今日も、平和な朝を迎えましたね。
「必ず陽は昇る」と、平和な朝がくることが当たり前のように、よく表現されます。
どんなに不安な夜を過ごしても、朝になれば輝く太陽が、そんな不安を蹴散らしてくれる。あの不安はなんだったのか、と馬鹿馬鹿しく思わせてくれる。「朝」というのは、そんな清浄作用を持っているのです。
だけど、1995年(平成7年)1月17日の朝は違いました。
午前5時46分52秒。
私は宝塚にいました。
大きく横滑りしたあと、信じられない縦揺れが起こりました。
第二次世界大戦後、初のマグニチュード7.3の大きな地震災害。阪神・淡路大震災。
家の中は何もかもがひっくり返り、タンスを乗り越え部屋を出ました。足の踏み場もありません。
一歩外を出ると、周りの住宅は皆傾き、菱形になっていました。辺りはガス漏れで危険な状況です。一旦避難して、また夕方に少しの荷物を取りに戻った時、周りの、菱形になってドアが開けっぱなしの家の人びとが、それぞれ戦時中の疎開の様に台車に家財道具を積み上げて、避難していくところでした。
小林から西宮北口までは沿線の住宅はほぼ倒壊し、信じられない無惨な光景が広がっていました。
私は、西宮育ちで、その1、2年前までは門戸厄神に住んでいました。前に住んでいた家は倒壊していたので、もし、引っ越していなかったら私は生き埋めになっているところでした。
同級生たちは皆、被災し、私はおにぎりを友だちの家に差し入れにいきました。
仁川に住んでいた同級生ご一家は、地滑りで皆さん亡くなられました。友だちは25歳でした。
25歳。まだ若く体力もある若者です。その歳で亡くなった方は数名でした。地滑りがなかったら、きっと生きておられたのに、と思うと今でも胸が痛みます。
私はあの時の、亡くなられた方々の名前が載った新聞と写真集を今でも大切に持っています。
不安をかき消し、希望をもたらす朝なのに、到底そうは思えなかったあの日。
今日は、あの28年前と同じ、火曜日です。
地震は起こらなかったけど、ロシアとウクライナでは今日も悲惨な朝を迎える人びとがいます。
希望の朝が、当たり前ではない日がいつかまた来るのかもしれません。
今日、迎えたこの平和な朝は、貴重な朝なのです。