自覚がないのが困りものだけれど、時々、長く生きてることに自分でびっくりする時がある。
好きな服、好きなバッグ、好きな靴、好きな雑貨達。
好きな物は、飽きが来ないので、結果的に長く手元に残りやすいのだろう。
昨年春に転居して、かなりの物を処分した。だから尚更、今手元にあるのは、それでも好きだから捨てられなかった物達ということになる。
キュリオケースに並べるために、段ボールに詰めていたガラス細工達を一つ一つまた出しながら愛でている時、その中の1つに目が止まった。
ああ、これは、私が小学生の時、大切にしていたものだ、と。
紫色したガラスの小さな小さな犬と、これまた小さな陶器のアヒル。友達の家に行く時、いつも持っていたっけ。
あれから約40年ほどの月日が流れたが、阪神大震災でも割れずに残ってくれた。長い長いガラス細工との年月に我ながら驚いていた。
今日は、そうだ!もう必要の無いバッグをメルカリかヤフーフリマにでも出そう💡と思い立ち、ケースをごそごそ。
でもやっぱりバッグも転居の時に吟味したから、お気に入りばかりだ。
それでも1つか2つは減らせないかと、思案して、安いものだけど、色が綺麗で買ったエメラルドグリーンのトートバッグと、滅多に使わないハンドバッグを選んだ。
エメラルドグリーンの方は、その色が合わせる服を選ぶので、使用自体は数回しかなかった。これからは更に出番は減るかもね、と思ったから。
写真を撮り、テキパキと作業して、購入されればいつでも出せるようにしておいた。
さあ、お次はハンドバッグ。
これは、、、。
私は実は若い頃は百貨店で働いていた。直営社員だった。
10年近く働いて、結婚し、その時に花嫁道具の1つとして、当時自分が担当していたメーカーの1つであった冠婚葬祭にも使える良質の牛革のハンドバッグを購入していた。
そういえば、その時の嫁ぎ先の義母には、一回り大き目のバッグを一緒に買ってあげたのだった。
華やかなブランド品などではない。
どちらかというと控えめで、長く形の変わらない定番のバッグだ。
でも、縦と横の長さのバランスや、裾にいくにしたがってやや広くなるシルエット、蓋の縁の丸み、持ち手の長さ、控えめな金の飾り。シンプルの中にある品の良さは見ていて飽きが来ずに好きだった。
その時のセールスさんが、
「これはずっと使える一生ものだよ」
そう言っていた。
いくら良質な皮革でも、一生ものとは大袈裟な。内側の生地だって、時間が経てば加水分解が始まる。きっと、売るためにそう言っているんだなぁ、と、その時は半信半疑だったが、半分は、10年使えればいいや、ぐらいの気持ちで、もう半分は、その当時の自分にとっては高価なものには違いなかったので、そういう一生ものといってもらえるようなバッグを買うということや、フォーマルな場面で使えるものをきちんと持つことができたという喜びが大きかったのも確かだった。
思った通り、初めの10年は、仲人さんへのご挨拶や、友達の結婚式など、何度か活躍してくれた。
しかし子供が生まれると、そんな堅苦しいバッグを持って出かける機会は激減し、いつもクローゼットの奥に大事に終われる運命となっていった。
時々、出しては見ていたが、特に手入れをすることもなく、また袋に入れて戻すことの繰り返し。カビが生えていたっておかしくない。
恐る恐る、袋から取り出す。
見たところ、特に痛んでいる様子はない。少し、背面や被せ部分に私の手の汚れがついていたのだろう、うっすらと白い部分がある。
皮用のクリームを柔らかい布にほんの少量取り、揉んで布に均等に馴染ませる。慎重に、そっとバッグをその布で優しく撫で、クリームを行き渡らせた。
長年、栄養をもらっていなかったそのバッグに、クリームは即座に吸い込まれていく。
徐々に全体に塗り進めていった。
背面に、2本、微かな爪痕が残っている。
そこには念入りにクリームを塗る。
分かってはいたが、スーッと微かな傷も潤い消えていくのを見ていると、若かりし日、メーカーから派遣されていた販売員さんたちが白い手袋をはめて、暇さえあれば布で拭いて手入れしていたのを思い出し、感慨深かくなっていった。
久しぶりの栄養が行き渡ったハンドバッグは、潤い、艶やかな光のある黒色を復活させていた。
約30年前に買った当時の姿と何も変わらないそのバッグを眺めていて、購入するときにセールスさんが言っていた
「一生ものだよ」という言葉が頭を横切って行った。
あの時、本当に30年経っても同じ姿で、私の手元にこのバッグが残っているなんて、信じることはできなかった。
この先、私の寿命はどれくらいあるだろうか。せいぜい10年か20年かもしれない。
その間にこのバッグを持つ機会は1回あるかどうかかもしれない。
残しておく価値があるかと聞かれれば、ないのかもしれない。
売ってしまったって、いいかもしれない。
だけど、あと10年か20年すれば、このバッグは確かに「一生もの」になる。
私の家には、まだ服だの靴だのバッグだの雑貨だのと、物はたくさん残っているが、その中で子どもの頃からや、若い頃からずっと手元に残ってくれていた物というのはそう多くない。
ガラスの犬と、陶器のアヒル、そしてこのハンドバッグは、
私は「一生もの」を持っている。そう言わせてくれる私にとっての貴重な思い入れの品なのだ。
そう、思い直して、メルカリで売るのは止めにした。
メルカリには、このバッグと同じメーカーのものがたくさん出品されていた。
同じように2、30年経っていても、ほぼ目立つ傷もなく、綺麗なままの姿でいる。
でも、今の時代、このフォーマルバッグの需要は少ないだろう。
2000円や3000円という安価で出されているのを見て、虚しくなった。
しかし中には10000円から30000万円の値をつける人もいる。そういう人は、高く売りたいという人もいるだろうが、このバッグの良さをちゃんとしている人も中にはいるのだろうと思う。
今はセカンドストリートをぶらぶらしていると、プラダやコーチのバッグなんてゴロゴロ数千円で売られている。30000円もすればいい方ではないか。
昔は、その品質から一生ものだと言われていたブランド品たちは、今はいとも簡単に安く売りに出され、そのお金でまた新しいものが買われていく。
片や、そう高額でなくても、その人にとって思い入れと縁があり、一生ものになっていく物も。
「一生もの」を生むのは、品質だろうか、それとも大事にする心なのだろうか。

(La Moda HASEGAWAのフォーマルバッグ)