きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

全ての子どもたちに愛を。

はてなブログに『「生きる」を考える』、という名のブログを書いておられる天然!(id:aki3nak)さんという方がおられます。

この方が以前に、「子どもは野放し 公共施設でのマナー」と題して、斎場を走り回る子どもたちのことについて書いておられました。

この方自身が斎場にお勤めということで、お仕事柄、生と死をこの方の視点から綴られていて深く考えさせられるものがあり、この斎場を走り回る子どもたちについても読んだ後、しばし私の中にも余韻が続きました。

内容は、亡くなった親族の火葬を待つ間の子どもたちの行動が、あまりにもその場にそぐわないものであったことと、それを親や親族たちが誰も注意をせず、各々知らんぷりであったということに対して問題提起されているといったもので、私たちにとっても決して他人事ではないなと身につまされるものでありました。(是非皆さんも、1度この方の記事をお尋ねください。)

私がこの記事が気になったのには理由がありました。

読む前日のことです。

私は近くのスーパーに買い物に出かけました。

カートを押して、広い通路から、目当ての物が並んでいる棚と棚の間の狭い通路へと曲がろうとした時、小学生の2人の女の子が、通路に対して斜めに置いたカートにつかまり止まっているところに差し掛かりました。

「すいません」と遠慮気味に小さく声をかけて横を通ろうとしたところ、横で商品棚を腕組みをして仁王立ちで見上げていた若いお母さんが、姿勢はそのままで、ゆっくりと顔だけ斜め下に向け、子どもたちが押しているカートが通路を塞いでいるのを確認されました。

お母さん、気づかれたな、と思った次の瞬間でした。

腕組みをしたままのその若いお母さんは、姿勢は前を向いたそのままで、少し離れていたそのカートを、長い足だけをぶっきらぼうに使い引っ掛けて、ご自分がいる商品棚の方へガン!と押して寄せられました。無言で。

 

絶句しました。

足で?と。

 

そのままお母さんは私の方は見ずにまた何事もなかったかのように商品棚の方へと目線を移されました。

 

私はもう一度「すいません」と言って通り過ぎましたが、なんだか複雑で後ろ髪が引かれる思いがしました。

立ち止まって、何か言おうかと迷いました。

でも言えませんでした。

 

自分たちが他者の邪魔になっていることに気づいても、すいませんの一言も言わずに迷惑そうにカートを避ける女性たちはよく見かけます。なんなら避けない人もいます。

それに比べると、このお母さんは気づいて娘たちが押すカートを動かして避けてくれたのですから、きっと悪い人ではないのだろうなと思いました。

でも、足で避けた人は初めて見ました。

足でもなんでも、避けたのだからいいではないか、そうも思おうとしました。

ただ、気になったことが一つありました。

 

カートを押していた2人の娘さんたち。

その娘さんたちが、お母さんが足でカートを引っ掛けて押して片側に寄せた直後に、二人共が一瞬、ビクッ!と小さく飛び上がったのです。

それが何を意味していたのか、、、。

一瞬ですから勿論分かりません。

分かりませんが、娘さんたちがお母さんの態度にびっくりしたことは明らかでした。

日頃からそういった態度にびくびくしているのか、はたまた自分のお母さんが足だけでカートを寄せるといった行動にびっくりしたのか。どちらかではないかなと思いました。

 

この、2人の娘さんたちのことが気になりました。大人しそうな娘さんたちでした。

ビクッとしたということは、このお2人にとって、そういった行為というのはまだ普通にはなっていないということではないかなとも考えられます。

このお母さんと共に暮らすそのお2人は、これからどういった道を育っていかれるだろうか?とひっかかるものが心に残りました。

余計な老婆心といえばそこまでですが。

 

これは私が小学生の子どもたちを育てていた20年程前の頃のことです。

髪をキンキンに染めていたママ友だちがいました。

そのママ友だちの息子さんが高学年になった時のことです。友達と一緒に下校している所に私は遭遇し、行き先が同じでしたので、しばらくその息子さんたちの後を歩く形になりました。

息子さんに友達の一人が話しかけました。

「なあ、おい、お前の母ちゃんさぁ、頭キンキンやなぁ」

あらあら、何てことを(汗)と聞いていた私が焦ります。

息子さんが答えます。

「そやねん。めっちゃイヤやねん。うちの母ちゃん目立つやんか。周りのお母さんみたいに黒い髪にしてほしいわ」

と。

 

案外、多くの子どもたちは、自分のお母さんがあまりに目立つのを嫌がる傾向があります。

意外と子どもたちって保守的なんです。

幼い子どもたちは、私たち大人のことをよ〜く見ています。見比べていると言っても過言ではありません。子どもたちは私たち大人の世界をその曇りのない目でしっかりと見ています。

子どもたちは、親以外の大人たちとも、学校や生活の中で接しています。

知っている大人の中で、誰が信頼できる大人なのか、なども結構シビアに見抜いています。

だからこそ、自分のお母さんが取った行動が、あまりにも周りの大人と違った場合、イヤだ!と思ったり、恥ずかしい!と思ったりすることもありますし、同じことはしないでおこう!と反面教師にすることだってあるのです。

