きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

母の人生。幸せとは。

母は、天真爛漫な人でした。いつもユーモアを忘れずに、笑顔が耐えない人でした。

私がこどもの頃は、よくダジャレを言っていたのを覚えています。

こどもだった私は、そんな母を半ば呆れ気味に眺めていたような気がします。

呆れる程、突拍子もなく見えていたからでしょう。今思えば、呆れる程愉快だったということだと思います。

 

私が障がいをもったこども達に、親父ギャグならぬ、おばさんギャグを使って、他者とユーモアを共有できる力を養おうとしたのは、この母の姿が瞼から離れなかったからかもしれません。

私にユーモアの大切さを教えてくれたのは母でした。

 

そんな母ですが、人見知りな一面も持っていました。親族の集まりや、仕事場の飲み会などは苦手で、居心地が悪いと思っていたようで、自分の父親の葬儀の会食からも、こっそり抜け出す姿を見かけたことがありました。

人付き合いが苦手だったからかどうかは分かりませんが、母は、動物が大好きでした。人といるよりも、動物といる方がずっとずっと楽しかったのだと思います。

母が若い頃は、田舎に住んでいたこともあり、野生のトンビを手懐けて、鷹匠の様に口笛を吹けば腕に止まるまでになっていた、とか、放し飼いで飼っていた犬は、母が学校から帰ってくるのを遠い遠いところから嗅ぎつけて、途中までお迎えに来てくれていた、というような話を、繰り返し聞かされていました。

 

私が小学校から帰ると、度々見慣れぬ動物が家にいました。それは、ゴルフ場で母鳥からはぐれてしまったキジのヒナだったり、アヒルだったり、オカメインコだったり。大人になってからも帰省すると、ウーパールーパーがいたりしました。

犬や猫は当たり前で、うさぎや金魚にフナ、全盛期はインコが40羽にもなっていました。

犬や猫の毛アレルギーの私が喘息で苦しむのを見かねて、祖母が母に「犬や猫と子ども、どっちが大切なんや!」と怒った時、母は間髪入れず、「犬や猫!」と答え、呆気に取られました。

友達のお母さんは、手作りのおやつを作って待っていましたが、私の母は、私が帰宅すると外でノコギリや金槌を持ち、木を切ったり組み立てたりして動物の小屋を作っていました。

ムツゴロウさんが大好きで、「もし、私がいなくなったら、北海道のムツゴロウ王国にいると思って」と言って、娘を不安にさせるような母でした。

 

曲がったことは大嫌いで、お母さん同士が集まっての井戸端会議で、人の悪口をあれこれ聞くくらいなら、一人でいた方がいいというような人でした。

私が転校生でいじめられたら、相手のお家に話にいってくれるような人でした。

「間違ったことをしていないなら、一人でもいい、胸を張って生きなさい」と教えてくれたのも母でした。

 

私は今、仕事で出逢った子どもたちに、「いじめはけっして許さない」と話しています。不当な扱いを受けても言い返せずに黙っている子には、「あなたはこんな扱いをされていい人ではない。怒っていいんだ、あなたにはそれだけの価値がある。」と話します。いじめっ子には、「いじめられていい人なんて一人もいない。みんなお父さんお母さんに大事に育てられた大切な人だから。あなたはどうして人をいじめるのか?」と、真正面から向き合います。

相手が子どもでも、真正面から向き合うことの大切さを教えてくれたのも母でした。

 

しかし母は、最初の結婚で、夫とは上手くいかず、幸せな生活ではありませんでした。その最初の夫とは、私の父です。

最初の夫である私の父とは、私が中学生の時に別居し、私が成人した頃に離婚するまで、女手1つで必死に働いて、私たち姉妹を育ててくれました。

その後、優しい人と再婚しましたが、お互いの親族のことで意見が割れて、また離婚しました。

段々歳を取り、一人で生きていくのは辛いからと、パートナーを探して15年程前にもう一度結婚しました。

 

事故やらケガが多い人生で、長い入院生活の末、認知症になり、私たちのことも時々危うくなってきました。孫である、私の子どもたちのことは、もう分からないかもしれません。

 

でも、今の旦那さんである義父のことは忘れません。毎日3食欠かさず作ってくれて、母の大好きなスイカやイチゴ、焼きそばなどを「ほれ、〇っちゃん、ご飯やで〜」と言って出してくれます。トイレの介助も嫌がらずにしてくれています。投薬からヘルパーさんやデイの日程まで、全てきっちり管理し、「命ある限り」と、自分も高齢にも関わらず自宅で面倒をみてくれています。

「施設の話がでたら、〇っちゃん、泣きよんねん」と言って、大事にしてくれています。

入院しても、可能な限り、毎日面会に行っています。

 

母は、恵まれなかった時期に、いつも「人生を共にするパートナーが欲しい」と言っていました。今の義父と再再婚する時、「私たちと遠く離れてしまうので会えなくなる、私や孫とどっちが大切か」と止める私に、またもやきっぱり「パートナー」と答え、愕然としました。

 

そんな母は、甲斐甲斐しく面倒を見てくれて、面白可笑しく共に生きるパートナーを得ました。

 

「家に帰りたい。家がいい。」と言い、義父が面会に行くとにっこり笑う母は、認知症になり、入院もしていますが、人生の終盤に、あんなにも渇望していたパートナーを得て、今が一番、幸せなんだと思います。