウン症の成人期に入った人たちが感じ、体調を崩し、停滞している。

そう考えた時、それが障がいを持っているから、とか、知的な困難さを抱えているから、とか、そういったことは関係がなく、同じ心を持った人たちとして、心配になるし、なんとかその塞いだ心に小さくてもいいから光が当たるように心傾けたい、と思う。

私ができることは少ないかもしれないが、月に2度会う時に、運動を通して、どれくらい彼ら彼女らにこちらの心を届けられるか。

そんなことをこの3年近く考えながらやってきている。

「きれ〜ね〜」といったトーンの声を発した人は、その3年という間、長い暗いトンネルを歩いてきたのだと思う。それがここ数ヶ月の間に、失っていた表情に笑みが見え、動きが増え、その挙句に声が聞こえだすようになったのだ。

ボール活動が好きだそうで、そのボール活動をしていた時だった。ボールが来るたびにその人に回し、触れる機会を増やし、上手くいけば、ハイタッチをして喜びを共有した。その時が私が初めてその人の笑みを見た瞬間だった。

そこから数ヶ月かけて、昨日の様に大きな発声を聞くまでとなる。

お母さんも、私も、その声を背中で聞きながら淡々と前を向き、歩を進める。しかし、心の中は驚きと感動と喜びでいっぱいだったはすだ。噛みしめるといった風に。

この瞬間をお母さんと共有できたことが密かな私の喜びでもある。

急激退行は、その退行という言葉から、元に戻らないような印象を与えるが、この人のケースから考えても、決して望みがないわけではないのだと思う。

できれば、早期。あれ?なんだか言葉が聞かれなくなったぞ?なんか表情が乏しくない?動きが緩慢なんだけど?気のせいか食欲がないなぁ。そう感じた時に、無理に励ますとかではなく、何か心配があるのか、気が進まないことがないか、不安やストレスが隠れていないか、今の仕事は適切か、喜びがあるか、と気にかけてあげることが大切になる。

表現する方法を早く見つけてあげて、感じていることを理解し、環境を見直すことや相談をすることを開始することが重要になる。

言ってみれば、私たちが重度の鬱になる前に、手を打つ方が改善が早いのと同じだ。

何も感じていないのではなく、何も分からないわけではない。

表からは見えづらくても、内面では深く傷ついたり、落胆したり、悲しんだり、自信を失っていたりする。

その状態のまま何年も何十年も、働き続けるしかないのは酷ともいえる。

だからこそ、大切なのは、余暇なのだろう。

仕事から帰ってからや、休日に、どれくらいその人が主体で楽しみや喜びを感じる活動を持っているか。心通わせられる人々との関係を持っているか。

ゲームやYouTubeの動画だけではいけない。

人と人との関係がダウン症の人々にも必要だ。

地域の小学校や中学校で育ってきた自閉症やダウン症の人ほど、より強く人との関係性を欲するように思う。人と交わることの喜びを学んでいるからなのだろう。

 

五月晴れの爽やかな空と空気の下で、塞いでいた2人のダウン症の人たちが、心動かし、明るくて美しい変化を見せてくれたことがそれを物語っていた。

 

 

 

 

🍓のショートケーキが意味するもの。

月に一度、私が開いている会に参加してくれている男の子たち3人は、皆、この春から中学2年生になった。

地域の学校に通うお子さんもいれば、支援学校に通うお子さんもいる。

得手不得手こそ違うけれども、発達段階をトータルで見れば、みんな同じくらいのステージにいる。

比較的重い自閉症の特性を持つ子どもたちは、学校から戻ったら、そこから遊ぶ約束をして、自分たちで公園に行ったり、お互いの家を行き来して遊んだりすることは難しい。

他の子どもたちが味わっている、友達と遊ぶ楽しさや、ぶつかり合いながら成長する機会、共に育つ喜び、といったものを心の底から欲しながらも、得ることが叶わないまま育っていく。

お母さん方も同様に、我が子が迷惑をかけるのではないか、といった懸念から遠慮したり、悩みの内容が合わず理解を得られないという経験を重ねたりして、同学年のママ友の輪に入ることができず、孤独感を抱えておられることも多い。

それなら、似た特性を持つ子どもを持つ親子同士で遊ぶのなら良いかというと、そういうわけでもない。

子ども同士、お互いに関心があまりなかったり、片方が関心を持ちすぎて相手の負担になってしまうこともあるし、そもそも、子どもたちは母たちがゆっくり話す側にいて、「待つ」とか、「じっといる」とか、「一緒に遊ぶ」ということが難しい故に、落ち着くことがない。

だからこそ、その子どもたち一人一人とコンタクトを取ることができ、子ども同士の間を繋ぎ、関わりの持ち方を教えながら、適度な距離で見守ったり、親同士、遠慮なく話せるレールを引き、安心できる場の提供をする仲介者の役割が必要となる。

私はその役割をしながら、子ども達同士、親同士の横の繋がりを持つことができるよう、この会を開いているところがある。

 

この3人のお子さんのうち、お2人は小学1年生から数えて、もう8年目のお付き合いになる。お2人とも偏食が激しく、野菜、果物系は特に苦手だった。先日から続けて書いている🍓のショートケーキなどは、ご多分に漏れず、嫌いだった。

 

元の施設では、週の内に4、5日通ってきていたお子さんなどは、春になれば🍓、クリスマスになれば🍓のショートケーキ、というように、療育施設の中のおやつとして私が出すようにしていたので、4年生になる頃には、何ともいえない表情をしながらではあるけれど、偏食指導を受けていたので、お皿に出された🍓を残さず食べることができるようにはなっておられた。

勿論、わざと美味しい?とか、甘い?と聞いても、スルー。美味しいわけでもないし、甘いわけでもなかったのだろう。

もう一人のお子さんは、🍓については指導していなかったけれど、同じように通って来た日のおやつでは偏食指導を受けていた。

私は、この2人の様に、🍓のショートケーキが苦手なお子さんたちは他にもおられたのだけれど、「季節の旬の果物」としてとか、「誕生日」だから、とか、「クリスマス」だから、といった節目に出すことを辞めなかったのは、やはり、「🍓のショートケーキ」が「ハレの日」に出される可能性が高い食べ物だったから、という理由があった。

ハレの日に囲む食べ物は、別に🍓のショートケーキでなくてもいいのだけど、一つのシチュエーションとして、「ハレの日の🍓のショートケーキ」が背負っている役割があると考えていたのだった。

育ちの中で、誰かの誕生日の会に参加していて、みんなで🍓のショートケーキを囲みながらお祝いをする、という経験を積んでいった時に、子どもたちの中で形成されていく大切なものがある、というようなことだ。

