きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

雪解け。

義父が倒れた年末30日から今日までの13日間で、義父の住む地まで片道、高速で1時間40分の道のりを、すでに5回も通っている。

時間、体力、交通費。どれをとって考えても、義父が退院するまで近場でウィークリーマンションでも借りた方がいいのではないか?と、夫が探してくれたが年始はどこもいっぱい。結局日帰りで往復する日々が続くことになりそうだ。

3日は、妹が一緒に行きたいというので、夫と私合わせて3人で行こうかという話になっていた。

 

前日、ひょっこり息子からラインが入った。3日に私の妹が行くかどうかが気になっていたらしい。

 

息子は以前、妹と会う機会があったのに、ドタキャンして会えなかったことを意外と気にして残念に思っていたようだ。

「俺も行こうかな、、、」

そうラインには書かれていた。

ただし、夫と顔を合わせることには迷いがあったようだ。

 

夫と息子は同居している間に亀裂が入っていた。

「一緒に暮らす」ということは、血の繋がりがあっても何かと摩擦は起きるものだ。それぞれの習慣や志向に違いがあれば当然。

複数の他者と長く過ごすと段々と不適応を起こしてダメージを受ける息子だから、私と同居を再開するだけでも大きな懸念があったけれど、血の繋がりが無い夫ともなれば、お互いに難しい面があることは予想されていたが、それでも夫は同居して構わないと申し出てくれて始まった同居だった。勿論それは金銭的な負担軽減の為でもあるし、息子の難しさを想定しづらかった面もあるが、全てが夫の良心的な面から出された提案であったことだけは間違いがなかった。

その証拠に、私が雇われ仕事を辞めてからは、ずっと同居解消まで夫が息子の扶養者になってくれていた。

生活も全面的に見てくれていた。

繊細な夫もずいぶん我慢と辛抱をしてくれたからこそ成り立つ同居だった。

息子も当然我慢と辛抱をしていたことと思うが、どうしても文化の違いや立場の違いなど、目に見えない問題を柔軟に考え、多角面から考え、折り合いをつけることは難しく、他者の気持ちや意図を汲むことも苦手な為、段々と溝が深くなっていったのだった。

そして、私とも大きく衝突していたが、夫とも同様だった。

ただ、こういった衝突は、その後の息子の自立に繋がる大きな意味があったと私は考えている。

結果的に、この衝突なども含め、息子は自立せざるを得ない状況へと大きな流れに押し出されていく形で現在に至っているが、そのわだかまりを息子はまだその時点で解消できてはいなかった。

 

私は子育てをしてきた中で、子どもたちに伝えてきた大切なことが幾つかあった。

それは、例え相容れない相手であっても、節目には感情をいったん置き、日々の挨拶は勿論、節目にはきちんと挨拶をし礼儀を尽くす、ということ。

そして、例え相手に非があることでも、振り返った時、自分にも非がある部分があるとすれば、そこについては詫びる事ができる率直さを持つこと。だった。

引っ越しをする時も、最後の荷物を運びだす時点で夫は家におり、息子には挨拶をするチャンスは幾らでもあった。

私も、息子を1年と9ヶ月の間受け入れ、衝突があっても住まわせてくれた夫に対して、何が話をした方がいいのではないかと促しはしたが、息子は夫に声もかけないまま、家を退去したのだった。

 

そういう経緯があり、息子は夫には未だ会いづらいのだ。

本当は、きちんと挨拶をして家を出て欲しいというのが私の願いだったが、それは「私の願い」というだけで、息子にとっては余計なお世話でもあるわけで。今、そういう心境になれないのなら、無理強いしても意味はない、と思い、また「そういう時がくれば」と言って保留にしていた。

引っ越してから2ヶ月が経ったが、それでも連絡が来たときも、まだそんな心境にはなれていないようだった。

いや、もしかしたら、一人の暮らしを始め、息子の脳裏ではこれまでの出来事が走馬燈の様に流れ、反芻しながらあれこれ考えてはいたのかもしれない。

 

1年前に、息子は今回倒れた私の義父(母の夫)にも不義理を働いていた。

引きこもりの孫を案じて、多少なりとも仕事をして代金を得るという経験を積み、社会に出る練習になれば、と、家を掃除してくれたら代金を支払うと申し出てくれ、何度もお世話になっていたのに、ある時そこに居合わせた私や夫、義父の誰にも断ることなく忽然と姿を消してしまったのだ。

本人にすれば嫌になったから帰ったまでのこと、かもしれない。しかしそれはあまりに突飛な行動だった。次の日に義父に電話させ、心配かけたことを謝ることはできたが、それ以来息子は義父に会いに行くことを避けていた。

 

その義父が倒れたと知り、不義理で不信心な息子もさすがに心動かされたようだ。

結局、妹にも義父にも夫にも不義理を働いていて、今回その2人に会うことで何かしらこれまでの自分の行いを正したい、という息子の気持ちを私も感じ取っていた。

ただ、夫のことが核心にあり、躊躇している。

「引っ越しの時に挨拶していれば今回気持ち良く会えたのに」と返信すると、

「そういうことじゃない」と、どういうことなのかよく分からない返信が息子から送ってこられた。

私は続けて、

「誰にでもそれぞれ置かれている状況が違ったり、それぞれの気持ちや考えがあり、時にはしこりや溝があったりするけれど、いざ誰かに何かあって、みんなで協力して乗り越えなければならない困難にぶつかった時、そのそれぞれの思いや気持ちは一旦脇に置き、行動する、ということが必要だと私は考えていて、その為には普段から自分の置かれた環境や感情を多角面から見つめ、その問題を消化し、昇華させておくことが大切だと常々思っている」、と送ろうと文面を打ち、送信しようとしたその時に、息子から

