きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

今は昔と今と昔。

『今は昔』

それは、「今が昔」なのか?「今となっては昔」なのか? 

私には分かりませんが、両方の意味があるとされています。

今は昔、竹取りの翁というものありけり・・・というお話も、今となっては昔の話なのですから、作者がどちらの意味で書いたかなどと、知っている者はいないのでしょう。

 

では『昔』とは?

どれくらい前を昔と呼んでいいのでしょうか?

恐竜がいた2億年前?

原始人がいた200万年前ころ?

竹取りの翁が書かれた平安時代は約1000年前。

明治時代は約150年前?

大正時代は約100年前?

昭和元年となると約96年前? 

昭和が終わってからでも既に34年前。

「10年一昔」という言葉があるのだから、昭和時代はれっきとした昔と言えるのではないでしょうか。とするならば、「今は昔」という言葉が、今となっては昔という意味で使われるなら、私が今から昭和の頃の話をするとすれば、『今は昔』で初めても、なんらおかしくはないのかもしれませんね。

 

と、いうのは前振りで、私が今回皆さんに本当に伝えたいことは、昔はいつからか?ということではないのです。

では、何か?というと、『今と昔』についてです。

何についての「今と昔」か?というと、子どもを取り巻く環境の今と昔です。

今私が接している小学生の子どもたち。そして、もう成人してしまった我が子が小学生の頃。更に私たちが小学生だった頃。その間は優に40年を越えます。

勿論、もっと人生の先輩方からすれば、90年前でもありうるでしょうが、私は聞いた話でしかなくなるので、自分自身が子どもだった時のことを思い浮かべて考えます。

私が子どもだった頃、お正月の三が日はお店がしまってしまうので、お餅やお節は作っておかないと困りました。普段でも、夜は今よりずっと早くにお店が閉まるので、家族はみんな家にいて、揃ってテレビを見ていました。テレビは1つしかないのでみんなで同じ番組を見ていました。

野球やゴルフは退屈でしたが、父親が見ていると仕方ありませんので一緒に見ました。父親が怖かったので、ドラえもんがみたい、だなんて勇気を出さなければいうことはできませんでした。

だけど、吉本新喜劇や、あっちこっち丁稚、漫才、笑点、落語、8時だよ全員集合、などなど、面白い番組もたくさんあって、それは怖い父も一緒に見て楽しみました。

週末には日本昔話を見たあとそのまま8時だよ全員集合を見るのが楽しみでした。お腹を抱えてゲラゲラ笑えば、学校でどんな嫌なことがあったとしても忘れることができました。疲れていても、癒されました。何より「家族でみている」という安心感がありました。

この、週末の、腹の底から笑える時間、家族と一緒の時間、というものは、今から考えると大人も子どももメンタルのバランスを取る為に、非常に重要な役割を持っていたのではないかと、この頃とても思うのです。同じ時間に同じ番組を見て、恐らくとても多くの国民が腹の底から笑っていたと思います。

 

水曜スペシャルでは、川口ひろし探検隊が、未確認生物であるネッシーや雪男を、もうすぐ捕まえるんじゃないかとハラハラワクワク、でも捕まえたことは1度もありませんでした(たぶん)。

花王名人劇場では、山下清裸の大将放浪記が恐らく17年間くらい放送され、その度に、やっぱり家族で、山下清が最後に作る、契り絵に感嘆したり、ストーリーにほのぼのしました。

アニメはスポ根物や、妖怪物や、ロボット物にヒーロー物、宇宙物や冒険物などが溢れ、どれも心に焼き付いて離れません。夢や希望やロマンや勇気を、そして今の時代に言うと笑われるかもしれませんが、根性をアニメから多く学んだように思います。

そして、日本昔話や世界昔話、世界名作劇場といった、文学を元にしたアニメは、大切なことをたくさん教えてくれました。親子で見ながら、いつも母が、「小公女セーラのように、逆境にあっても心を美しく持つんだよ」などと話して教えてくれました。子ども心に主人公たちが差別を受けたときには本気で腹立たしく思い、コツコツと真面目に清らかに生きていた主人公が報われた時は胸を熱くしました。「きじもなかずば」という石川県の民話は、昔のなんとも酷い風習に心を痛め、うっかり歌を歌ってしまったばかりに親を失ったお千代を思うと締め付けられるようなせつない気持ちになったことを今でも覚えています。あの頃の子どもたちは、一斉に、語り継がれる民話や素晴らしい文学を使ったアニメから、道徳感や倫理感、人権意識を読み取り学んだのではないかと思います。

弊害もあったことでしょうが、親から子へ、大切なことを伝える時、また、伝えきれない時、「テレビ」という媒体は大きな役割を果たしてきたのではないかと思えるのです。

そして、まだ今のようなゲームはなく、私たちは青空の元で散々走り回って遊びました。習い事も複数通って忙しい子どもでしたが、それでも時間はゆっくり流れ、暇な時間も多くあり、一週間が長く感じられたものです。することがないので、原っぱに寝転がり、空を見上げ雲が流れるのをひたすら見ていたり、川の流れを見たりして過ごすこともよくありました。山や森や神社や田んぼを走り回って遊び、大人にとやかく怒られた経験もあまりありませんでした。