何も🍓のショートケーキでなくても、チョコレートケーキやアイスケーキでもいいじゃないか。

という意見もあると思うけれど、チョコはチョコで圧倒的多数のお母さん方が子どもに提供されることに不快感を表されるし、アイスはお腹を壊しやすいお子さんがいることに配慮が必要だったりで、かえって提供しづらい面があった。

アレルギーのお子さんは例外で、食べられるものを用意する。

そんなこんなで、長年、自然と🍓や🍓のショートケーキが出る場面に立ち会い、みんなが嬉しそうに食べているのを見たり、「おめでとう」といったお祝いムードの中に身を置いて過ごすことで、段々と、

「相手の節目を祝う」という気持ちや、

「みんなで喜びを共有する」といった感覚を得ていくこととなる。

そして、そんな雰囲気の中に置かれている🍓のショートケーキという華やかな食べ物に対して、「ハレの象徴」であり、多くの「友達が喜んで食べるもの」、であるという概念が形成されていくことになる。

すると、🍓や🍓のショートケーキというものに対する見方というものが変化し、「みんなが食べているものを一緒に食べてみよう」という気持ちへと変化していくのである。

長年のこうした経験の中で、次第に誰かのお祝いの席では、出されたものを食べることができ、一緒に祝う心でその場に参加することができる、という立ち居振る舞いを身につけていくこととなる。

それこそが、私の狙いとしているものだった。

2人はこうした中で育ってきたお子さんたちだ。

 

今、私が開いている会では、毎回3種類のおやつを出している。

その中の1つは必ずみんなが苦手そうなものを入れている。2つ目は、あまり普段食べていない未経験なもの。3つ目は、みんなが好きなもの、をセレクトして出している。

先日、4月の会を開催した。

この時のおやつには、前前回書いた、イオンの🍓大福を出すことにチャレンジした。

おやつの時間になり、目の前のお皿の上に置かれた🍓大福を見て、子どもたちはテンションが下がり、固まっていた。

でも、誰も子どもたちには声をかけず、成り行きを会話しながら見守っていた。

1人は真っ先に口に入れ、悶絶していた。きっと「酸っぱい」のだろう。このお子さんは、嫌いなものから先に食べるということが身についている。

大抵、学校や療育施設では、初期の偏食指導では嫌いなものから先に口にし、ご褒美として好きな物を食べる、という順序で上手く誘導していることと思う。私はそうしている。

このお子さんは小学生の頃は私の療育には来ていなかったので、憶測だが、恐らくその様に学校やご家庭で教えられてきたのだろうと思う。

私の元に通っていた2人はというと、お互いの進捗状況をチラチラと気にして見ながら、隣の子が真っ先に食べたのを見て、1人は大福の周りから齧りだし、てっぺんの🍓を残して攻めていったが、最後に観念して🍓を口にしていた。

残る1人は、偏食指導していた頃は、やはり嫌いな物は最初に食べるように教えていたので身についていたが、嫌いなものも出されたらきちんと食べるようになってからは、自分の好きな順で食べていい段階になり、自由に食べるようになっていて、さて、今回はどうだろう?さすがに残すだろうか?と見ていたら、信頼性のある彼は、最後になったがしっかり🍓を食べ、完食となっていた。大福自体は好きだったようだ。

後の2人は、食べるときに、それぞれが他の2人がどうしているかキョロキョロと見て確認してから食べたところを見ると、他者に関心が低いと言われる自閉症を持ちながら、友達たちがどうしているか気にして確かめ、合わせた行動をしているのが分かる。

前置きしていたように、🍓のショートケーキを周りの子どもたちが喜んで食べているのを見ていく内に、段々と友達たちの気持ちを理解し、その気になってチャレンジしていった経験を持つ子どもたちだからこそ、隣の子が実際は嫌いだからだけれど、先に食べたのを見て、触発され、食べることを選んでいるのだ。

私の会では、自閉症という障がいを持つ子どもたちへの理解と配慮というものは充分にしながらも、子どもたちを私たちと何ら変わらない一人の人格をもった同じ存在として、大切なことを手渡すことを重要視して関わっている。

定型発達の子どもたちの様に、仲間と濃くて密接な関わり方はしないけれど、私の会の中で、刺激を受け合いながら、お互いを意識し、尊重して、心の底から欲していた「対等で安心できる友達づきあい」を手に入れ、毎回楽しそうにやってくるこの子どもたちを見ていると、本当に私は幸せだなと感じる。

 

 

 

 

 

苦いか甘いか酸っぱいか。子どもの味覚を知る方法。

甘ぁいケーキ。チョコレート。アメ。和菓子。フルーツ。アイスクリーム。

私は大の甘党です。食べる量は減りましたが、それでも上に書いたような甘い物は大好きです。目がありません。

こんなに美味しい物がこの世にあるのか、とうっとりします。

でも苦みも好きですよ。ゴーヤ、ピーマン、万願寺唐辛子、タラの芽、小松菜、などなど、こうしてみると緑の野菜に多いですけれど、特有の苦みはクセになりますね。

それに引き換え、酸っぱいもの。これはいけません。私は大の苦手です。こうして書いているだけでも唾液が出て目がしょぼしょぼになってしまいます。

レモン。梅干し。酢の物。そうそう、パイナップルもやや苦手かも。

パイナップルやレモンは甘いじゃないか?時々おられますね、レモンが甘いという方。パイナップルはあの酸味が爽やかでいい?とか。

そうですね。分かります。パイナップルは何とか爽やかだと感じられます。

でもレモンは甘く感じる瞬間はあるかもしれませんが、それ以上に酸っぱさが勝ちませんか?食べることはできますが、ちょっと毎回勇気が必要です。

あ、あと、辛いものもありますね。キムチ!キムチも好きです。あと七味。柚子唐辛子なんかも美味しいです。おやつでいうと、カラムーチョでしょうか。山椒や胡椒の辛味もありそうです。辛味も色々ありますね。

 

レモンの様に、人によって多少甘い、酸っぱいと感じ方に違いがあるものもありますが、世間一般では今挙げたように大半が大まかには分類できるのではないかなと思います。

でも時々、私たちが大筋で甘いと分類するものを、苦いとか、味が薄い、と感じる方もおられるんですよ。

発達障がいや、その他の障がいを持つ子どもたちと接していると、こんなに美味しいものが!と思うような食べ物を、美味しいと感じられずに悶絶して凄い形相になっている場面によく遭遇します。

それが、一人二人ならともかく、多くのお子さんが同じ反応をするのです。

それが、ピーマン、人参、トマト、ゴーヤ、ほうれん草、などなら分かります。いかにも子どもたちが嫌いそうなものですからね。

ところが、今の大人くらいまでなら、多くの人が好きで、人気者のはずなのに、今の、特に発達障がいの子どもたちに不人気になってしまった果物や食べ物があるんです。

それが、苺🍓。

そして、その苺🍓がのった生クリームのショートケーキ。

こんなの嫌いな人いるんだぁ!って最初は驚きました。

生クリームの🍓のショートケーキって、お誕生日の主役級ですもの。

昭和の子どもなら、奪い合いになってもおかしくないくらい、憧れだった🍓のショート。

それが、やすやすとランクを落とし、今では怖い食べ物ランキングに入る勢いです。

これには昭和の子どもだった私は驚きましたね。

🍓嫌い!

