きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

穴掘り刑罰と求聞持法。

さて、今回こういった題名で書き始めようと思い立ったのは、たった今しがた(1週間ほど前)見つけたものが起因しているのですが、それもそもそも、あるはてなブロガーの方が、毎日毎日繰り返される「家事」について、これまでの想いや苦悩を吐露されているのを読んだことが発端となっています。

この方が、長年に渡り家族の為に、女性として、家事全般を一手に引き受けながら、あらゆる違和感を感じ、それでも全うしようと向き合ってこられた経過が書かれているものですが、その中で、来る日も来る日も家族の為に料理し、皆が食べた後の片付けをまた自分で黙々とこなし、元通り綺麗になった、かと思えばまた自分自身で料理することで汚し、散らかしゴミを出す行為を延々と繰り返す、この終わりが見えない状況が、昔シベリアで囚人に行われていた穴掘り刑罰のイメージと重なった、ということを書いておられます。

 

穴掘り刑罰とは、囚人にスコップを渡し、半日かけて大きな穴を掘り、また半日かけて埋めるという作業を来る日も来る日もさせるという刑罰で、人間にとって目的も意味もない作業を繰り返すというものは、肉体的だけでなく精神的にも大きなダメージを与える拷問ともいえる刑罰だそうです。

同じ人間に生まれながら、女性というだけで、居間で寛いでいる夫や子どもたちを尻目に、自分1人だけがどんなに疲れていても、黙々と家事をこなさなくてはならない。しかもそれが当たり前とされて感謝の言葉も労いの言葉もない、という状況では、自分が行っている家事という行為には何の価値もない、と思うようになってもおかしくない、ということかもしれません。

私も若い頃は前夫の両親と同居していて核家族だった自分の家と比べて閉鎖的なその家の文化に、女性には人権がない、と思ったものです。

特に料理とお皿洗いは大変で苦でしかありませんでした。

でも主に女性が家事を担ってきた背景には様々な要因があると思いますが、その中でも家事が苦になる人と苦にならない人がいることに途中で気づきました。

苦にならない人たちに聞くと、家事が好き、片付けが好き、料理が好き、お皿洗いが好き、なんなら趣味、という友人もいました。

今から二十年は前のことですし、専業主婦が多かった時代です。大変だけど、核家族の友人は自分のタイミングで生活できる部分もあり、自由そうでした。私は義理の両親と同居で、子ども達を買い物の間見てもらうということも出来ましたが、それ以上に、精神的にも物質的にも複雑なものが間に挟まり、非常に停滞していた中での家事でしたから、当然負荷が大きくて家事は苦行と課していました。

特に「長男の嫁」ということもあり、次男の嫁は遊んでいても、私はその家族の分も一手に引き受け台所で黙々と作業する、という場面が多々ありました。

 

そういえば、田舎の祖母の家へ、従兄弟の嫁として入ったお嫁さんは、三世代同居という環境の中で、夏に正月にと親族が集まるその家で、ずっと料理を作っていたな、歳は5つほどしか違わないのに、もっと人数の多い環境で、たまに帰省してくる私たちに、どんな気持ちで接していたのだろうなと、お皿を洗いながら思ったことがありました。

私はその人の心に少しでも喜びの光が入るだけの言葉がけが出来ただろうか。感謝を伝えられていただろうか。今度帰ったら、その辺りをお嫁さんに伝えよう、などとも思ったものです。

あの頃は、私もまだ若く、学生からの友達は結婚しないで国内、海外とひっきりなしに旅行し遊んでいましたが、誘われても子どもがいる私は行くことができませんでした。子どもがいなかったとしても、義理の両親の許可が必要ですから、そんな精神的負荷のかかる申し入れは考えただけで気が遠くなるので、やっぱり行くことはなかっただろうと思います。

そんな窮屈な中での生活と、子育ては、先の見えないトンネルの様でした。

1人悶々と家事をしているときは、この苦悩を如何に軽減するかを模索したり、逃避しようとしたり、脈々と続く世の中の男尊女卑について思考したり、逆に楽しいことを考えてみたり、それとも自分に感謝の心が足りないのかと自問自答してみたり、ぐるぐるぐるぐる考え続けました。まるでこれは修行じゃないか。だとすれば、この修行の先には何があるのか?この毎日繰り返し行われる作業をすると徳が積まれるのか?試されているのか?とも。

 

