きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

きらめき療育論: 不登校になったら、登校刺激しない方が良いと一律に考えてしまうのはなぜ?

「見守ってあげて。」

「登校刺激はしないであげて。」

「学校なんて行かなくていい。」

という言葉は大人にとって耳障りの良い言葉です。

気持ちがスッと楽になりますね。

悩める大人たちは、この言葉に寄りかかり、「自分の心」の居場所としてしまうようです。

 

それはなぜ?

子ども達のタイプは千差万別なのになぁ。

 

良く子どもたちのことを知らない方が、巷に流れる情報に乗って、さもありなんという風に発信しているものをよく見かけます。そして、それが支持を集めている様子も。

この風潮、ちょっと怖いなぁ。みんな楽な方に流れ、大きな川になっていくと、大切な物は見えなくなり、この不登校という問題は、逆に非ぬ方へと移っていってしまうかもしれないなと感じています。

みんながこの言葉に安堵し寄りかかってしまうのは、考えることを一旦止めて、楽になるところがあるからかもしれません。それは大人が楽になる為の選択とも言えるかもしれません。

 

子ども達のタイプは千差万別。

ただ、持っている特性によって大きく分けることは出来ます。

そこから学校で起きたことや人間関係、トラブル、家庭環境、などといった背景による影響を考慮していくので、千差万別になっていくのですが•••。

 

この、元の大きく持っている特性によって考えるという重要な視点が、上に書いた3つの言葉からは抜けているのです。

 

誰もが不登校の子どもたちを助けてあげたいと願っています。

だけど、それなのにASDADHDといったものを勉強しないのはなぜなんでしょう?

 

見守る、というのは、その子の様子を知る為に観察したり、動き出すかどうかを注意深く見ながらも待つ、という時には必要ですが、それならば、いつまで見守ったらよいですか?

ASDの子どもたち、またはASDADHD混合の子どもたちは、見守ったからといって、その間に自分で様々なことを考え、吸収し学べるかというと難しい面があります。認知面で獲得し損ねた部分があるからこそ不登校になっているところがあるので、きちんと教えてあげなくてはいけないのです。

登校刺激をしない、と、こどもはどう理解するかご存じですか?

登校刺激してこない大人の姿を見て、感じて、「あぁ、僕は私は、これでいいんだな」ということを学んでしまうのです。

学校なんて行かなくていい、と言ってしまうとその後、どうなるかご存じですか?

そのままズルズルと時が過ぎ、さあ、そろそろ何か学んだり、得たりすることが出来る場所へ行きましょう、となった時、またはそれによって本来身につけるだけの力があった学力やコミュニケーションを身に着けられなかった時、

「親が学校なんて行かなくていいって言ったんやろ(だから行かない)」

「親が学校なんて行かなくていいなんて言ったからこうなったやろ(親のせい)」

と、自分の人生の主役は自分であるということが良くのみこめていない子ども達は、その全責任を、親やそう言った大人に被せてしまうケースも多く出てくることでしょう。

その時に、その子どもの主張を覆そうと思っても、それは至難の技なのです。なぜなら、過去は戻って来ないからです。

 

定型発達といわれる子どもたちが、いじめなどにより、一時期休養が必要で、見守り、登校刺激しない間に癒され、また元気になったら、「やっぱり学校に行く」と言えるようになるとか、違う場所だけど、「他者のいるところで学びたい」と言ってくれるようになるのと、ASDADHDの子ども達が不登校になるのとでは、根本的に問題が違うのです。

 

不登校になる時の問題は、1つではありません。

多くの問題が複雑に絡み合って、不登校に繋がっています。

絡み合った多くの問題について、よく調べ、丁寧に丁寧に選り分けて、その1つ1つに対処しきちんと改善していくことが大切で、そうして初めて、そのお子さんには見守りが必要か、登校刺激な必要か、または別の選択肢が必要か対応方針が決まるのです。

その過程の重要さをご存じないまま、「見守りが必要だ、登校刺激をしてはいけない、学校なんて行かなくていい」、とあたかもよくご存知の様に発信している人の主張をそのまま受け取るのは安易です。

 

不登校の子どもたちを助けてあげたいと願う方たちは、同時にASDADHDについて、深く深く子どもたちの内部で起こっていることを学んで下さい。

それはただ本で読んだり、少し接しただけでは到底理解し得ないものでしょう。

目に見えない内部の事は、簡単には理解できないのです。

だから、簡単に、見守りましょう、登校刺激をしてはいけません、学校なんて行かなくていいと言ってあげましょう、と、言ってはいけないのです。

大人も、楽になりたくて、安易に信じてはいけないのです。

もっともっと、私たち大人は、子どもたちの内部で起こっていることについて、学んでいくことが今求められているのではないでしょうか?

 

逆に言うと、深く学ばず、子どもたちの内部で起こっていることをよく知らない人が、さも知っていると言う風に、言ってはいけないのではないかと思うのです。

だからこそ、療育施設には経験者や専門資格を持った者が必要な人数いなければならないし、児童発達支援管理責任者が置かれているのです。今はこの児童発達支援管理責任者も、2年のOJTを受けなければ本配属できないなどと厳しくなっています。それでもまだまだ力としては不十分な方もたくさんいます。

経験者や専門資格を持っている方がみんな深い知見を備えている訳ではないのが実情です。その質を向上させる為に、研修が課され、国も厳しく管理しようとしています。

そういう場所で、日々特性を持った子どもたちと切磋琢磨しても、深く理解することは難しいのに、その経験すらない方が、よく知らないまま発信し、多くの方がそれを信じてしまって、大きな流れになり、日本の未来を変えていくのは大変恐ろしいことだと思います。

 

それは、ある意味、1番見てあげなくてはいけない子どもたちを観ていない、というのと同じなのではないだろうか?とさえ思えてしまうのです。

なのに一律に一まとめにして簡単に言ってしまうのは無責任だし、大雑把すぎるように思います。

 

子どもたちは未来ある人たちです。

その未来に、結局責任を持たなくてはならないのは、子ども本人であり、保護者であるお父さん、お母さんです。

だから、私たちは個々の不登校のお子さんの背景や特性のある無しやその時の心の在り方、そして親御さんの方の意向やお考え、背負っておられる課題や心情をよくお伺いしてこの先のことを一緒に考え、知恵をお貸しすることを忘れてはいけません。

 

検討は慎重に、真剣に。

 

定期的に関係者や様々な専門家と情報交換をし、アドバイスを交えて、

一番そのお子さんと親御さんにとって最善だとその時点で思える方針を、

吟味に吟味を重ねて進めることをお勧めします。

 

悩みながらも、最善だと思える選択をして進んでいくことができたら、万が一将来子どもから、

「こんなはずじゃなかった」

と言われても、

「その時に関係してくれたみんなで、これが〇〇にとって最善じゃないかと相談して進んできたんだよ」

と言ってあげられるのではないでしょうか。