保育士、幼稚園教諭、学校の先生。
特に保育士は、現在の児童発達支援事業所や放課後等デイサービスの人員配置の要件として児童指導員よりも重要視され、賃金も高く設定されています。
保育士や幼稚園教諭は、就学前の小さなお子さんのお世話や教育をするプロとして「仕事に携わってもいいよ」という資格です。
学校の先生は、就学後の子どもたちに学業を教えるプロとして「仕事に携わってもいいよ」という資格です。
障がい児の特性を深く理解し専門的知識と経験を身に着けたプロとして携わってもいいよ、という資格ではありません。
児童発達支援事業所や、放課後等デイサービスなどの障がい児通所支援事業所で実際に働くには、障がい特性について深い理解とスキルが必須です。
なので、これらの資格を持つからといって、障がいを持った子どもたちへの対応を知らない保育士や幼稚園教諭、そして学校の先生が実際の療育現場に配置されたからといって、上手く立ち回ることができるわけでもなく、語弊がありますが、私は常々これらの人を配属したからといって、いったい何の役に立つのか?とずっと疑問に思ってきました。
いくら、ベテランさんでも、何人かのうちの1人や2人が加配の必要なお子さんという状況なら対応できても、その場にいる子どもたちの100%が何らかの障がいを持っている子どもたちで構成されている通所事業所という場では、手も足も出ないという様子もたくさん見てきたからです。
では特別支援学校教諭免許ならどうか。
これは特別支援学校等に通う障がい児たちに対する知識を学び、これからそれらを活かして障がい児たちの教育に携わっていいですよ、という資格なので、一番療育(発達支援)の現場でも役に立ちそうに思いますが、実際、そういった方々とお仕事をしていても、ほぼ何の役にも立っていないことが多いです。なぜなら、教科書で学んだことはただの知識であり、すぐに忘れてしまうため、身にはついていないからです。身につける為には、教科書に書かれている内容と実際の子どもたちや起きる事柄について、まずは照らし合わせて理解することから入り、自分なりにデータを集め整理し、タイプ別に有効な手立てを見極めて手法として構築していく経験が必要になります。
それなら、学校で様々な障がいを持つ子どもたちの側で身の回りの身辺自立から、勉強のサポートまで携わる介助員の方が、ずっと即戦力になる。とも考えています。
でも、それらの人は児童指導員にしかなれません。
障がいを持った子どもたちへの対応に慣れていなくても、保育士、幼稚園教諭、学校の先生の方が時給は高いのです。
資格は、その資格を取得する為に必要な知識を得るだけの能力がその人にある、ということを示す1つの証拠にはなります。
その後、その資格を持つことができただけの能力を持つ人たちが、どんどん障がい特性についての知識を学び、スキルを身につけていくことができるなら、まだいいのですが、時にこの資格が、子どもたちの療育(発達支援)を阻むことがあるのです。
その要因は何かというと、「自分は資格保持者だ」という自負です。
「国家資格を持つ」ということが、その人たちの自尊心を高め、自分が今知っていること、感じていること、が一番だと、驕ってしまうことが原因で、大切なことや本当のことが見えなくなってしまうのです。
目の前の、障がいを持つとされる子ども、人たちの、見えない内面の困難を、自分事の様に捉え、深く理解し、先の成長を見据えてどんな関わりが必要なのか、検討する時には、様々な角度から見て考えなければ偏りが生じますから、その為にも色んな人の意見を取り入れながら吟味し、次の方針を打ち出すことができなければいけません。
でも、この色んな人の意見を聴き、多角面から検討するという段階で、「資格保持者」である、という自尊心が、それを許さなくなってしまうことが多いのです。
資格必須の社会では、度々そうしたことが起こります。
本当のこと(大切なこと)を言っているのは誰か?
が、分からなくなってしまうようです。
誰が資格保持者か?ではなく、
本当のこと(大切なこと)を言っているのは誰か?
が分かるのは、本当のこと(大切なこと)を知っている人だけです。
本当のこと(大切なこと)を知らなければ、気づくこともできないのですから、自分が絶対だと思い込んでしまい、他の意見は排除してしまいます。
中には資格を持たなくても、障がいを持つ子どもや人に対する高い倫理観や道徳観、人権意識を持つ方たちもいます。
豊かな感性で、内面で起きていることに気づき、疑問として発信してくれる人もいます。
でも、資格保持者でないという理由で、その貴重な意見や発信には蓋をされてしまうのです。
そういった事が、教育や療育の世界では起こりやすいのが現状です。
療育は、子どもたちの困難を減らし、園や学校、そして家庭や社会での生活をしやすくするためのものですが、園や学校の方法をそのまま持ってきても上手くはいかず、特別な考え方や方法が必要になる世界です。
資格保持者同士、または資格保持者とそうでない者との断絶や争いに、大切な子どもたちが翻弄され巻き込まれるというのは非常に残念なことです。
真摯に学びたい、学ぼう、という高い志を持つ人は、貪欲です。
相手が資格保持者であろうがなかろうが、保護者であろうが世間の人だろうが、学ぶべき物がそこにあれば、目を見開き、耳を傾けます。
「それってどういうことですか?」
「こういうことですか?」
と、熱心に教わろうとします。
その時に理解できなかったことは持ち帰り、大事に自分の中の引き出しにしまい、考え続けることでしょう。ある日、その答えが見つかれば、必ず「あの時のことですが」と切り出してこられるはずです。
大切な情報や、琴線に触れたことを、バッサリと捨ててはいないのです。
「資格」は、その仕事に携わってもいいよ、とスタートラインに立つためのものです。
その時点でプロではなく、その後如何に学び続け身につけることができるかどうかが問われます。
その資格というメガネをかけたが為に、プレッシャーと自負によって前が曇り見えなくなることのないよういつも自分を振り返る余裕を残しておかなければなりません。
資格があっても、障がいを持った子どもたちの内外で起きるトラブルを深く理解し、上手く解消しながらより良く導いてあげるだけのスキルがなければ、ご家庭と同じ様に毎日同じ現象に見舞われ、抜け出せないことによる強いストレスと焦りから、どんなに良い人であっても、一線を越え、つい声を荒げてしまうなど強い言動へと簡単に突き動かされていってしまうのです。それだけ難しい日常の中で複数の子どもたちと過ごすには、ただ資格を持っている、子どもが好き、というだけでは務まらないのです。
ですから、
良い療育(発達支援)施設を見極めるには、専門的な資格を持つ人がいるということは大切ですが、要はどんな「人」がいるか、なのだろうと思います。
ホームページは幾らでも良いことを書ける時代になりました。が、書かれていることが全然行われていない方が多いと思います。
実際に何度も会って話し、行われている内容を見学し、周りの人の評判を調べ、行政の担当者の表情や声のトーンや一言一句を聞く、ということは必要でしょう。
行政担当者も全てを知っているわけではありませんが、他の保護者の声を拾っているので、情報は持っておられます。ただ、公平性という立場上の観点から、「ここがお勧めです」とは言えませんと仰るでしょう。でも、目や声のトーンを注意深く見ていると分かるだけのシグナルは出してくれるはずですから参考にはなると思います。
繰り返しお伝えしますが、
大切なのは、そこにどんな「人」がいるか。
なのです。