生クリーム嫌い!

それならチョコケーキの方がまし!

いやいや、甘いのなんて大嫌い!

と、みんなひっくり返るのですから(笑)

 

発達障がいの子どもたちには偏食がある場合が多いです。

味覚にも敏感、食感にも敏感な感覚過敏があるからです。

逆に、感覚過敏があるように、感覚鈍麻もあります。

白い物しか食べない、というような認知の偏りがある場合もあります。

原始反射が残っていて、刺激のある味や硬いものがあると、ウエッと舌が押し出してしまう人もいます。

中には味覚の未発達によって、大味しか感じられず、和食のような繊細な味わいをキャッチできずに味がないと感じて嫌がることもあります。

脳性麻痺の影響で、半身に麻痺があると、味覚にも影響を受けていて、私たちが感じているような味を感じていないケースも。

とにかく、色んな理由から、🍓やショートケーキの生クリームが嫌いな子どもたちがいるのです。

中には、甘くて美味しいものなど、周りに山程あって苦労せず手に入れることができますから、ケーキなんて珍しくも何ともない!というお子さんもおられます。もううんざりなんだ!という感じです。これは時代なんだなぁと思いますね。

あとアレルギーのお子さんもおられますね。

重いアレルギーを持っていると、食に対しての警戒心も強くなっています。命に関わるので当たり前ですね。元々食べられるものも少ないし、これはアレルギーを起こすと分かっているものは除外するので、なかなか食を広げるということができません。医師の助言の元、保護者が許可したものについてはチャレンジしていきますが、アレルギーがあるとは言われていない物でも、子どもが瞬間的に吐き出すものがあります。この場合は、体が拒絶している可能性があるので、それ以上勧めることはありません。

 

さて、私たちが美味しいと感じるものでも、厳密に言えば、みんな少しずつ味覚は違っていて、感じている味は違うのかもしれない、ということを前提に、お話を進めていきたいと思います。

発達障がいの子どもたちが、多数が好きであろう苺のショートケーキなどを「キライ!」と拒絶する時、多くの大人は、

「なんで?甘くて美味しいのに」

と声をかけると思います。

だけど、子どもたちの方は訝しげな表情をします。

そんな時、私たちは、そもそも、

「甘い」と感じているからキライなのか?

「甘い」と感じられていないのか?

「甘い」と感じられているけど、それを美味しいと感じられないのか?

ということから考え直してみなければいけません。

では、どんな風に感じているのか?

「苺は甘い」というのは概念形成された中の一つではありますが、そもそも、本当に苺は甘いのか?と考えた時、確かにジューシーではあるけれど、甘みが来る前に酸味がくることもありますよね。全く酸味がなくて、めちゃくちゃ甘い、という苺にはなかなか当たらないこともあります。そんな苺に出会えたら本当に幸運です。

正しく言うなら、甘酸っぱい、ということになるのでしょうが、酸味に弱い子どもたちにとったら、甘酸っぱいと言われても、酸味がある以上それは子どもたちにとっては「酸っぱい」であって、美味しい対象ではない、ということになるのでしょう。

となれば、いくら大人が

「甘いでしょう?」

「美味しいよね?」

と聞いても、それだけでは「うん」とはならないし「食べてみよう」とは言わないわけなんです。

黙っているか、言葉を持つ子どもなら「まずい」「きらい」などと言うのではないかと思います。

大人は、甘くて美味しいと思っていますから、まずくて嫌いだなんてわけないと思っているので「そんなわけない」と言いがちに。

でもこんな時、上に書いたように感じ方が違うことを知っていれば、「美味しくないはずない」なんて言って、子どもを固まらせてしまわずにすみます。

 

代わりに、

「どんな味?」と聞いてみてあげてください。

ただ、答えられるお子さんは少ないかもしれません。

「酸っぱい」とか「ツブツブが嫌」とか「グジュっとして嫌い」とか言えれば良いほうです。

酸っぱい、と子どもに言われたら、私は「そうなんだ、酸っぱいんだね」と一旦受け止めた上でこう言います。

「酸っぱいって味の中に、ちょっぴり甘いって味がない?探してみて。あったら教えてね」と。

すると子どもって、さっきまで酸っぱい!って怒っていたのに、え?とこちらに注意が向いて、「甘い味?甘い味、甘い味、、、」と探し出すようになります。

味を探そうと思えば、口の中で、舌を動かし、苺をあっちへ転がしこっちへ転がしすることになります。

口の中で転がす内に、甘みを見つけ、

「あ!今、すこし甘かった!」と教えてくれたら大成功です。

「苺は酸っぱいところもあるけど、甘いところもあるんだよ」と締めくくってあげると、この時の体験は経験となって

「苺は甘酸っぱい」

という概念形成がなされます。

発達障がいを持つ子どもたちには、味覚が未開発な状態であることも多いです。

だからこそ、経験を丁寧に積むことで、それまで感じ取れていなかった味を感じ、発見し、それを表す言葉として獲得させてあげることで、次第に開発されていくことに繋がるのです。

「苺は甘酸っぱい」という概念形成と共に、この味が、甘いというのか、酸っぱいというのか、と、味と言葉のマッチングが進み、味の分別が行われていきます。

 

ところが、中には「苦い」とか「味が薄くて不味い」という子どもも出てきます。

「え?苦い?そんなわけない!」と怒らずに、やはりまずは「苦いんだ」と受け止め、「その苦い味って、何の味と似てる?」と聞きます。

ゴーヤやピーマン、と答えることはあまりないかと思うので、こちらから聞いてあげたり、絵を見せてみて、これと似てる味?と聞いてみた時、似てると言えば実際にそう感じている可能性があります。

でも「ぶどう」とか「チョコ」とか「おまんじゅう」などと言った、甘い物を挙げた時、この子の「苦い」と感じている味は、「甘い」である可能性が高いです。

しかし、ここでもまだ、

「甘い」のことを「苦い」と覚えているんだね。

と結論づけるのは早いです。

まだ2つの可能性が残っているからです。

①甘い物を食べた時に、何らかの要因によって、苦いと間違って学習してしまったケース。

②本当に甘味を苦味として感じているケース。

です。

この場合は、少々難易度が高いです。

大人が甘い物を食べさせたくなくて、「これは苦いよ」とわざと教えた結果、食べた時に「苦い!」と刷り込まれて覚えている場合。

たまたま食べた時に、「苦い」という言葉が聞こえて苦いと覚えてしまったというような場合。が稀なケースとして実存します。

誰が食べても苦いようなものと食べ比べをしてもらって、「どっちが美味しい?」と聞いてみて、苺の方がまだ美味しいと答えたら、苦味でなく甘味を感じている可能性があります。

