懐かしい人にお会いした。
先日、講師を今務めている幼児親子体操教室の次回の打ち合わせが長引き、外はもう暗くなっていた。
いつもは朝の10時には入り、午前と午後の2コマの教室が終わった後、打ち合わせをしても5時半には体育館を後にしている。
その為、その日の様に遅い時間の体育館に残っていたことはなかった。
18時を回ると体育館の様相は激変する。放課後の学生たちが活発に活動している時間になる様だ。
小学生から大学生と見られる幅広い年齢層がフロアに溢れ、通れないほど。
持ち物を見る限り、バスケットボールのクラブだろう。大きく丸い形が浮き出たリュックが見える。
若者たちの熱気の籠もるフロアを抜けて、やっと靴を履き替えて、外に脱出。
数歩歩いた時、壁際に一人の男性が立っているのに気付いた。なんか見覚えがある。
恐らく私は2度見をしただろうと思う。2回目は、ぎゅーーーっと、確かめるために間合いを詰めた。間違いない。
「S先生!」
と声をかけた。
10年前、私はその人が受け持つ学級に介助員として入っていた。重度の自閉症の子に、常時介助をするだめだった。
このクラスのことは前にもこのブログにも書いたことがある。学級崩壊を起こしたクラスで、新任の若き女性担任を2ヶ月で退職に追い込んでしまったクラスだった。私はその女性担任の心がパキッと折れた瞬間の音が聴こえた。慌てて管理職に「あの先生、きっと辞めてしまいます。心が折れる音がしました」と報告したが、どれくらいそれを真剣に受けとってもらえただろうか。次の日、本当にその先生は退職してしまった。たかだか介助員だったとしても、その場に居ながら食い止められなかったことは、私にとっては痛恨の極みで、唇を噛み締める思いだった。
その後のフォローに非常に厳しいベテラン担任の先生が入り、まずは何とか秩序を取り戻そうとされたが、逆に厳しすぎると保護者からのバッシングが相次いだ。その場にいた私からすると、このベテランの先生はよく持ち堪えられたなと思う。子どもたちの煽りは凄まじく、その厳しさを持ってしなければ到底収まらなかったであろうと、側にいた私はよく理解できたからだ。子どもたちからの煽りに耐え、保護者からの突き上げにも耐えておられた。
年度が変わり次の年、クラス替えは無く持ち上がりのこのクラスを受け持ったのが、今回お会いした男性のS先生だった。
S先生は、バスケをこよなく愛する体育会系の元気で朗らかな方だった。
違う職種から先生に転職した方でもあり、外の世界を知っているからなのか、どこか飄々としていた。
辞めた若き担任も、後のベテラン担任も女性で、次にやってきたのがこの体育会系の先生ということで、暴れん坊の男の子たちも、そのお母さん方も、期待が高まったのではないかと思う。
まずS先生は、毎日、朝の会でニュースについて子どもたちに発言の機会を与えた。
このクラスには学級崩壊を招いた中心的なメンバーが、4人程いたが、その4人共が学力的には高かった為、この毎朝のニュースについて語ることの出来るその時間は、その子どもたちにとって、有り余るエネルギーを良い形で放出できる場面となった。
このニュースの時間がまずは子どもたちの心を掴んだと私は思っているが、実はこのニュースの時間は、前任のベテラン先生も取り入れていた。
荒れ狂う学級の中で、ニュースについて発表する時間を設け、子ども同士歪みあったり、マウントを取り合ったりするパワーを、家に帰って母や父とテレビを見ながら国内外で起こっている事柄について話し合い、新聞を読んで分からないところを、教えてもらい、子ども心に何やら考え、そして朝、クラスで発言することで友達からも先生からもコメントをもらうという機会を作ることで、クラスを取り巻く大きなパワーをグググと良い方向へと転換する仕掛けを導入し、レールを轢くところまでをベテラン担任の先生が手掛けていたのだった。
運命的だと思ったのは、後になって後任のS先生に、「あのニュースの時間が良い契機になった。あれは前任のベテラン先生から引き継いだものですか?」と伺ったことがあるが、意外なことに、答えは「NO」だった。たまたまだったのだ。そのたまたまが、クラスを立て直したことに、2年続けてそのクラスを見ていたただ一人の大人として、その不思議な縁を感じ唸るしかなかった。
S先生は、明るく屈託のない太陽の様なエネルギーと、実際にはお子さんがいるお父さんとしてのドン!とした重しとしての重みも若くして持ち合わせておられ、暴れん坊の子どもたちの上に、お山の大将として君臨する形で、このクラスの持つ凄まじいパワーを先導していかれた。
その一部始終を、重度の自閉症のお子さんと一緒に、私もクラスに関わる一員として時には昔でいうところの副担任の様を果たしながらS先生と苦楽を共にして見守ってきたのだった。
私は5年間、介助員をしてきたが、このS先生と共に過ごした1年間が一番楽しかった。
このS先生はずっと小学校のバスケットボールチームのコーチをしている。もうかれこれ13年目だろう。
この日のフロアを埋め尽くしていたバスケット集団の半分は、この先生率いるチームの子ども達だった。残りは別の学生チーム。
久しぶりにお会いしたS先生は変わらぬ笑顔だったが、以前よりやや痩せた印象だった。どうやらご病気をされたそうだ。
「今はどちらに?」
と聞いたところ、
「今は教育委員会なんですよぉ」
と答えられた。
驚いた。
教育委員会とは縁のなさそうなキャラの持ち主だったからだ。
「も〜、嫌で仕方ないんですよ〜。教育委員会なんて。子どもの声なんて聴こえもしない」「僕はバスケが教えたい一心で先生になったんですよ。それなのに、、、」
うんうん、ですよね〜。分かります。
(何か前にも同じこと言っておられた人がいるぞ?)
