きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

誰からも知られずに。

テレビを見なくなってから、日々のニュースはスマホから得ることが殆どになった。

ある日、近くで人骨が見つかったという記事が目に飛び込んだ。

便利な土地なのに、路地を1つ入ると静かで落ち着いた環境だから、まさかこの様なところで衝撃的な出来事が起こるなど、予期すらしていなかった。

見つかった場所はどちらかというとオープンで人目につく場所。

それが余計にショックだった。

人骨は、幼い子どものものらしかった。

それ以外は何も分からない。

 

仕事から帰った夫にも話した。

夫もショックで暫くは行動が停止していた。

 

子どものものってどういうことだ。子どもは入れない場所。もしも間違って入ったとしても、柵があるだけのオープンな空間。近くを歩く人からだって見える。周りのマンションからだってよく見えるだろう。

誰か、やむにやまれずそういう状態になってから投棄したのだろうか。それならどうしてそんな場所に?もう少し山奥とか茂みの中とか、心理的に隠したいと思うものじゃないのかな。それを、その辺にポン!とゴミでも捨てるかのように、人目につく場所に置くだなんて。

この、周辺に住んでいる人々の中に、生活や子育てが上手くいかずにこんな不幸な結果を迎えてしまった人がいるのだろうか。

それとも、、、

と、暫くの間、頭の中でこの出来事がぐるぐる回っていた。

 

それから進展はないかと探しても、新しいニュースは上がっていない。

街は、そんな出来事などなかったかのように穏やかで、平和な時間が流れている。

すぐそこで、命を終えた子どもが野ざらしになっていたというのに、誰も気にしていないかのように、日々の生活を送ることに一生懸命だ。

 

そんなことを考えながら歩いていると、一瞬、子どもの立場で思考が回りだしていた。

 

ニュースで「人骨」と伝えられると、どこか物質として捉えてしまいがちになるけれど、紛れもなくそれは、1人の人格を持った人で、親がいて、もしかすると兄弟もいたかもしれなくて、短かったけれど、美味しいものを食べて、遊んで、眠って、笑った瞬間だってあったかもしれなくて、私たちの身の回りにいる、あどけなく、天使の様な可愛い盛りの子どもたちと同じ様に、生活があった子どもなんだ。

 

どこでそんなことになってしまったのか分からないけれど、多くの人が幸せに、若しくは必死に、日々を送っているこの街の真ん中で、誰からも知られずにひっそりとそこに横たわらざるを得なかったその子は、一体どんな気持ちで自分の姿を見ていただろう。

それを考えると、いたたまれない。

 

こんな風に、生を終えなければならなかった方のニュースが毎日たくさん流れてくる。

その時は心を痛めても、毎日を忙殺されている私たちにはどこか遠い場所での出来事のようで、知らない間に感覚が麻痺し、一人ひとりのその重さについて真剣に思いを馳せることが薄らいでいる。

 

物質や数ではなくて、そのお一人お一人に、私たちと同じ日々の生活があり、人生があり、心があった。

 

それを無下に扱われ、奪われたことに対して、もっと怒りや嘆きの感情を、私たちは持たなくてはいけないのではないかと思う。