「じゃあ、あなたが食べたゴーヤは苦いけど、苺は甘い、若しくは甘酸っぱいって言うんだよ。」という風に、何度か他のものと食べ比べてみて、実際にその子どもがどんな味をキャッチしているか、丁寧に観察と聞き取りをして味を選り分けていってあげる作業が必要になります。

繰り返し、これは苦くて、こっちは甘い、と伝えていくと、誤学習していたものも、徐々に訂正され、納得しながら浸透させていくことができます。

最後のパターンは麻痺などによって味覚が影響を受けているケースです。

この場合は実際に「甘み」を「苦み」として感じていたり「味が薄い」と感じていることがあるからです。

私たちが甘いと感じている味を、本当に苦いと感じていたら、甘い物を無理に食べさせてしまうのは酷ということになります。

ただこの場合も、個人差があって、ほんの一齧りずつでも口にする内にやはり開発されてくるのか慣れてきて、食べられるようになっていくケースも私の経験上、複数ありますので、食べる機会というものは消去せずに自然に任せて経験を積むというのは大切だな、と思っています。

 

苺を例にして書いてきましたが、他の食べ物にしても、私たちの固定概念とは違う感じ方があるという前提で、そのお子さんが感じているのはどんな味かな?と知りたい時は、まずそのお子さんが感じていることを受け止めた後、

①言葉で表している味と分類が同じ味の物と同じかどうか確かめる。

②誤学習していないか調べてみる。

③麻痺のある無し

を検討することで、実際に感じている味はどんなものなのか、把握しやすくなりますので、お試しください。

そして、未経験や未開発、共に、育つ過程の中で、苦い、甘い、酸っぱい、しょっぱい、などといった、色んな味の物に触れていくことができるように、少しずつでも口にする食材、料理の種類を増やし、神経発達を促してあげていただきたいなと思います。

このGWなどはお子さんと接する時間が普段より多く持てる絶好の機会。

お子さんが日頃食べておられる物をどの様に感じておられるか会話しながら把握してみたり、これは甘いって言うんだよ、酸っぱいって言うんだよ、と丁寧に味を表す言葉を食材とマッチングしたりして、豊かな会話を楽しんでみられるのはいかがでしょうか?

新鮮な発見があるかもしれません。

 

 

 

願えば叶う。

かれこれ3年近くになる。

月に2度ほど、某市の障がいを持つ子どもたちと、その保護者の為の運動の会に、ボランティアとして参加させていただいてから。

園児から小学生。

中学生から大人まで。と、年齢層は幅広く、

クラスは2つに分かれ、開かれている。

もう、何十年も続いている会で、小さな頃から通い、すでに40歳手前になる方たちもおられる。

保護者の願いを受けて、当時の学校の先生3人が有志として開かれてから、大勢の親子さんたちが、この会に参加し、体を動かし、動くことの楽しさを覚え、人と関わる喜びを見つけていかれたことだろう。

その時の先生方が、そのまま今でも指導者として、この会を支えてこられた。

教員としての激務を熟しながら、週末にボランティア同然でこの会を続けてこられたなんてことは並大抵のことではない。

そんな、大御所の先生たちも、みなさんすでに御年60歳を大きく越え、そろそろしんどいと仰るようになられた。

 

私は、この会が開かれている同じ市で療育施設の管理者と計画の責任者をしていた流れで、退職後、ボランティアとして後方支援として参加していた。

できれば、これから年齢を重ねるしかないこの先の為にも、体力を使わなくても良い方向へと舵は切りたかったが、神経の連携を促進させて発達を促すには運動は必須。アドバイスだけでなく、どうしても、運動の場にも身を置きたい、という思いも強かった。

私に出来ることといえば、やはり療育だと思うし、これまで身につけたことをこのまま埋もらせるしまうのも忍びなかった。

何より障がいを持った子どもたちが大好きだ、と、退職したことで、更に認識を強くした。

ところが個人で大きな体育館のような場所を借りるというのは、色々と制約があり難しさがある。

運動するには器具も必要だが、高額だ。

大人数でないとできないこともある。

そう考えると、この親と子の為の会というものは、貴重な場だと分かる。

何より私は体育館が大好きだ。

 

だから、そういう環境的に恵まれた場に参加できることは私にとって喜びでしかない。

やってくる様々なタイプの子どもたちに、率先してつき、補助したり、誘導したり、動きの個別指導をしたり、アドバイスしたり、安全基地になったりしながら一人一人に丁寧に関わっていると、それまでできていなかったことが、みるみるできるようになっていった。

それを先生方も、親御さんたちも、見て知って下さっていた。

ただ、この会は親子と学校の先生との交流の場でもある。保護者にとっては学校の先生に見てもらえるというところが大きな魅力でもあり、運営を継続していく上でも、市と連携していく為には重要で切っても切れない存在だ。なので、「指導者」には、これまで園を含めて教員免許を持って実際に市内の学校園に所属されている方しか入ることができなかった。

 

私は学校所属の教員ではないので、民間出として後方支援に徹していて、また、それが私の本分でもあるのだけれど、持っている運動のプログラムを活かすことができない点では残念に思っていた。

毎年総会の名簿を見るたび、複雑な想いが胸を過っていたが、それでも私はどうしても諦めることができないでいた。

私は今では、その会が開かれている市には住んでいない。

今住んでいる市町村で、教室を開いたりすることもできるだろうし、場所を借りる料金は今の場所の方がずっと低料金で、ニーズもあるだろう。

それならそれで、拠点を今住む土地に移してもいいのかもしれない。と思いかけていた。

なぜそれほどまでに、今まで前の土地に思い入れがあったかというと、それは、自分が子育てをしてきた場所であり、受けてきた恩恵を還元したいという思いで、これまで10数年活動してきた場所だからだ。

その土地にすむ子ども、保護者、学校の先生方に還元したいと強く思ったからこそ、今の仕事にたどり着いたのだから当然といえば当然。

私の奥底では、やはり今でもずっと、その会のある市が本拠地なのだ。

自分の教室(広い場所で)を持つことは難しいから諦めた方がいいか、、、と思う反面、心のどこかでは、

いつか、叶えばいいな。

いや、叶えてみせる。

そんな風に、心の中では遠い先を見つめながら信じることを諦めていなかった。

 

