身近なところでは、あちらもこちらも今、世代交代の波。
無理もない。
長らく時代を支えてきた70代、60代は団塊の世代~そのジュニア世代。圧倒的人数がいらっしゃるのだもの。
定年制のない仕事や役割は、ご本人が退かれる意向を示すまで現役が続く。
もう体が悲鳴をあげている、これ以上無理だ、となって初めて跡継ぎを探す。
ところがそれから探すのではあまりに切羽詰まりすぎている。
その世代の方たちは、真面目で辛抱強く、そして強いパワーを持っている。その強いパワーで時代を生き抜いてきた、いう自負もある。工夫も施し、そこに強いこだわりを持っている。
しかし長年取り組んできた中で改善を繰り返し、細部までこだわり抜いた内容を、急に短期間で誰かに引き継ごうというのには無理がある。
請け負う側にも都合というものがあり、全てを請け負うには、諸条件が見事に一致してこそ。
すっぽりと思うような形で収まってくれる稀有な人など、普通はそんな都合良く見つかりはしない。
ところが、そうこうしてタイムリミットが近くなった頃、稀にひょっこり有望な人材に白羽の矢が当たることがある。
そんな時、私は人のネットワークの力の強さを感じる。
けれど、どんな場合も、無条件で話も聞かずに、「はい、そうですか」と丸ごと引き継ぐ人はいないだろう。
まずは説明を聞いたり、見学したり、一定の期間、一緒に動いてみたりしながら、現状を把握して、判断材料が揃うだけの時間はかけ、吟味するに違いない。
そこにはリスクもあるし責任も伴うからだ。
逆に言うと、そこまでしないで安請け合いする人がいるとしたら、信用ならない。と私は感じている。
誠実な人ならば、体が限界を迎えるまでこだわり抜いて長年続けてきた前任者に敬意を払い、その意向を十分に聞き出そうとするはずだ。
同時にこの先引き継ぐものを未来へと繋いでいくための可能性を考えることだろう。
未来へ繋いでいくためには、時代に沿って変化しなくてはならないこともある。
長年続けてきた重みを感じるからこそ、途中でその歴史が消えてしまうことのないように、上手に残していかなくてはならない。
引き継ぐ者にもズシリと重いものがのしかかる。
どんな小規模なものであっても、浅い考えで手を入れて変化させた結果、大事にしなければならない核の部分が無くなってしまっては、本末転倒になってしまうから。
だからこそ、変えてはならない重要なところはどこで、変えても差し支えがなく融通が利くところはどこなのか、熱心に前任者の話に耳を傾けることになる。
疑問点があれば、前任者の気持ちを推し量りつつも慎重に、お伺いを立てることだろう。
一通りこなしてみれば、どうしてそのやり方になっているか分かることも、時間の短い中では経験から得ることができない。
だから、聞いておかなくてはいけないのだ。
なのに、中にはそんな切羽詰まったなかでも、長年こだわりを持って牽引してきた自負が強すぎて、「変わること」を受け入れることができない人がいる。
どんな些細な部分でも「変わる」ということに痛みを感じてしまうのだろう。
思い入れが強すぎて、その仕事の隅々に至るまでが「自分自身」になっていて、「変わる」ということに自分を否定されたような気持ちになってしまうからなのかもしれない。
変わることは自分を否定されること。
もはや強いこだわりは、こだわりを通り越して「執着」と化している。
それが個人の仕事なら理解できても、公の仕事ならどうだろう?
前任者のこだわりが、公の仕事にとって欠かせない事柄なのか、個人的なこだわり部分なのか、そこが分かれ道。
もし個人的なこだわりであれば、それは公の仕事を私物化してしまっていることにはならないだろうか。
個人的な感情がこだわりと化し、スムーズに代替わりが進まないとすれば、公の仕事の大きな妨げとなる。
いくつもそういう場面に出逢ってきたが、前任者はまず初めに、自分自身のこだわりやプライドや嫉妬など、複雑な感情が去来して混乱し、我を失う。
せっかくやって来た後継者にバトンタッチすることができずに、機会を失う。
結果、、、
理性を取り戻した頃、
長年の重みなど深く考えていないが、耳障りの良い言葉を囁く者を信じ、手渡してしまい、結局大事な核の部分まで変えられてしまい、、、
続いた歴史に幕を下ろしてしまうことになる。
一つの文化が終わってしまうのだ。
少しの変化を受け入れて、許可さえ出せば、大切にしてきたものが受け継がれるものを。
みすみす自らの手でその機会を潰すなど、見ていてつくづく惜しいと思わざるを得ない。