ところが、そんな環境から飛び出し、自分の足で歩かざるを得なくなると、子どもを守るために、自分が、自分で、自分を奮い立たせ、生活を回さなくてはならなくなります。

誰からも強制されたわけではありません。自分が選んだ道ですから。どんなにしんどくても、悲しくても、情けなくても、自分でこなさなくてはならないのです。そうでなければ子どもたちが途端に困ってしまうからです。シングルになった途端に生活が荒れてしまったのでは、離婚を選択したこと自体を後悔することになります。そうならない為には、出来る範囲ではあるけれど、頑張らなくてはならないのでした。いつしか、前に感じていたような、窮屈さや苦悩は無くなり、そこには「如何にやるか」のみが残っていました。

管理職をしながら夜10時ごろに帰ってから大急ぎで料理し、食べさせることも多くなりました。息子が受験生の頃は当然文句を言われますが、もっと快適に工夫する余裕はありませんでした。

次第に家事を成長した息子や娘がさりげなく手伝う場面が増え、男親と女親両方の役割を1人で背負っていた荷物が次第に減っていくのを感じました。これは大変ありがたいことでした。仕事をしながらの家事には限界があります。そんな時、少しでも担ってくれる人がいるというのは心底幸せを感じました。

 

しかし、そんな生活もそろそろ限界を迎えるという頃に、今の夫と出逢いました。

夫もまた、最愛のお母さんを助け、家事は分担して守ってきた人でしたから、精神的にも身の回り全般についても自立した人でした。

夫もやはり料理が好きな人でした。時間があった時は、私は椅子に座ると、飲み物からお皿から料理から、まるでウェイターさんの様に、動き上げ膳据え膳してくれるのです。今までに体験したことのない時間でした。

なるほど。こりゃ幸せだわ。と思ったものです。

今は夫も仕事が忙しくなり、その余裕はなくなりましたが、変わりに私が家にいるので、夫が私にしてくれた分、私が出来ることはしよう(全てしよう、ではなく)と思うようになり、気がつけば、嫁としての頃とも母としての頃とも違う、フラットな状態で家事を行っている自分がいます。

といっても料理もお皿洗いも特に好きではないので、「私は好きじゃないよ。適当だよ。出来る時にするね!」と素直に言ってあるので、夫も仕方ないなと思って半分多めにみていると思います。嫌なら僕が洗います、と言って洗ってくれています。そうすると、やっぱり悪いから、と、夫が洗う前に洗っとこうとも思えるものです。

こうして私はこれまでの30年ほどの間に、家事を巡る感情のステージが3回変わるのを経験しました。

一番苦しかった「嫁時代」。家事をしながら悶々と考え続けた日々。今振り返っても、あれは修行だった、或いは瞑想状態だった、と感じます。果てしなく続く行の様な家事を、どんな心持ちで行えば良いのか考え続け、イライラすれば呼吸を深くして整え、邪念を払いながら手を動かし続ける。その先に、何があるのか分からないまま、動かし続けました。

 

ふと、そのはてなブロガーさんの記事を読み、一緒になって考えていた直後、YouTube動画で須藤元気さんがオーラの泉で話しているところが目に入りました。

そこで話されていたのは、求聞持法(ぐもんじほう)についてでした。求聞持法は100万回、呪文やお経を唱えることで悟りを開く修行で、空海が広めたものだそうですが、100日ほどひたすらに唱えるその行は荒行で、時に命を落としたり、体調を崩したり、精神を病んでしまう人も出るほどだったとあります。

 

須藤さんは元々空海に関心があり、この求聞持法を知ったそうですが、四国へお遍路に行った際、自分は無宗教なので唱えるべきお経が無いため、思案した挙げ句「ありがとう」という感謝の言葉を変わりに唱えることにしたと話していました。

「ありがとうと心から思えていなくても、唱えることにより形から入ることが大切で、それにより思考が変わっていき、本当に心から言える時がやって来る。

思考が先に立つと、自分の中の古い思考からなかなか抜け出せないけれど、行動から入ることで、変わることが出来る。プロセスの逆転が出来る。」

と須藤さんは考えているそうです。

これは、療育の世界で言うと、行動療法と同じだなと思いました。

この動画を見て、私は「これはある意味、穴掘り刑罰と似ているな」と気づきました。

来る日も来る日もそこに意味の無いことを繰り返し行うという行為は穴掘り刑罰も求聞持法も同じではないでしょうか。

その過酷さから時に体調を崩したり、命を落としたり、精神的に参ってしまうのも同じ。

ただ、穴掘り刑罰は刑罰であり、求聞持法は修行である点について大きな違いがあります。同じような繰り返し行動でも、本人がその行動に対してどの様な捉え方をしているかは、大きな負荷に耐え過酷な試練を乗り換えられるかどうかといった、結果に大きな違いを生むのではないかと思いました。

真っ暗なトンネルの先に、光を見出だせるかどうか。遥か遠い点の様な光でも、見失うことなく進んでいけるかどうか。そこが生き残れるかどうか、悟りの道に到達できるかどうかの分かれ道なのだとしたら?