すると、転機は訪れた。

祈る気持ちが通じたのか。

この春から、指導者の一員となったのだ。

ここは、言ってみれば金銭的なことは別として、私にとっては本命だ。

だからこそ、売り込むのではなく、要望される形を望んで待っていた。

その願い通り、保護者の方々の方から「指導者に」と声をかけていただいたのだ。

ここ一番、という時にはじっくり準備だけしておいて、後は「時期」が来るのを待つ、ということを大切にしている。

ご縁というものは、あちらからやって来るもの。

その流れに乗り遅れないように、流れを読むことと、準備を怠らないこと、そして焦らず待つこと。それをしていれば、願いは叶うことが多い。

 

昨日は私が指導に立つ初日だった。

それまでも取り入れられていた動きに、視覚支援としてのプラカードを加えて、子どもたちに提示、説明したところ、発語のない園児から小学校高学年の子どもたちまで、はち切れんばかりの笑顔で応え、躍動感たっぷりで動いてくれた。

何十年も続いてきたこの会の歴史を大切に、少しでも長く、指導者の一員として、この市の障がいを持つ子どもとその親と一緒に活動し、発達の底上げに力を注いでいきたい。

 

 

 

 

 

帰国子女の悩み②

同時期にもう一人、帰国子女のお子さんがおられました。

活発で利発なお子さんでした。

良くも悪くもクラスを引っ張るリーダー性の強いお子さんでした。

初めは非常に落ち着かなくて、揉め事が頻繁に起きました。

その都度、両者の言い分を聞き、かみ砕いて双方に伝え、仲裁に入りました。

とても大変な時期がありましたが、個人的に話をすると、脆く可愛らしいところのあるお子さんでした。

落ち着かなくなると先生方の集まる職員室前に行き、廊下に置いてあるソファにどっかり座り、偉そうな態勢で寛ぐようになりました。

時には大きな声で騒ぎます。

おやおや、誰ですか?こんなところで寛いでるのは?

と、ついてきていた私は声をかけ、隣にやっぱりどっかりと座ります。

なんやねん!あっち行けよ〜。

まあそう言わんと。いいやんちょっと一緒に座ろうよ。

などと言いながら、しばらく時間を過ごします。なんだかんだと話をします。

なんでこんなところ来るんかな?先生方のお部屋やで?大きな声は迷惑よ。

一応、そこは職員室であり、マナーが必要であることを伝えます。

もう、うるさいなぁ、と言いつつも、目には涙が浮かびました。

もう辛い。慣れない。おもんない(面白くない)。学校辞めたい。毎日嫌や。

そう堰を切ったように、思いを打ち明けてくれました。

そうか、そうか、辛いんか。慣れないんやな。おもろなかったんか。学校辞めたいか。毎日嫌なんやな。

とその子の思いを繰り返して言いました。

何が慣れない?と分かっているけど聞きました。

日本が慣れない。と教えてくれました。けれどそれまでいた国がいいわけではないとも教えてくれました。

言葉は巧みに話せますが、やはり自分が思うようには理解がスムーズでなく、負荷がかかっていたようでした。特に同じクラスの友達たちとのやり取りで、取り間違いがあったり、上手くいかないことが多かったのでしょう。前の国と日本とで、言葉の解釈の違いも影響しているようでした。まさに混乱が生じていたのです。

傍若無人に見えて、実は繊細な心を持っているお子さんでした。

どうして職員室前に来るのか?

それはソファがあるから。

そんな風に答えますが、その目は不思議そうに見ながら出入りする先生たちを人懐こい目で見上げ観察しています。

わざと職員室前で騒いで、先生方の注意を引いているのです。

おう、どうした〇〇。

と声をかけてもらえるのを待っているのです。

教室には、身の置きどころがなかったのでしょう。同い年の友達の中よりも、大人たちの中にいるほうが安心なのでしょう。

実は困ってるんだよね〜。

と、前に来てくれた先生に、さりげなく代弁しました。

なんや、困ってるんか、何に困ってるねん?

と、先生も関心を持って聞いてくれました。

そのお子さんが落ち着かないでいることは、他の先生方も知っていることでした。

その本人が困ってる、と言うのです。これはチャンスとばかりに先生たちも相談に乗るぞムードになるわけです。

そこで私はそっとソファを空けました。

代わりにその先生が座りました。

 

私たちは身近で子どもたちの話を聞き、気持ちを掴み、顔色や言動を見て、ちょっとした変化も逃さずキャッチして先生と共有します。学校はチームです。支援は人と人を繋ぐ仕事でもあります。一人の子どもの情報を、適切な人に渡し、適切な働きかけができるよう、アシストすることも大切な仕事です。

このお子さんは、2人になると途端に心開き弱音を吐けるようになっていました。本当は人懐こくて可愛いところのあるお子さんなのです。他の子どもたちと変わらない可愛いお子さんです。

色んな出来事がありましたが、その都度繰り返し仲裁したり、どう行動すればいいか伝えたり、対峙したり、濃い2年間を過ごしました。

こういうお子さんたちと接する場合、一目置かれる、ということが必要になります。

休み時間には追いかけっこをして、全力で逃げたり追いかけたり。

先生速いなぁ!

そう目を丸くしながら、喜んでくれたらしめたものです。

男の子はより強い相手に従う、という傾向があります。一緒に遊びながら気がつけば、すごいなぁ、やるやん、とまだまだ自分を上回る相手がいるんだ、と向上心を刺激される。そして嘘は言わない、約束は守る、弱い者の立場になって全力で守る、正しいことを教えてくれる。そういう行動に触れた時、子どもの心には勇気が湧いてきます。

そんな風に、この人は、と認めた相手のことは自然と模倣しようとし、素直になれるのです。だから、悪い方向の力を持った人ではいけません、善良な方向性の力を持った人が牽引するということが大切になります。

対峙する、というのは、日々クラスで起こる出来事に対して、心と心で話し合うということです。

ちょうどギャングエイジと言われる年齢になっていましたから、規範やルールを獲得できるかどうかの瀬戸際でもありました。

ここでしっかり獲得することは、その後の安定した高学年になれるかどうかを左右します。

海外から戻ってきた子どもたちにとってもそれは同じでした。より大きく揺れる心とがっつり組み合い、過ごしました。

徐々にそのお子さんは立ち直っていかれ、元々持っていた利発さを発揮できるようになっていかれました。

ちょうど変わった担任もお山の大将のように良い方向性の力をもった方で、子どもたちをグイっと引きつけ、牽引していかれました。私はいつもその先生と情報交換し合いながら、そのお子さんを含め、クラスの子どもたち一人一人に目と心を配り、子ども同士良い関係が築けるように働きかけました。

