きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

歴史を知る。

ここでいう歴史とは、学校で勉強する『歴史』とは少し違う。

身近な人が生きてきた歴史。

仕事の歴史。

教育の歴史。

そういった、教科書には載らない『歴史』。

 

身近な人で言えば、

例えば恋人や配偶者が生きてきた歴史。

父親、母親の歴史。

憧れの人の歴史。

あの人ってどういう経験を積んで今あの行動や発言に繋がっているんだろう?と関心がある人の歴史。

そして、それらが自分とどのタイミングで重なりあい、影響を受けてきたかという自分の歴史。

 

父親や母親の歴史は自分のアイデンティティに繋がる。自分はどこから来てどう育まれたのか。自分を育んでくれた人はどんな歴史を持っているのか、はたまたその父母を産み育てた祖父母はどんな歴史があるのか。それを知ることは、自分を、ルーツを知ることになる。なぜなら、自分は親の躾を受け、良くも悪くも親の背中を見て育つ。

生きてきた経験から転ばぬ先の杖として要所要所でアドバイスも受けている。そのアドバイスは親の経験からの教訓だから、知らず知らずに親の歴史の延長線上で私たちは生きている。その父母も祖父母の歴史の延長線上で生きてきたから、私たちは祖父母の歴史の延長線上にもいることになる。その祖父母は・・・と、遡るとキリがないが、ご先祖様を知ることもそういう見方をすれば親近感が湧く。

 

今の自分にとってメンターと思える人、または憧れの人、その人たちも、いきなりその場所に立っているわけではなくて、私たちと同じように若い頃、芽が出ない頃があって、紆余曲折しながら何かしら努力をした歴史があるから今がある。それを時間をかけて、少しずつ話をしながら教えてもらう。

祖父母の、父母の、メンターの、憧れの人の、生きてきた歴史は、そのうち咀嚼されて吸収されて自分の歴史になる。

 

仕事には仕事の歴史がある。

先輩方が試行錯誤し、コツコツと研鑽を積んできたから今がある。今の形になったのには理由があり、それがその仕事の歴史だと思う。時代が変わり世の中は効率化が叫ばれるけど、ある意味それはコンピューターの使い方が上手くなったにすぎない。コンピューターが無くても、何も無くても、人の力だけでも、最近の人は仕事ができるのだろうか?コンピューターが一度壊れたら、その普及の為に膨大な時間と労力がかかる。今コンピューターが使えなくなったら、人海戦術若い人たちはそれを補って何とかやりくりすることができるだろうか?

そう考えた時、また人の力が見直される時代が来るだろう。

 

仕事には、気の合わない人もいるが、その人にも歴史がある。「どうしてあんな行動をするのか」、「よくあんなこと言えるなぁ」と憤慨しても、その後には、「あの人はどんな歴史があってあの行動や発言をするのだろう?」と理解しようとする姿勢で、その人と対話してみればいい。昔取り組んでいたクラブが団体競技個人競技かといっただけでも、それぞれの思考のパターンには違いが出てくる。その人の歴史を知れば、納得することも出てくるし、理由が分かれば対策も取れる。何より理解ができるわけだから、キライではなくなり関係性が良くなる可能性がある。

 

教育にも歴史がある。

モンテッソーリやシュタイナーやオルタナティブやアクティブ・ラーニングやと様々なスタイルの教育方法があるけれど、それぞれにはそれぞれの良さがあるが、足りないところもある。だからこそ、一辺倒にはならないし、時代と共に見直され、流行り廃りが出てくる。

若い人は目新しい方法を見つけたように思うかもしれないけれど、実はそれに似た、または近いことは過去にも諸先輩方が取り組んでいる。だけれども、やっぱり足りないところが出てきたから、見直され、違う教育法が取り入れられることになる。そしてまたその教育法に足りないところが見つかり見直され、また前の方法が良かったとなる。しかし全く前と同じではなく足りなかったところは改善され(と考えられる)また導入される。だから、今目新しいと思えるものも、実は以前にも似たことを先輩がやってきたことなんだということを、先輩方から話を聞いて教育の歴史を知っていれば分かるはず。知らなければ分からない。

 

歴史は繰り返す。

 

歴史を知るということは、これからの私たちの歩む道が分かるということではないか?

 

マイケル・サンデルも正義の意味を知るアプローチには①幸福の最大化②自由の尊重③美徳の促進、という3つの観点があり、この3つが時代に合わせてぐるぐる回っていると言っている。

 

養老孟司先生は、私たちは生まれてきたときにすでに時代に遅刻している、と言っている。

今の時代が、どんな歴史の上に成り立っているのか、それを遅刻した者として先人たちに教わりながら生きているということに、もっと気づいて貪欲になった方がいいのではないか?と思う。

結果的に、自分が豊かになり、生きやすくなる。と思う。 

 

もっと、周りの人や物や出来事に関心をもとう。