そこで、私は息子の6年生の時の担任の先生を思い出した。
T先生をご存知ですか?と尋ねてみた。
「勿論知ってますよ。」とのことだった。
このT先生は息子の担任を終えた後、次の年度から教育委員会に行くことになられ、お世話になった私も息子も衝撃を受けた過去があった。
私も次の年から介助員となり、同じ市内の小学校にいたため、時折このT先生ともお会いするチャンスがあった。
弾丸の様に話す先生で、会えば私も合わせて2人弾丸トークで盛り上がった。
そのT先生も、
「教育委員会なんて本当に嫌なんですよ。子どもの声が聴こえないなんて」
といつも言っておられた。
このT先生は、途中から人権教育を一生懸命勉強されて、別人の様に成長された方だった。
その勉強がその後のご自身の道を大きく変えることになるとは、その時は勿論思いもされなかっただろうと思う。
まだまだ若かったのに、教育委員会に引き抜かれて、ご苦労されたようだった。
暫くそのお仕事を経験されて、次に現場に戻られた時には管理職になっておられた。
私はその頃、療育施設の管理者になっており、時々共通の子どもの事などでお電話をかけたり、かけてこられたりする繋がりをいただいていたが、管理職になられても、その弾丸トークにも現れているように、バリバリと凄い勢いで進撃されて学校を盛り立てておられたようだ。
そのT先生も、教育委員会なんて嫌だ、子どもの声が聴こえない!っていつもボヤいていましたよ、とS先生に話したら、
「T先生ね。でもあの方は出来る方だから。今では◯長さんになられていますよ」と、また出世され、上の役職に就かれていることを教えて下さった。
「へええええ。◯長さんに?凄いなぁ。それに、今では『出来る方』なんですね〜。昔はアフロのカツラを被ってギターを弾きながら参観日の授業をされてたのになぁ(笑)」
などと楽しく話しながら、その日はS先生にさよならを言って別れた。
T先生は、もっと若い頃はとてもシャイな方で、息子が2年生のころ、廊下で私がすれ違って挨拶しても、廊下の壁に背中をつけて避けて通られるような方だった。それまでに何処かで、接触したこともなく、なぜそんな対応をされたのか頭の中にいっぱい???がついたことがある。
そんなT先生は、授業参観で、何を思ったか、アフロでギターをかき鳴らし、その噂はすぐに保護者の中で広まった。
アフロにギター?なんで?
そんな掴みどころのない先生は嫌だなとずっと思っていたら、なんと息子の6年生の時の担任になってしまった。
でも、6年の初めての参観でお会いしたT先生は、2年生の頃と別人の様になっておられた。
発達障がいを持つ息子を信頼して預けてみようと思えたのだ。
T先生は、実は息子や他に問題を抱えていた児童をいつか受け持ちたいと密かに考えておられて、ずっと人権問題のお勉強をされていたそうだ。
その直感通り、T先生は、若いけれどもそのパワーで息子の心にグイッと入り込み、私とも弾丸の会話と阿吽の呼吸で連携して下さった。阿吽の呼吸ということは、お互いに違う見解を持っていたとしても、多くを語らずともどこか違って何が同じか、違うのは何故か、その違いが意味するところは何か、をパッと気づき合って次にまた活かせる関係性だったということだ。それにはお互いの率直さが必要。
たった4年で、息子を任せてみようと思えるほどに、そして、端的な会話でも母親と重要で本質的なことに気づきを分かち合うことができるまでに、劇的に成長されていたことになる。
その辺りに既に、T先生の今の姿の片鱗が現れていたということなのだろう。
あれから14年ほど。
アフロでギターをかき鳴らした若きT先生は教育委員会の上の役職へ。
S先生も同じ教育委員会で、S S WやSC、そして子ども家庭センターや弁護士など、他業種を繋ぐ役割を頑張っておられる。
S先生も重度の自閉症児を受け持った経験や縁が、今の仕事にも活きているのではないかと思う。
先生方は皆んな、若い頃は紆余曲折しながらも、段々と傍からは見えにくい様々な経験やお仕事を通して、人間的にも大きく強くなっていかれる。
S先生との再会は、そんなことを改めて考えさせてくれた。
実は、そのアフロヘアーのT先生は、私と同じメンターから教えを乞うた、言わば兄弟弟子。
そんな『メンターとT先生と私』の関係を、私は大事に胸に抱えて温めていた。
そんな風に捉えているのは、私だけかと思っていた。
が、ある時、教育委員会の仕事で私が勤める小学校へ来られた際に、その話を振ってみたところ、T先生も、同じことを思っておられたのだ。
これもまた、私の人生の中での宝物のような出来事だった。