高学年になると、そのお子さんの新しいクラスには支援の必要なお子さんがおられなかった為、入ることが減り、たまに家庭科などにみんなの助っ人で入る程度になりました。

私を見つけると、しまった。きらめきが来た!と照れたようなイタズラっ子のような瞳を輝かせます。

遠くから見守っていると、まだ時折落ち着かない様子は残っていましたが、ずいぶん自分をコントロールできるようになっておられました。

それでも気になる素振りがあった時、トントンと肩をタッチすると、あ!そうだった!と気づきまた立て直すこともできていました。

授業が終わり去ろうとする私に、

おれ、がんばってるで♪

と声をかけ横をすり抜けていった時には、それまでの関わりをしっかり覚えていてくれてるんだなと嬉しくなりました。

言ってみれば、転校しただけでも子どもは慣れるのに苦労し心彷徨うのに、国が違うということが子どもの内部で混乱を起こし、どれだけ大きな影響を与えるか、ということを私に教えてくれたお子さんでした。

しかし、その頃にはぽっかり空いた心の穴は徐々に小さくなり、すっかり満たされているのを感じました。

 

私はその年度を最後に小学校での仕事を辞め、療育の世界へと進みました。

そのお子さんは、中学校へと進みました。

中学1年生の頃、町でそのお子さんとすれ違いました。

私はこちらからは声をあまりかけないようにしています。が、

「あ!あ!!きらめき先生!きらめき先生がいる!お母さん!きらめき先生だよ!」

と、そのお子さんは私に手を振りながら慌ててお母さんを呼びとめています。

一番私に叱られ、やいやい言われて嫌っていてもおかしくないお子さんが、大きく手を振り再会を喜んでいる。

それは、関わった月日の積み重ねがお子さんの心の中でまだ生きている、そう確認させてもらえた一瞬でした。

 

更に数年後。同じ町で、私は療育施設の子どもたちを引率し、多くの人が行き交う歩道を進んでいました。前から高校生の集団がワイワイやってきます。私の横には小学生から見ている自閉症のお子さんがいました。

高校生の集団とすれ違いざま、一人の人と目が合いました。一瞬、私と隣の自閉症のお子さんに目をやり、大きく目を見開きました。

お互いに、ほんの一瞬でしたが目の奥をキラッと光らせたことが分かりました。

 

その口元は綻び、その後キュッと口角が引き上がったのが見えました。

帰国子女の悩み。

ずいぶん前のお話になりますが、、、。

小学校で介助員(支援員)をしていた時のこと。

中学年(3〜4年生)に可愛いお子さんが転入してこられました。

礼儀正しくて、大人しいお子さんです。

私はその頃、支援学級に在籍しながらも原学級で何時間かを過ごせるようになってきていた重度の自閉症のお子さんと常に一緒にいましたので、原学級にいる時には、この可愛い転入生さんのことも気にかけていました。

日本語もしっかり話せますし、礼儀正しいそのお子さんは、周りから見て何ら問題がなく過ごせているように思えました。

ところが、転入したクラスが、その後、学級崩壊を起こします。

ちょうどその過渡期だったこともあったのでしょう。

ワイワイガヤガヤ不穏な空気の中、そのお子さんの元気が段々なくなっていくようでした。

そこの新任の担任の心が折れる頃、そのお子さんの心も折れてしまったのです。

クラスに入りにくくなった。

という連絡が入りました。

無理もありません。喧々囂々とした男の子たち、水筒を振り回してケンカするような、そんな殺伐とした雰囲気の中、きっと怖かったに違いありません。

言葉の壁もあったことでしょう。日本語は綺麗に話せていましたが、読み書き話す全てを日本語で、となると、まだ中学年ですし、分かりにくい面もあり、負担が大きかったのではないかと思います。

しかし問題はそれだけではありませんでした。

そのお子さんは、オーストラリアから帰ってきたのですが、オーストラリアの小学校と日本の小学校ではずいぶん違うところがあったのです。

住んでいたオーストラリアの地域は、学校にはスクールバスで通うことになっていました。低学年の間は授業も緩やかで、恐らく床がカーペットなのか、寝転びながら学習してもOKだったそうです。休み時間には芝生の上で転がりゆっくりリラックスすることができる。

そうそのお子さんからは聞いていました。

そんな風におおらかで、ゆっくりスタートな小学校で過ごしていたお子さんが日本の学校に入ったら、さぞかし窮屈で、しんどい思いをしたことでしょう。その上クラスが落ち着かなかったのですから。

しんどくなって当然。通いにくくなったのも、そのお子さんが悪いわけではありませんでした。

フリースクールに行きたい。

親御さんとその子が相談して、そんな希望を出して来られました。

驚きました。

他にもそういった希望を出されるお子さんたちはおられはしましたが、身近なお子さんが、という驚きでした。

でももっと驚いたのは、新任の後に来られたベテラン先生のひと言でした。

「仕方がない」

フリースクールに行きたいなら仕方がない。そういう意味でした。

いやいや、ちょっと待って。と私は慌てました。

そんなすぐ、仕方がない、でフリースクールに送り出していいのだろうか?と思ったのです。

そのベテランの先生とは、支援学級のお子さんや、支援学級には在籍していないけどサポートを必要とするお子さんのことでよくお話をしていましたので、すぐに

まずは校内に別室登校できる場所を設けてはいかがでしょうか、とお声をかけました。

やはり、段階を追って、対処してあげるのが先ではないかと思ったのです。

クラスに入りずらくても、他の部屋なら入れるか、担任の先生がダメなら、他の先生ではダメか。ずっと1時間勉強がしんどいなら、課題が終われば他のことをしても良い時間を設けてはどうか。そうやって、クラスがダメでも他の場所があるよ、他の手立てがあるよ、と、学校としての意向をしっかりと打ち出し、熱意を伝えてあげることが傷ついた保護者やお子さんには必要で大切なのではないかと直談判したのです。

学年団の他の先生方にもそんな話をしました。

急遽、会議室が充てがわれ、別室登校が始まりました。他にも不登校になりかけているお子さんもここで一緒に学ぶことになりました。

ところが暫くすると、やはりフリースクールに行ってみる、という意向が出されました。

入れ替わり立ち替わり空いている先生が出入りして関わるというもの落ち着かないものだったのかもしれません。

別室登校の仕方にも、配慮が色々と必要だったことでしょう。でも一度、こういう居場所がある、と保護者や子ども本人に伝えてあげることができたのは良かったと思いました。

会えなくなるのは寂しいけれど、絶望したままでなく、段階を経て、フリースクールにも行ってみよう、とするのは良いのではないかと思えました。

でもそこで、学校は決して見放すのではないよ、ということを伝えたい、と思いました。

私は介助員ですから、出過ぎたマネをすることはできませんが、ひっそりとメッセージを出すことはできると思いました。

フリースクールに移るという時、一通の手紙を書いて手渡しました。

そこに書いたことは、

一緒に過ごした時間が楽しかったこと。

でもしんどい部分があったよね。

その中でも友達が出来て仲良くしていたね。

クラスのみんなも落ち着けるようにがんばってまた戻ってくるのを待ってるね。

というようなことでした。

そして、

初めて入った学校がオーストラリアの学校で、そこが伸び伸びしていたから、日本の学校に来て、全然違うから、すぐには慣れなくてしんどかったよね。

だけど、オーストラリアの学校も、学年的に今ならもう机と椅子に座って授業を受けているはずだし、これからもし日本で〇〇ちゃんが過ごしていくなら、ゆっくりでいいので、慣れていくことも大切かもしれないね、、、。