 

忙しい毎日の中で、果てしなく続く家事を繰り返しこなしながらも光を見失わずに進むには、その仕事に自分自身で価値を見出していなくてはなりません。

価値を見出すには、その家事には何かしらの意味があると感じられる要素がないといけないことになります。

それは家族からの労いの言葉や労りの態度、行動かもしれません。

家族や自分自身の健康かもしれません。

社会的に家事も立派な仕事なんだと広く認知されることかもしれません。

誰が認めてくれなくても、自分自身が今の状況に満足し認めることかもしれません。

それとも、まだ確固たる意味は見い出せないけれど、この行動を続けた先にその答えが見つかるのかもしれないと、漠然と信じることでもいいのかもしれません。

今自分は、過去に遡り、昔から家事をしてきた先輩たちの足跡を辿っているんだ、と考えることでもいいかもしれません。

または、与える愛を学んでいる最中だと考えても良いかもしれません。

自分のフィルターを通して、痛みを学び、夫という相手や周りの誰かの痛みに気づく深い学びの修行中だと過程してもいいかもしれません。

 

時に、自分を情けなく思ったり、卑下したり、家族や社会、この世を呪ったり、他者を羨んだり、妬んだり、ばかばかしく思ったりしても、そうだそうだこの仕事には意味があり価値があるんだったと思い出し、また前を向いて歩きだすことが大切なのかもしれません。

 

須藤元気さんは、お遍路の道中、今はそう思えていなくてもいいから愛と感謝の言葉を口から出すことが一番だと思って「ありがとう」という言葉を選んだ、と言っています。

ありがとうと思えないときだってあるし、自分の性格はそう簡単に変えられないと思いがちだけれど、「変えられないと思えば変えられないけど、変えられると思えば変えられる」、考えて、しゃべって行動すると今までの自分の考えがあるから変えられない(変わりにくい)から、先に言ってしまえばいい、繰り返していればやがてそういう考え方になる。そして、そのエネルギーが物質化し、周りに増え、相手にも届き、そしてまた自分に返ってくる、ということのようです。

 

「言葉に出すことで思考も変わってくる。プロセスを逆転させることがポイント」だとも。そうすることでだんだん全てに「ありがとう」と思えるようになってくる、とも言っています。

この「変えられないと思えば変えられないけど、変えられると思えば変えられる」は、私が療育を行う上でのモットーと同じです。そして、先に行動に移すことで後から感情がついて変わっていくというのも行動療法と同じで共感を持ちました。

「日常を生きているといろいろ考えたり五感を使うので自分のフィルターが詰まってくるけれど、瞑想や内観をすることで、このフィルターがきれいになってくる」、とも須藤さんは言っていますが、家事も手は動かしていますが瞑想状態と同じだと私は思うのです。繰り返し繰り返し行う家事を通して、内観が進み、自分の内面が磨かれていくのなら、やがて今の苦悩も消えていき、悟りの境地へと達する時が来るのかもしれません。

それならいっそ、須藤さんのように「ありがとう」と呪文のように唱えながら、初めは「ふん!」と思っていてもいいから家事を行っていくと、やがては本当に心からありがとうと思えるときが来るのかもしれません。

料理を出すときにも

「今日も一日ありがとう」

といって出すと、そのうち家族からも

「お母さんも一日ありがとう」

という言葉が返ってくる時がくるかもしれません。

 

そういえばうちも夫が「ありがとう」と言うので私も「ありがとう」と思え、家事をする心持ちが違うのだろうと思います。

うちの祖母も晩年はずっと「ありがとう」という言葉を大事にしていました。「ありがとう、ありがとうっていうと、みんなからも大事にされる」とことあるごとに私に教えてくれていました。若かった私は、そうは言ってもなかなかね・・・と素直には実行できませんでしたが、ずっと胸の中には残っていて、今になってその意味が分かるようになりました。

もし、今、子育てをしながら家事をこなす毎日の中で苦しんでいる方がこの記事を読んでくださったなら、「ものは試し」と思って「ありがとう、ありがとう」と呪文のように唱えながら行ってみてください。

気が付けば気持ちが軽くなり、周りからも「ありがとう」と声がかかるときが来るかもしれません。

家族が明るくなり、元気で過ごしてくれるために、家事は大切で尊い仕事なんだと、自分の仕事に意味と価値を見出し胸を張って過ごせるようになる日がくるかもしれません。

 

阿波踊りの掛け声にもありますね。

「おどる阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」

ものは試しです。

プロセスを逆転して、ここから先を楽しく生きていこうではありませんか。