「やっぱり行く」

という返事が先に届いた。

 

その、「やっぱり行く」という短い言葉が表していること。

それは、わだかまりのある夫とも自分から会う、という決意だ。

今まさに送ろうとしていた文章を私は削除し、

「そうやな、じゃ、行こうか」

とだけ送っておいた。

入院している義父に、早く会っておいたほうがいいだろうという気持ちが息子の背中を押したようだ。

その後になって、一緒にいくはずだった妹が、体調を崩して行けなくなったと連絡があったことを息子に伝えたが、一度決心した息子の気持ちは変わらなかった。

こうして、翌日、潤滑油役になるはずだった妹不在の中、どうなるやらと半ば不安な私と夫は息子の住むマンション近くの待ち合わせ場所へと向かった。

住民が車の送迎を待つ駅のロータリー横の道路に車を停め、待つこと数分。

髪を切り、少し大人びた明るい表情の息子が小走りで来るのが見えた。

元旦に作ったお節を持って訪ねたときは、まだ寝ぼけまなこで朦朧とし、ボサボサした様子だったのに、その日の息子はやけに清潔感があり、何か憑き物が落ちたかのような様子で、見違えるようだった。

車の外に出ていた私と二三言葉を交わした後、開けてやった後部座席に顔を突っ込んだ途端、息子は運転席の夫に堰を切ったように話しだした。

おっと。待て待て。何を話してるか聞いておかないと、、、

と慌てて私は助手席へと座る。

後で夫に確認したが、息子はまずは

「今日はお世話になります」

という挨拶から入ったようだ。

それだけで終わるのかと思ったがそうではなく、そこから暫く息子の話を初っ端から聞かされることになる。

息子の話は、夫と私の結婚当初からの話に遡る。その時の自分の気持ちから始まり、一旦私たちと別居したのち同居した経緯の確認。そして同居中の衝突の経緯へと続く。

私も夫も、聞きながら内心この話はどこに着地するのだろうかとヒヤヒヤしつつ、最後まで息子が何を言うのか静かに耳を傾け続けた。

夫は、私と息子の衝突の後、一家の長として、そして息子と7歳しか違わず、父親でもないにも関わらず、穏やかでけっして人に厳しく接するタイプでもないにも関わらず、父性としての役割を果たす為、同居の為のルールを提示し息子と話し合ったことがあった。父性の発動だ。

しかしその時の息子の態度は悪く、ルールを飲めない部分もあるにも関わらず、きちんと提案に合意しないまま、強行突破で同居を続けたことに対して、その時はまだ自分の理解が及んでおらずにそういう態度を取ってしまったことや、夫が我が家族に対して、必要な役割を果たしてくれていたことに気づけていなかったこと、今はそれに素直に感謝の気持ちでいること、そして、自分の悪かったことについて反省している、といった謝罪の言葉を述べることができたのだった。

これに対して、夫にも一部謝ってほしいところがあると主張もあり、一瞬夫がこの局面をどうするかと息を飲んだが、夫もグッと息を呑んだ後、誠意を込めた言葉を息子にかけてやってくれた。

何も夫が謝るようなことではなかったのだけれど、息子の気持ちを受け入れ、自分の気持ちを制し、求める言葉をかけてやったことで、息子は納得することができたし、お互いにわだかまりを一旦水に流すことができたようだった。

 

運転席の夫を見ると、時折私が口にしていたが、夫はまさかこの様な変化が起きるとは夢にも思えなかったようで、感無量といった表情を目に浮かべていた。

義父のいる病院までの道中は、それまでがウソの様に和気あいあいとした会話が弾んでいた。

 

病院に到着し、義父のいる大部屋に入った息子は、ここでも開口一番、去年の無断で居なくなった自分の行動を謝罪。義父もこれには驚いていたが、血は繋がらずとも長年気にかけ見守ってきた「孫」に、「今回の生活保護という結果は、全て自分のこれからの自立の為やからな」と祖父として重みのあるエールを息子に送ってくれていた。

息子は大きく頷き、義父に頭を下げ、部屋を後にした。

その足で私たちは義父と母の家へ行き、総出で年末にしてあげることができなかった掃除をして帰路についたが、息子は夫と力を合わせ、別人の様に熱心に心を込めて床や壁の拭き掃除を行ってくれていた。

久しぶりに体を動かし疲れたと思うが、別れ際、息子は清々しい表情をしていた。

別れ際、車の窓越しに挨拶に来た息子に、私は右手を差し出した。

今日の「働き」に対しての握手だ。

潔癖性の息子は、一瞬動かしかけた手を引っ込め、マンションに入っていきかけた、と思ったが、急にまた車を回り込んでやってきて、徐ろに私に向かって手を差し出した。

考え直したのだろう。

私はニカッと笑い、

「よく頑張りました」

と強く息子の手を握り握手した。

 

「こんな日が訪れるとは思わなかった。」

帰り道、夫が漏らした言葉だ。

「信じられないと思うけど、本当に訪れたでしょう?」と私。

「ここまでよくがんばったね。お疲れ様」

と、夫が私の長きに渡るこれまでの労を労ってくれた。

 

前日。息子に送りかけて送らなかったあの内容の文章。送らなかったけれど、息子にはちゃんと伝わっていたようだ。

義父は、狭心症という診断がつき、しんどい思いをしたけれど、その義父のSOSがあったからこそ、息子と私や夫を取り巻く事態が大きく動くことができた。

義父のお陰だ。

 

我が家に長く降り積もっていた雪は、ようやく雪解けを迎えることができた。

その瞬間のきらめきは過去最高のものだった。

 

前振りをしておけば、ちゃんといつか「その時」はやって来る。