みんなで待ってるよ。

というようなことを書いたのです。

その手紙を読んで、そのお子さんがどう思ったかは分かりませんでした。

ただただ、待つしかありませんでした。

 

 

半年ほどしたでしょうか。

ひょっこりそのお子さんがお母さんに連れられてやってきました。

やはり学校に戻りたい。というご意向でした。

「フリースクールには友達がいない」

それが理由でした。

それは、フリースクールが登校しにくいお子さんたちがちらほら集まる形で、同学年がなかなか見つからない、他学年の集まり、という実情があるからでした。

集団や学習が苦手なお子さんが通われますから、学習も自分で好きなものを持ってくる自習スタイル。聞けば教えてもらえますが、マンツーマンで手厚いか、というとそうとも言い切れない面もありました。

そこに通う内に、やはり学校の方が良かった、と気持ちが変化したようです。

私はそれを待つしかないと思っていましたから、本当に気持ちが動いて戻ってこられ、再会したときは非常に嬉しかったことを覚えています。

そのお子さんは、「あの時手紙をありがとうございました」と、また丁寧に律儀に私に話し、お返事の手紙までくれました。

 

子どもにとって、「友達がいる」ということほど強い動機はありません。

仮に心が折れたとしても、

まずは学校はあなたを待っている。

通える場所を用意している。

あなたを見捨てたりしない。

友達が待っている。

ここはあなたの居場所なんだ。

と、離れる前に、先にメッセージを打ち出しておくことが大切です。

「仕方がない」

と言われた保護者や子どもたちは、ここに居場所はない、と失望しまうことでしょう。

例え、帰るという選択を取ることができなかったとしても、学校が、先生が、友達が、そういうメッセージを出してくれていた、ということは、後々その親子さんの心に響いていくことだろうと思うのです。

幸いにして、このお子さんは、フリースクールに行っても、友達がいないなら寂しい、自分の居場所は学校だった、と感じて戻ってきてくれることができました。

そこから、すぐにはクラスには入らず、暫く前の別室登校場所へと通って来られました。

先生方は、良かれと思ってのことですが、入れ替わり立ち替わり空いている先生が入り、元気すぎる声で、子どもを元気付けようとするのではなく、やんわりとした雰囲気で、押しが強すぎない慣れた先生が対応する、という方がいいと思う、と話したこともあってか改善していただき、落ち着いて過ごしていかれました。

その頃、その学校では2年ごとのクラス替えでしたから、1つ上の学年になっていましたがクラスは同じでした。

そろそろ大丈夫なんじゃない?

と、廊下で会ったそのお子さんの表情を見て感じ、伝えました。

数日後、そのお子さんの方から、

「もう、大丈夫です。クラスに戻ります」と言いに来てくれました。

「そうなんやね!また一緒に過ごそう。待ってるよ」と答えました。

数日後、本当にそのお子さんはクラスに戻って来られました。

まだ元気良すぎるクラスメートが、そばを通ると、ビクッとしていましたが、私の方を振り返り、肩をすくめて、うふふと微笑むことができるようになっていました。

体育の時間では、日本式の生真面目な授業に戸惑いはありましたが、そんな表情を見た時はそっと側に寄り添いました。

時と共にそんな戸惑いの表情も薄くなり、自然な姿でクラスに交わる様子が見られるようになった頃、

「もう、私は大丈夫です😊」

とまた、そのお子さんが私に伝えてくれました。

「そう。それは良かったよ😊」

それだけ伝え、そのお子さんの肩にぽんぽんとタッチして、私はその日からそのお子さんから完全に離れました。

3年目。

クラス替えがあり、そのお子さんのいるクラスへは私はあまり入る機会はありませんでした。

でも、廊下ですれ違ったり、全校体育で一緒になった時には、目が合うと、お互いに、うふふ、くすくす、と笑い合い、心の繋がりを感じました。

そのお子さんには、私だけでなく、下足箱近くにある事務所にいつもいる事務員の方もまた、その子の靴の上に面白おかしい手紙を置いて、やり取りしていた方がいました。

担任だけでなく、別室登校で関わった先生たち、介助員や事務員さん、と、複数人の人間が、それぞれの立場でそのお子さんのことを気にかけ、接していたことも、段々とそのお子さんが、ここは居場所だと認識していけることに繋がったのではないかと思います。

 

そうそう。

 

あの手紙のお返事には、

「先生からの手紙を読んで、元気が出ました。先生が言うように、私はこれから日本で暮らしていくことになると思うので、ゆっくりと慣れていこうと思います」

と書かれていました。

 

その言葉の通り、まだ幼かったそのお子さんは、じっくり、ゆっくり、自分の内面と向き合いながら、適応への道を進んでいかれました。

 

本来なら、フリースクールは学校に通い辛いお子さんたちの受け皿として、友達関係や学習の手厚いサポート、そして居場所として十分に機能していなくてはいけないと思う反面、機能しすぎても学校に戻るチャンスを失わさせてしまうな。と私は感じています。

そして、学校にいけないなら、フリースクール、または別の居場所へ。そう早急に大人が焦って考え行動しすぎるよりも、他にしなければならないことがあるのではないかというのが私の考えです。

そして、本人たちにちゃんとした情報を話し、長い先を見据えたビジョンをもたせ、信頼して考える余地を渡してあげることも大切だろうと思っています。

小さくても、自分のこれからを感じ、考え、選び、決めて行動していく力。

これを発動するために、どう大人たちが働きかけていくのか、またどんな問いかけをしていくのか、それが大切なのかもしれません。

託される。

私が目の網膜の病気「原田病」にかかってから、おそらく16年が経ったと思う。

ある日片目の中に異次元への入り口のような円形が見え、次の日にはもう片方の目の中にも同じものが見え、慌てて評判の良い眼科を訪ねたところ、即入院して治療しなければ失明する危険があると診断された。

