きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

嬉しい報告が続々と、、、。

春だから、あのこはどうしているだろう?

春だから、あの子は小学校、中学、高校へ入学したかな?

春だから、そろそろ就労•就職しただろか?

 

療育施設は辞めても、手塩にかけたこどもたちのことは、いつも気にかかります。それが年度代わりの頃なら尚更。

 

その中に、ちょうどこの春、高校や支援学校高等部を卒業するお子さんが2人おられました。

2人は小、中と同じ学校で仲良し。私とはどちらも小学校4年生からのお付き合いです。

その内のお一人(Aくんとします)のお母さんから先週の金曜日に連絡が入りました。

まさに前日にAくんとBくんどうしてるかな?としきりに気になっていたところでした。スマホ画面に名前が表示された時、タイミングが良すぎて信じられませんでした。

だって、実に3年ぶりですから(時々私にはこういったシンクロニシティが起きます)。

 

どうやらBくんのお母さんが、私と連絡を取りたいのに、連絡先を失ってしまったそうで、Aくんのお母さんより連絡が入ったということでした。

出逢った頃のAくんは、不注意優位性と診断され、お勉強は多少できるのですが、自発性が少なくて、声をかけなければいつまでも椅子に座ってジーッとしてしまうお子さんでした。指示がなければ動くことも考えることも停止です。

字はとても上手ですが、一画ずつまるで定規を当てて書いたかのように貴重面で、それはそれはゆっくりでした。

動きがとにかく緩慢なのです。

そこで、こまめに指示をすることはせずに、少しずつ「次はどうするんだったかな?」と自分で考える力を養っていくようにしました。同時に相反するようですが、速く行動が出来るように、目や耳から入った刺激を素早く脳が取り入れ、反応し、行動に移すことが出来るよう統合が進むメニューを取り入れ運動しました。

字は少しずつスピードアップ出来るよう介入しました。徐々にスピードが上がった頃、お母さんが今度は字が乱れていると心配されましたが、まずはスピードが上がるということは、多少字が乱れるのは仕方のないこと。スピードは上がった後、また次にスピードは速めだけど丁寧に書くという段階を踏みます、と説明すると安心して任せて下さいました。

こうしてAくんは、状況に合わせて字を書くスピードや体を動かす速さをコントロールできるようになり、自分で判断して行動することや、自発的に他者に働きかけたりSOSを発信するトレーニングを行ったことで、それらもできるようになっていきました。

すると今度は他者との接点が増え、友達とトラブルが発生するようになりました。年齢は上がっても、他者とのコミュニケーションのスキルはこれからだったのです。トラブルを自ら起こすことも、Aくんにとっては他者と関わりたいという欲求を満たす大切な方法だったのでしょう。自分にちょっかいをかけてくる友達を見ていて、所謂、誤学習をしていたのです。そこでAくんと面談し、会話を文字に起こしてお互い確認し合いながら、起こったトラブルの経緯、その時のAくん本人の気持ち、相手の気持ちを話し合い、この関係が悪化した時の不利益について、ルールや法律、警察といった分かりやすい指針を示して理解に落とし込んだところ、フラッシュバックが起きているからと、教育センターからも医療が必要だとまで言われていたのに、それから問題行動と言われるものはピタリと収まり、その後は平和に過ごされたのです。

高校は支援学校を選ばれました。そこで将来に必要な学習と作業などの訓練を受け、成長されたそうです。

小、中の土台を形成する時期に、しっかりと取り組んだことが支援学校高等部で開花したのでしょう。

高等部卒業後は色々周った就労施設の中から自分で「この就労移行施設に進む」と決めたところに通っているそうです。パソコンのスキルやビジネスマナーをそこで学ぶそうです。

もともと電車が好きだったこともあり、今ではどこでも1人で出かけ、わからないことは周りの人に聞いて行動できるようになったので、家から離れたその施設にも自分で通うということが実現しました。

 

Bくんのお母さんとは、その日の夜にお話することができました。

Bくんは、当時、知的障がいを伴う広汎性発達障がいと診断されました。今では自閉スペクトラム症に分類されます。短期記憶に困難を持ち、学習がなかなか定着せず、理解も難しいところがありました。

