きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

本当に欲しいもの。

子供の頃から、集団は苦手でした。

親が転勤族で、慣れたと思ったらまた転校し、いつも私は「転校生」でした。

すでに出来上がった友だち関係の中に入り込むのは容易ではなく、グループに入っても、どこか寂しく、いつも心の底で「本当の友達」を欲していました。

 

そんな子供時代が影響したのでしょうか、私はいつもどこか人恋しく、周りの人を理解したいという想いが強くなりました。

養老孟司さんは、「世の中は全員が遅刻してきている」と言っています。自分が産まれた時にはすでに世の中というものが存在する、という意味で、あとから産まれた者としては、それは仕方がないものだから、取り敢えず受け入れるしかない、というのです。これは仕事に関するお話の中で言われていることですが、当然人生に置き換えて考えることができます。

同じことを内田樹さんは、「すでにサッカーのゲームが始まっているところに入るには、必死で周りを見て学ぶしかない」というように分かりやすく例えています。

このお二人が言うように、転校生は、常にすでに出来上がっている人間関係の中に放り込まれ、すでに始まっているゲームの進行状況を必死に見て学ぶことを余儀なくされてしまうのでしょう。

転校をしたことがある方なら、子供心にこれがどんなに大変なことかご存知だろうと思います。

私もそうして学ぶ内に、人を観察するということを身につけ、いつしか、人を知るということが大好きになっていました。

 

ところが、自分が人のことを知れば知るほど、理解すればするほど、同じ様に自分も人から知られたい、理解されたいと思う様になりました。

自分のことも全ては分からないのだから、他者のことなら、殊更に、全て分かるはずはないのですけれど、もう少し、見つめて欲しい、というところなのだと思います。

 

時が過ぎ、私も様々な経験を重ねてきました。

上手くいかないこともたくさんありました。

例えば、子どもが学校に上がり、ママさんを集めて行うスポーツのチームでは、その種目の経験者は私一人でした。他種目から来ているメンバーにルールやら練習メニュー、上達のコツを伝えていく過程には、困難がつきものでした。

また、仕事では、障がいを持つお子さんの療育をする施設で、どのようにすればお子さん達が改善し、より良く育っていかれるか知っているのはいつも私一人でした。

そういった状況の中で、一人ひとり置かれた環境も、理解の仕方も違う他者への、物事の伝え方というものを学んでいったように思います。

これは、一足飛びにというわけにはいきませんから、相当な忍耐力と、先を見据える力を求められます。

何のことを言われているのか分からないという段階のメンバーに、1つずつ丁寧に手渡していく日々の中でもまた、私は「理解されない」苦悩というものをどこか心の中に抱えていました。これは管理職の皆さんなら、一度は経験された悩みだろうと思います。

 

この、「経験者が私一人」という設定に何度も遭遇することについては、何か意味があるのだろうか?と、私は考えざるをえませんでした。

 

例え、すぐに理解をされなくても、障がいを持ったお子さんへの療育を止めるわけにはいきません。一人でも多くのより良い療育者を育成する為には、前を向いて歩いていくしかありません。

 

「理解されたい」という気持ちを心のどこかに持ったまま、それを一旦扉の中にしまって、目の前の「理解されにい」子どもたちへの療育に没頭する毎日を過ごしていました。

その毎日を過ごす中で、なぜ「理解されにくい」のかについて内省を繰り返し、その原因に突き当たりました。

それは、私が言っていることが、「10年先のこと」だということでした。

「〜〜すれば、きっと〜〜になる」というように、私にはハッキリと今、掴めている事が、実は10年後に実現するという内容だったということに気づいたのです。

これでは、理解されなくても当然でしょう。

それからは、「きっと10年後にはこうなる。そのために今〜〜する。そうすると、1年後にはこうなって、3年後、5年後にはこうなるはずだから」と、近い将来についても説明するようにし、1年後、3年後、5年後と、実際に説明した通りになった結果を見てもらい、納得してもらう、という方法を取るようにしました。

それによって、「理解される」という状況を作っていったのです。

 

ところで、私には13年目のお付き合いになる自閉症のお子さんがいます。

小学1年生で出逢った時、発達の先生から、「この子は5分前のことも記憶には残らないだろう」と言われていました。発語もできないと言うのです。発達の先生がそう言うのですから、学校の先生方の誰もがそれを信じて疑いませんでした。

実際、たった今、危ない場面に遭遇していても、5分後には忘れて、またその危ない場面に行ってしまうので、片時もそばを離れることはできませんでした。

 

ただ、私は、諦める気持ちにはなれませんでした。それからずっと観察を続ける内に、カラスを見て、「かぁ」と呟いた瞬間をキャッチしたのです。カラスが「カァ」と鳴く。過去にそういう場面にその子が居合わせ、それを記憶していなければ、今カラスを見て「かぁ」と呟くことはできませんから、その子には、かなり前のことを記憶する力があるということではないか? また、「かぁ」という音を作り、発する力もあるということになるのではないか?

そう考えた私は、それからというもの、誰も理解し信じてくれる先生はいませんでしたし、お母さんすら信じてはおられませんでしたが、物には名前があることを繰り返し伝え、粗大運動を一緒に行いながら遊び、手先のトレーニングをしながら文字の読み書きの練習を毎日続けました。時には先生方に呆れられ、介助仲間には邪険にされることもありました。

それから3年後。そのお子さんが4年生になった時、「おはよう」「さよなら」を始め、発語は10個あり、ひらがなは視写が出来るようになりました。

私が、療育施設に移ってからも、そのお子さんは後をついてきてくれました。

出逢ってから12年後のこの3月に支援学校の高等部を卒業しました。

発語は30語を軽く通りすぎ、自発的に場面に応じた発言が見られるようになりました。絵カードや、ひらがなを見て、書ける漢字は10文字以上です。

12年前、誰も想像していなかった姿でした。

発語が出だしたころ、「きっと話せるようになる」「文字を認識し、書けるようになる」と言う私のことを、お母さんは信じてくれるようになっていました。

12年もの間、家庭ではお母さんが、学校や施設では私が、そのお子さんに関わり続ける内に、お互いに暫く会えていなくても、お互いの心が手に取るように分かるようになっていました。お互いを案じ合い、切磋琢磨するうちに、戦友のようになっていたのだろうと思います。

 

責任者を退いて、療育アドバイザーとして、これからは自分の家族のケアもしながら、ゆったりとしたペースで進んでいく、と話した私に、12年もの間、お互いにお互いの背を見つめながら歩んできた、そのお母さんが言いました。

 

「いつも、理解されにくいと思ってきたでしょ」と。

「それは仕方がなかったわ。だって、人生何周り目?って感じやもん。」

「仙人みたいやから」

「遠くにいる人って感じ。この星の人じゃない」

そう言って、温かく笑っていました。

 

そして、

「これからは、大親友として」

とも。