ところが、その子どもたちもやがて大きくなります。大きくなる過程で、子どもの頃嫌だな、と思っていたお母さんの言動は何度となく繰り返され目に焼き付いていきます。

人は、ストレスを受けた時、無意識に自分も同じことをすることで解消しようとすることがあります。

例えば、虐待を受けて育った子どもは友達を叩いたり、大きくなってから我が子を虐待してしまうことがあります。虐待の連鎖です。

無意識の内に、繰り返し見たり聞いたりしているものは、心を傷つけていくのです。

暴言、暴力、そして無関心も子どもの心を傷つけます。

長い年月の間に蝕まれた心は麻痺し、見たり聞いたりしてきた言動は、体に染み付いていきます。

勿論、親と同じような行動を取ってしまう背景には、遺伝的要素も入る為、親と離れて生活していたとしても、似てくる可能性はあります。

しかし、親とは違う行動をする人も多くいます。その人たちは、育ちの中で、よほど、ああはならないぞ、と子ども心に刻み、自分の行動を振り返り、気をつけてきた人たちなのだろうと思います。

 

そう考えた時、あの2人の娘さんたちは、どちらの道を辿るのだろうか?という思いが私の中で燻りました。あの時声をかけることが出来なかったことがチクリと心を刺すのでした。

注意するのは簡単です。

でも、

娘さんたちの目の前で、通りすがりのおばさんから注意されたお母さんを見たら、娘さんたちはどう思うのでしょうか?

ああ、やっぱりあんな態度はいけないんだわ。そう学んでくれるでしょうか。

それともショックで傷ついてしまうでしょうか。

もし、やんわりと傷つけない方法で、お母さんや娘さんに伝わるメッセージを出す大人なやり方ができたら、一番良かったかもしれません。でも通りすがりの一瞬で、妙案は浮かばず、後ろ髪を引かれる思いで過ぎてしまったのでした。

では、その大人なやり方とは一体どんなやり方でしょうか。

 

それを考えていた時、天然さんの冒頭に挙げた記事をたまたま読み、そのスーパーでの出来事と重ね合わせて考えさせられたのでした。

 

これから育っていく子どもたちにさえ、しっかりと良い行動を教えていってあげることが一番の目的で大切なわけです。

それならば、その場に居合わせた大人、周りにいる大人、関わりのある大人が、良いと思われる行動を、子どもたちに笑顔でして見せてあげるのが一番丸くて大人なやり方ではないかと私は思っています。

 

よそのお子さんなのだから、そこのご両親が子どもの躾はすべきだし、それが出来ていなければ、非難されて当然なのだけれど、もう、よそのお子さん、自分の子ども、と分けて考える時は過ぎたようにも思うのです。

これは、私の子育ての最中につくづく思ったことに起因しているのですが、、、。

 

私の子どもたちが小学生だった頃、子どもたちはいつも複数の人数で子犬のように絡み合って遊んでいました。

クラスにはネグレクトの子や母子家庭の子もおりました。

みんな可愛く、屈託がありません。

ですが、しょっちゅう一緒に遊ぶとなると、子どもたちを通して様々なことが見えてきます。親からしっかりマナーを教えられている子、教えられていない子、物の貸し借り、お金に関すること、ケンカ、いじめ、ゲーム、遊ぶ時の約束の仕方、などなど、色々と考えなくてはならない事や問題がありました。

その時に、思ったのです。

昔は、「自分の子さえしっかり育てていれば」と、多くの親が我が子を躾けていましたが、今は自分の子だけしっかり育てていたのでは間に合わないのではないか?

物差しが無くなってきた世の中で、我が子にしっかりと物事の良し悪しの分別がつくように育てていたら、逆に生きづらいなんてことになるのではないだろうか?

教えられている子と、教えられていない子の間には、話が通じない溝が出来ていくのではないか、と。

物事の良し悪しを考える時に、その判断の基準となる物差しが無い世の中を生きるというのは大変に苦しく困難なことだと予想できます。誰も、何が良くて何が悪いか分からないのです。良くないと感じていても、自信がないから意見することもできません。いじめられている友達を見かけても、自信がないから助けることもできません。いじめが増えてきている背景には、すでにそういったことが要因としてあるのではないかと思うのです。

 

だから、子育てを適当にした方がいい、ということではなくて、自分の子だけでなく、周りの子どもたちにも、分け隔てなく大切なことを手渡していこう、と思ったのです。

周りの子ども達も共に良くなれば、自然と我が子も生きていきやすい世の中になる。

ネグレクトの子も、母子家庭の子も、裕福だけど淋しい子も、荒れ狂う子も、障がいを持った子も、みんな生まれた時は純真無垢です。

しかし、その後の環境や背景によって変わっていきます。

教えられたように育つのなら、大きくなる過程で、どこででもいいから、信頼できる大人と出逢い、良い行動を学ぶことが出来たら、一滴の雫が波紋を広げる池の様に、その子の人生に良い影響を与えることができるという可能性もあります。

それには愛が必要です。

 

自分の子か、よその子か、には関係なく、どの子も我が子の様に慈しみ、愛情を持って関わっていきたい。

それが、療育の仕事に携わることになったきっかけでもあります。

 

昔、我が子の担任の先生が仰っていました。今の親世代は、丁度自分たちが教えた世代に当たる。だから、今の親世代を育てた責任は、自分たちにもある、と。

だとすると、今の若い親世代を育てたのも私たち大人ということになりますね。社会全体が子どもを育てるのですから。

 

 

周りを見渡せば、おやおや、おいおい、と思うことは山ほどあります。

そんな時、目の前の子どもたちに、今、私たち大人にはどんな役割ができるのでしょうか?

分け隔てなく優しい眼差しを向け、我が子にかけるような愛のある言葉がけや働きかけをすることが出来れば。

これからの子どもたちは、例え親から大切なことを教わることが出来なかったとしても、周りの大人からの良い関わりによって、より良く育っていくことができるかもしれません。

 

全ての子どもたちに愛を。

私たち大人が、お手本となって。