体幹や手先足先の巧緻性の弱さが顕著で、文字を書くにも筆圧が微弱で困難を極めていました。

4年生のころは一度泣いてしまうと頭の中が真っ白になるようで、何も返答できなくなっていました。場面緘黙も持っていたのでフリーズしてしまうのです。

この彼にはまず精神年齢を上げることから始め、体幹強化、手先足先の巧緻性を高めるトレーニングに長年取り組みました。

お母さんの将来の夢は運転免許を取らせてやることでした。

当時のBくんからは、誰もがそれは不可能だと考えました。私でも、さてそれはどうだろうか、、、と思いましたが、とにかく免許が取れる年齢になるまで、あと9年もあるわけです。可能か不可能かを決める前に目の前に来たステージに全力で取り組み、一段一段丁寧に登り、次のステージで待つ人に託すまでが私の役割と考え、出来ることからこつこつと取り組みました。

将来必要な挨拶と受け答えも、場面緘黙を持ってはいますが、働きかけ、インターホン越しの対応も聞こえる声でできるまでになりました。

しかし学校では友達に虐められたり、無理解な支援の先生から度重なる叱責や過度の介入を受けたりし、その度に学校に働きかけたり、お母さんにアドバイスをして切り抜けてきました。直接相手側の友達に対応したこともありました。泣きながら電話をかけてこられた夜も今では懐かしい思い出です。

中学は、地域の学校に進むことをお母さんは選ばれたため、内申点を取る為に、中間期末テストには課題を提出しなければなりませんでした。内容を理解していないのに、ひたすら解答を書き写すことに何の意味があるのかと悩んだり、また、眼球運動にも困難さを持つ彼が、微弱な筆圧で大量のテキストからの書き写しを前に絶望したり、憤慨することも多々ありました。その都度、荒ぶる彼と対峙したり、彼の気持ちを確認しながら、何のためかと言われれば、それは文字を書くという練習でもあり、課せられたことに対して真摯に取り組むという自分への信頼性を積み上げる為だよ、、、などと話し、どうするかは彼に任せました。結局彼は投げ出すことはなく、毎回苦労しながらも提出をしてきたようでした。中学を卒業する頃には頑張った自分に胸を張る彼がいました。

Bくんはその後、支援学校ではなく私立の発達障がいの子どもたちを受け入れる高校へと進学しました。

退学者が続々出る中で、Bくんはやんちゃな友達も作りつつ、流されずに何とか3月に卒業しました。中学時代の頑張りが、ここで活きてくれたようです。

バイトもせっせと精を出していました。療育手帳を持っていることを理解してもらった上で、飲食店や引っ越しのバイトまで頑張ったのです。引っ越しのバイトといえば、定型発達児であっても過酷で避けがちです。それを、体幹の弱い細い体で2年間も頑張りました。時に先輩に怒鳴られたり、嫌な態度を取られることもあったようですが、自分で上司に相談し、改善してもらったそうで、自分で問題の対処法も身につけたようです。

その頑張りが、Bくんの全面に出ていたのでしょう。面接官の目にとまり、何とBくんは大手の企業の普通枠で就職が決まったそうです。お仕事は、家庭を周りメンテナンスを行う仕事です。

生活に関することに関心が大きい彼にはうってつけの仕事です。先輩について修行するうちに、しっかりと技術も手にすることでしょう。

履歴書は、自筆で、お母さん手作りの行の幅に合わせてクリアフォルダーをくりぬいた型を当てて書いたそうです。この型は、私がお母さんに中学時代伝授したものでしたし、その型をはめながら履歴書を埋めるのは大変な作業だったと思いますが、Bくんの中学時代の苦行への取り組みは、ここでも活かされることになったのです。

お母さんは大変喜ばれていて、それで私にお礼のご連絡を下さったのでした。

 

AくんとBくんは、対照的で、特性は異なるものをお持ちでしたが発達段階としては近いものがありました。

それぞれが選んだ高校、そして卒業後の道は違いましたが、それぞれに合った道を選ばれました。

2人共が将来自立、自律する時の姿を目標に、きっと実現すると信じて、こつこつと積み上げて来たことが、見事に繋がり大きく開花したことは、ある種奇跡に近いものがあります。私自身が驚き、胸が喜びでいっぱいになりました。

9年後にそれらが実を結んだのですから、療育者としてこんな嬉しいことはありません。

 

知的障がい、自閉スペクトラム症ADHD、などなど、障がいは、その人の一部分です。

大切なのは、その人の人格です。

このBくんがいただいたご縁は、Bくんが困難にも負けず、諦めず、食らいついて積極的に前進してきた彼の人間性が認められ繋がったものですから。

社会に出て、この先も様々な壁が立ちはだかることでしょうが、「どうやったら乗り越えられるかな?」と彼ならきっと工夫して進んでいくことでしょう。

 

そうそう、Bくんは、この春晴れて運転免許証も手に入れたそうです。

 

Aくん、Bくん心からおめでとう。

これからも応援しているよ。

 

私はこのお話を今、満開の桜の花の下で書いています。