私はあの、時がゆったり流れ、空を見上げて雲の流れをひたすら見ていた時間というものは大切な時間だったのではないかと思っています。人間の脳は、成長する為に刺激を欲していて、何か刺激を持ってこいと私たちに命令しているのではないかと考えているのですが、子どもだった私も、空を見上げている内に、暇でどうしようもなくなり、「次は何しようかなぁ」と考えだし、工作したり、何か突飛なことを思い付いたり、他にすることがないときは、これではいけないなとか、色々思い、勉強でもするか!とスイッチが入ったりと、動き出していたように思います。情報を処理するために、あの時間は必要だったし、暇だったからこそ勉強にも向き合えたり、その勉強をするなかで分からない問題にウンウンいって取り組んで、解けた時のあの快感や達成感というものが、唯一の快楽となって脳が成長していたようにも思います。

私たちの世代では、あまりゲーム依存になって引きこもった人というのは聞かない気がします(もっと大人ならではの依存症は色々ありますけれど)。それは、脳が未熟な子ども時代に、友達と日が暮れるまで野山を駆け巡り、暇だから勉強し、難しい問題が解けた!といって興奮し、アドレナリンやドーパミンが大量に出て、幸せを感じ覚えることが出来たことが大きいと思います。

今、私が接している子どもたちは、外で駆けずり回って遊ぶことは減り、学校から戻ると室内でゲームで交信しながら遊んでいます。または会わなくてもフォートナイトのように一緒にゲームが出来てしまうので、1人でも遊べてしまいます。幼くて脳がまだ未熟で刺激に弱い時期から、ゲームを与えられ没頭している子どもたち。お約束の時間を過ぎても、暴れてなかなか止めることはできなくなります。ゲームほど、刺激が強いものを初めに覚えてしまったら、勉強で受ける達成感などの刺激は勝てないのでしょう。そして、ゲームで遊んでいる間、子どもの脳はフル稼働し、エネルギーを消費し、ゲームが終わった頃には脳は疲弊してしまっているのです。そこから学校へ行きましょう、お勉強しましょう、と言われたって、そんなエネルギーは残っていません。朝から50才代の会社員のおじさんのように(ごめんなさい)、子どもの脳は疲れてヨレヨレなのです。

私は自分の息子には、ゲームを持たせたくありませんでしたが、時代の流れといいますか、持っていないことを逆に周りのママたちに指摘されるだとか、パパが買ってしまっただとか、そういうことによって結局のところ、与えてしまったことをとても悔やんだことがありました。約束事などもキチッと取り付けてから渡したとしても、ズルズルと守られなくなり、ゲームにはまってしまってから何とかしようと思っても、それは本当に困難です。それは子どもが悪いのではない、与えてしまった私たち大人が悪いのだと、猛烈に反省しました。それを子どもに謝り、「だから大人の責任としてゲームを取り上げる」と宣言し、実際取り上げました。3日3晩部屋で暴れ、部屋はボロボロになりましたが4日目には「頭がスッキリした」といって、部屋をきれいに片付けて出てきました。引きこもりにしてしまったのではと、その間とても心配しましたが、この時の我が子の変わりようを見て、取り上げて本当によかったと、ホッと胸を撫で下ろしました。

私は、ゲームを開発した会社を本当に憎んだこともありました。どうしてこんなに子どもや親が困っているのに規制をかけないのか?と心底疑問に思っていました。どうして2019年に世界保健機構(WHO)が国際疾病分類として「ゲーム障害」を定めるまで、大人は決断することができなかったのでしょうか? 大人が正常な目で見れば、子どもたちの姿が異常であることはすぐ分かるはずです。周りが、みんなが、忙しいから、自分も楽しいから、といった理由で、子どもにしっかりと向き合うことを大人が避けてきたのではないのでしょうか。経済効果やゲーム会社の利益の為に、見直されることが遅れたのではないでしょうか?

 

ここ数年、気に入らないことがあると、人に唾を吐きかける子どもが増えてきました。学校の先生や身近でお世話になっている人に対して、「クソババア」という子どもが増えてきました。非行少年でもないのに、小学1年生や2年生でもこういった行為をするお子さんが増えています。10年前には私の周りにはこんなことを平気でする子どもはいませんでした。言いたいことが上手く表現できないから、発達障がいがあるから、と、そういうことが全ての原因ではないと感じています。

 

家庭では、今はどれくらい家族揃って同じテレビを見ているのでしょうか。絵本や文学を読み聞かせするなかで大切なことを話して聞かせる親子の時間があるのでしょうか? みんなで腹を抱えて笑い転がる一時はありますか?

今、子育てをしているママさんやパパさんが、このブログを読んで下さっていたら、一緒に考えてみて欲しいのです。

今の子どもたちには、良質なアニメや絵本やお話が必要です。お母さんやお父さんや兄弟たちと、お腹を抱えて笑い転げるひとときが必要です。(テレビ局の人にも良い物作って下さいとお願いしたいくらいです)

大切なことは育てるのに時間がかかります。

大切なことは涵養でなければいけません。

大切なお子さんをしっかり見つめ、育んでいく為に、一緒に大人の責任を果たしていきませんか。

 

日本昔話が再放送された時、私はとてもうれしかったものです。今の子どもたちにはすぐには浸透しなかったようですけれど。

また、放送されないかなあ~と、本気で思っている私です。

 

子どもは育てられたように育ちます。