きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

道標。

生き方は人それぞれ。

どんな人にもその人だけのドラマがある。

通って来た道が、自分にとって何か意味があるのか無いのか。

あるのだとしたら、どんな意味付けをするかは、その人次第だ。

どんなに過酷で波瀾万丈でも、そこから何を学びだしたか自分に問い、答えが出たら、学びを得たことに感謝する。

もし、学んだことが見当たらないなら、それはまだ学びの途中なのだろう。

 

学びのヒントはパズルのピースの様なものだ。

初めは置きどころに困り、ピースは取り敢えずの所に置くしかない。それがどこの部分を補うものか、どんな意味を成すものか、見当がつかない。

それでもまた新たなピースを一つ一つ手にし、先に置いたピースや次に来るピースとの関連性を考えて置くことで、その内、絵の一部が現れてくる。

初めの頃のピースはただただ与えられるもので、闇雲に置かざるを得ないが、いつまでもそれでは纏まることがない。偶然を待つだけだ。

だから、早くから周りとの関連性を見つけ、次の一手になるような位置を見つけるためには必要になるものがある。

それは思考力。

一つ一つのピースにどんな意味があり、次に渡されたピースにはどんな役割があるのか。そしてこの絵を完成させることでどこに導かれるのか、考えていく思考力だ。

じゃあ、思考力があれば、どんどんピースは降ってきて、はめることができるのだろうか。

ここで、私は感じていることがある。

それは、与えられた壁を乗り越えること。

そして徳を積むこと。

経験上、目の前に来た壁を登らずに逃げて迂回すると、必ずまた同じ壁がやって来る。

何度も何度も同じ壁がやって来るのなら、その度に少しずつでもいいから、対処法を学び、上がっていきたい。

そうすれば、やがていつかは壁を乗り越えることができる。

その壁を乗り換える為に必要な鍵は、徳を積むこと。

 

自分の為に行動するのは小我だが、他者の為に行動するのは大我。

壁が来た時、他者を蹴落としてでも踏みつけてでも越えようとしたなら、例えその時は越えられたとしても、きっとまた同じ壁が立ちはだかるだろう。

苦しくても、わきまえて、より良く生きようと、多少遠回りになってでも一歩一歩誘惑に負けず他者の為に動くことができたなら、壁を越えたと同時に、次のピースが与えられるのだろう。

さて、そのピースはどこにハマるピースだろうか。

こうやって、もがきながらも光を見失わないで、徳を積みながら一歩ずつ進んだ時、新たなピースがどこからともなくやって来る。

これが他力に他ならないのだろうと思う。

 

自分の力ではなく、他力の力によって、どこかに導かれようとすること。

 

その頭上を流れてやってくる大きな他力の流れに乗り遅れないようにする為には、いつもセンサーを働かせておくことだ。

 

こうして、どこに行くのか当てのない旅のようだけれど、小さな徳を積みながら進み、それが大我となって、自分の必要な壁を幾つも幾つも越えた時、パズルのピースは面白いように置くべきところに置かれ出し、完成が近づきだす。

その頃は、あと自分には何が必要か、見極められるようになっているだろう。

 

そんな時、歩いて来た道が良いものだったなら、「これで良かったんだよ」とどこからともなくメッセージがやって来るのかもしれない。

それは唯一のご褒美の様なもの。

 

子どもの頃、神社の境内で遊んでいた私に、今のタイミングで当時の神社が姿を現されたことが、私には

「ずっと見守っていたよ」

「これでいいんだよ」

と、言っていただいたような、何か光に包まれ温かいものを受け取ったように感じられた。

 

それは確かにご褒美だったのではないだろうか。

 

そして、これからまた歩んでいく上で方向性を示し背中を押してもらえるような示唆とも言える出来事だったように思う。