入院先は阪大病院。そこの眼科医の先生は、その原田病の専門医だった。

初めに見ていただいた眼科医は、その入院先の先生の先輩にあたる方だったようだ。

そこから3週間、大量のステロイド剤を投与する治療が始まった。息子は5年生だった。

難しい年頃で、置いて入院するのは気がかりだったが、こればかりは仕方なく、同居の前夫の義両親が何とか毎日学校に送り出してくれていた。

そんなある日、学校から連絡が入る。

まだ私の目は良くなっておらず、スマホの文字すらよく見えない頃だった。

電話は担任の先生からだった。

どうやら息子が6年生の卒業式の練習が嫌でごねて、連日対応に困っているというのだ。

息子に聞いてもらったところ、

「鼻がチリチリする」

と言ったそうだ。

それは、5年生が送る言葉を言い、歌を歌い、6年生から別れの言葉を返される頃に起こるらしい。

なるほど、鼻がチリチリか、、、。

私は、きっとそれは悲しくなって、泣きそうになるから鼻がチリチリ、むずむずとしているのだと思う。悲しいとか、寂しい気持ちになるんだね、と言ってやって欲しいとお願いした。きっと当日は参加できるはずだからと。

しかし、数日後、再び担任の先生から連絡があった。電話というよりは、連絡帳だったのかもしれない。記憶が曖昧になっているが。

先生は、「色々と手を尽くしてみているが、難しい。この状態では当日の参加は難しい。練習もままならない。今回は諦めても良いか」と、今回ばかりは途方に暮れた様子だった。しかも、リコーダーの演奏もしなくてはならないのに、数日前から見当たらないというのだ。だけど、なぜ人の子のことを勝手に諦めるのだ?という気持ちもあった。先生の大変さと、息子の可能性と、自分の気持ちのサンドイッチで病院のベッドの上でしばし悩んだ。

とりあえず、家人にリコーダーを探してもらったがどこにも無いという。

何故なのかは分からなかったが、先生には早急にリコーダーの手配をお願いし、当日は必ず参加できると思う。だから、諦めずに信じてやって欲しい、と話した。

それから私は息子に電話し、

「それは寂しい気持ちだと思うよ。優しいんだね。でも6年生は卒業してしまう。最後にありがとうの気持ちを込めて、参加すればそれで充分なんだよ。リコーダーは新しい物を買う。リコーダーが難しいなら、吹くマネでいい。そこに参加することに意義があるから」

と、念を押した。

6年生の卒業式当日。息子は無事に参加を果たすことができた。リコーダーは上手く吹けないところは吹くマネをしたそうだ。

毎回行事の前には大荒れになる。今度ばかりはもう無理か、と絶望するが、いや、きっと大丈夫だと、大局観で過ごしてきた。その結果、毎回ギリギリのラインだが、当日は精一杯の参加を果たしてくることができた。

先生もそれをご存知だったから、その時も、今回はもう無理だと思ったけれど、結局お母さんの言う通り、参加出来ましたね、と喜んでくださり事なきを得た。

こちらは失明するかどうかの瀬戸際に、更なる追い打ちを息子にかけられ、神に祈るしかない気持ちで入院生活を送っていて、キリキリさせられた。

そんな入院生活で、唯一救われたのが、担当医の先生のキャラだった。

ハーバード大にも留学されていたからだろうか。とてもアメリカンナイズされた感じの立ち居振る舞いで、顔は見えないけれど、非常に患者の不安に寄り添い、軽減してくださる対応で温かみがあった。老若男女どの患者さんにも出逢うと挨拶がてら、ポンとソフトに腕をタッチしお元気ですか、と声をかけられる。

年齢は私とほとんど変わらないということで、親近感もあり、住んでいた地域にも土地勘をお持ちで、診察の合間にする雑談も面白く楽しませていただいた。

 

結局、3週間の入院が終わる頃、散瞳剤の影響だと思うが、網膜が眼底に癒着し、上手く収縮できなくなり、いつも眩しいことと、今の様な3月という春先、花粉が飛ぶころや、感情の揺れる出来事などがあると、炎症がぶり返すので、多くの人が早期発見、早期治療をすれば治癒できるにも関わらず、私はその何%かの再発組に入ってしまうことになる。

その為、炎症が落ち着いても、数カ月に一度は診断を受け、状態を見ていただかねばならず、気がつけばその担当医とは16年のお付き合いとなったのだった。

 先生はマラソンもお好きで、大阪マラソンにも毎年参加されている。

医者というハードな仕事をしながら毎日走り、大きな大会にも参加するといったバイタリティには脱帽だ。

 

そんな16年の中で、私は5年前に再婚したが、今の夫も偶然に若い頃、網膜に炎症の起こるベーチェット病にかかっていた時期があり、原田病の専門医であるその先生に、一度お会いしてみたい、ということで、私の診察に同行したことがあった。

夫の年齢が若いこともあって、長年診ている私が再婚したことへの驚きも重なったのだろうし、夫も一時期阪大で研究員をしていたことも刺激になったのか、動揺が隠せなかった。

暫く成り行きを聞いたあと、徐ろに

「でも、きらめきさんと出逢ったのは僕の方が先だよねぇ、そうだよねぇ?僕が先なんだからね」

と口走りだされたのだった。

はて。

先生、どうされました?

と思いつつ

「はい、勿論先生が先です」

と答えたら、

「ふふん。そうだよ、僕が先なんだからね!」

とご満悦なご様子でマウントを取っておられた(笑)

同じ「阪大」というキーワードがプライドを刺激してしまったのだろうか、、、。

 

帰り際、夫に向かい、先生が

「きらめきさんを頼みますよ」

と声をかけてくださった。 軽いトーンではなく、しっかりとした声かけだった。

夫は「はい、大丈夫です」と答える。

 

ほら、ホンダの山本さんから言われた時、何かどこかで同じやり取りがされたような?と過ったのは、実はこの担当医とのことだった。

あちらこちらで、私は親族でもない方々から、「頼みますよ」と託されている。

そういえば、以前には、私が見ているお子さんのお母さんにまで同じことを言われていた。

 

そして毎回、皆さん、ご主人はどうされてる?と夫のことを気にかけてくださる。

 

夫とは私が勤めていた療育施設で出逢っているが、一緒に働いて下さっていた10ほど上の職員の方などは、私たち夫婦を見るたびに、涙ぐみすらする。(夫が可哀想だからではなく)

なんだか不思議な感覚になるが、赤の他人の方々から、その様なお心遣いをいただくことの有難さを噛み締めてもいる。

長年の間に私にもそういった人間関係ができていたのだなと。

(もしかしたら、夫の人徳なのかもしれない)

 

今その先生は、淀川キリスト教病院に移られ、そこの部長先生になられている。

 

まだまだこれからもお元気でご活躍いただきたい。(私より2歳若いけど)