きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

友情に変わるまで。

昨日未明に、2人のこどもの友情について書いた。

社会性の広がりに困難があり、他者に関心を持つことが少なく、相手の気持ちを想像する力が未発達な特性を持つこどもたちにとって、自分以外に心というものを持つ存在がいる、ということ自体、本当に「気づく」のは、私たちが思っている以上に後になる。

それは、まず、自分がその時々にどんな気持ちを持っているか、ということが掴めだして、それが、気持ちを表す言葉とマッチし内言語となり、他者にアウトプットとして言えるようになり、更に他者の想像する世界(おままごと等)に入り遊び出して自我と自我のぶつかり合いになって初めて、自分とは違う、自分の気持ちとは違う気持ちを持った者がいる、ということに気づくのだろう、と思う。

内言語を育てて自分はどんな気持ちを持っているか自覚して、それをアウトプットできる。というまでに数年かかる。

他者に自分とは別の想像する世界がある、と理解するにはまた数年かかる。

そして、自分とは違う気持ちを持つ別の人格がいると理解するのは長年かかる。大人でも、この自分の気持ちと親しい相手の間に別の気持ちがあり、別の人格だと分けて理解できない人もたくさんいるだろう。

そういった、お互いに相手の気持ちや置かれた状況への理解が苦手で、自分の気持ちを表すことがしにくい子達にとっては、「友だちができる」ということは、まさに上に書いたような力が育ち、共感性が出て、社会性に広がりが出たことを表している。

 

ここにきて、思いしらされたことがある。

私たちが日々子どもたちと接し、言葉を獲得し簡単な会話ならできるようになり、もう友だちができるだろうと踏んでいても、会話のキャッチボールができるかどうかだけでなく、自分のしたいことばかりで「~していい?」といったお伺いの言葉がない、とか、お伺いを立てたとしても語尾が上がってなかったとか、呼んだ時に返事はあってもこっちを向いてくれなかったとか、ちょっとだけ距離が近いとか、そういったとても繊細で些細な違いを子どもたちはキャッチして、「なんかヤダ」と拒否されてしまう。

定型発達の子どもが相手ではなくて、同じ特性を持つ子ども同士でも、それはキャッチされ、避けられてしまうという現実の厳しさ。

 

困難さを持った子どもたちにとってはそれが自然な話し方で、ちょっと語尾を上げて質問するだなんて、外国語を話すくらい大変で疲れることだろう。

それでも・・・。

勿論、限りなくスモールステップを踏んで、会話に必要な概念形成やら、発音やら、会話の定型やら数や文字やと伝えて、そろそろ良い頃かな?と語尾を上げて聞くスキルなどを伝えるのは、そうしなければ、外の世界で、いえ、中の世界ででも彼らが本当に欲している「ともだち」というものを得ることができないからだ。

 

この先、私たちが傍を離れた後も、自由に気の合う友だちを見つけて、ワイワイ楽しく会話したり、遊んだり、悩みを打ち明けたり、そんなことができる大切な人を1人でも多く見つけて、支え支えられながら幸せに過ごして欲しい。

その為に練習する。

 

だから、昨日「友情」に書いた出来事は、奇跡の瞬間だった。

 

彼女たちは、「友情」という名の宝石の原石を手に入れたのだ。

 

これからだって、きっと見つけてゆけるだろうと信じることができる。