私が小学校で児童を支援する職について初めて出逢ったのは右脳に傷を負った少年でした。
小学2年生〜卒業までは小学校で担当し、その後、療育機関に移ってからは高1から卒業まで発達支援を行いました。
右脳に傷があるということは、左半身に不随や痺れが生じることを意味します。
右脳に傷があることがどれくらい関与しているかはわかりませんが、その少年は自閉症としても重度に値する判定が下り、重いADHD特有の特性も併せ持っておられ、学校ではそう認識されていました。
しかし、聞き返すことができなかったのですが、高機能、、、という言葉を耳にしたこともありました。右脳に損傷を受けたことによる、高次機能障害のことだったのか、高機能自閉症のことだったのか今となっては分からずじまいです。
どちらにしても、目の前の少年には、重いコミュニケーションの障がいがあり、言葉はオウム返し(エコラリア)、高い衝動性、切れ切れの集中力、そして感情面では非常に怒りっぽい反面、緊張する場面ではゲラゲラ笑うといった、感情表現のスイッチが私たちのそれとは違う場所に繋がれている様な反応の仕方をしていました。
そして何より、偏りはあるけれど、その興味、集中の続くことにはずば抜けて高い知性を持ち合わせていました。特に数学的には3桁✕3桁といった計算は低学年の時から瞬時に解けていました。また、素数などの特定の数列には固執といえるほどの関心を持っていました。カレンダーも過去何年も遡って曜日まで言い当てることができます。
所謂サヴァン症候群といえる状態でした。
しかし、サヴァンは左脳に傷がある場合に右脳がそれをカバーしようとその潜在的な力を発揮して開花すると言われています。ではこの少年は左脳に損傷を?とも考えますが、左半身に麻痺が残っていることを見ても右脳に傷があるということは確かではないかと思うのです。
とにかく、一瞬の隙でもあれば、気配を消してその場から脱走してしまうことができるため、一時も目離しならない状態のお子さんでした。
私が出逢った小学2年生の段階で、その少年は自力歩行は可能で、お母さん譲りの運動神経の良さから、小走りなら走ることもでき、体育は他の児童と一緒に受けることもできていました。
ただ、左半身に麻痺からくる拘縮がみられ、2年生の時では左腕はいつも肘から軽く曲げられ、手首は内向きに曲がり、指は親指、人差し指、中指以外は自由が利きにくく、開きにくい状態でした。
足は自閉症特有のつま先歩きでもあり、左足は軽い拘縮から、そのつま先だちが右よりも強い様子で、恐らく力も入りずらかったことと思います。ジャンプの着地は主に右足に頼られていました。
その少年の幼少期、園時代のことは良く知りません。どれくらい、リハビリがあったのか、言葉少ななお母さんから情報を得たことがありませんでした。
ただ、学校に上がってからは月に一度のOTに通っておられました。
3年生の頃には、そのOTの先生から、この子にはもう教えることはない、と言われ、予約を取らなくなっていました。その先生の言葉の本意は分かりません。自閉症による、コンタクトの取りづらさから、教えられない、という意味が含まれていたようにも感じますが、もし、ハンデを負っていなければ、オリンピック選手にでもなれるほど、ハイパーな能力の持ち主であるとは言われていたようですから、右脳の傷による、重いハンデを生まれながらの能力でカバーされていたことはその後の彼の行動を見ていても確かでした。
ジャンプの着地は右足、と書いたように、小5の時には体育の単元であったハードルを、右足で踏み切り右足で着地する、という離れ技を自力で編み出していましたし、高校生になってからは誰よりも高くゴム跳びを両足ジャンプで飛び越すほど、その瞬発力と体幹、バランス力は素晴らしいものを持っていました。
全身が筋肉質で、小柄で華奢な小学生ながら背中は大人顔負けの筋肉が浮かび上がっていました。
左半身に麻痺と拘縮があり、筋力が弱い中、それだけの能力を持つ右半身。
それは、成長の過程で、身体の捻れを引き起こす要因と成り得るものでした。
右側の持つ力がハイパーで、左を十分カバーできるからと、両手離しで喜べるわけではなかったのです。
早くから、その指摘がなされていたことを知っていた私は、日々、ただでさえ、多重の困難をその小さな身体に背負った彼に、不自由な左手を、庇うのではなく、精一杯使うことを要求しました。
それは、医師からの指示でもあったのです。
医師からの指示だから、といっても、幼気な、まだ発達の遅れから内面も幼いその少年に、更なる困難を課す非情さを、自分が遂行しなければならない苦悩は私としても辛いものがありました。
優しい支援員なら、すかさず、左手の代わりに補助を進んでしたことと思います。
でも、私はいつも曲げられた左手にタッチし、「左も使うよ」と促しました。
タッチされると、彼は、しぶしぶ曲げていた腕を伸ばしやすい角度に回転させ、ぐぅっと伸ばした後、手首も伸ばし、指を開く努力をしました。
それでも手首は伸び切らないし、薬指、小指は曲げられたままです。
親指、人差し指、中指は開きますが、恐らく開くのに力がいるのでしょう。いつも親指と人差し指には力が入っていました。若しくは、強張った状態だったのかもしれません。
その力が入った3本の指で、授業で使うノートやプリントが動かないように角を押さえます。
細かな物は小指側の側面をまず机につけ、小指を少し開いて握るようにして掴みます。指先では掴むことができません。
国語の音読でも、左側はその3本の指で教科書を持って読み進めました。行を右手で辿って読まなければならない時は、左手だけでは教科書を支えられない為、私が代わりに持ってサポートしました。
着替えは自閉症とADHD特有の切れ切れの集中力の為、一人で完遂するのは困難で、集中が切れ切れになるのを防ぐ為に、一連の行動が最後まで終えるよう、途中でフェイドアウトしたい彼を私の身体でさりげなく壁を作り、自然と進めないようにしながらも、次の工程を、「肌着着るよ」「ズボン履くよ」「靴下履くよ」と言う様に、端的に促し対象となる衣服を手渡しました。成長してくると、この手渡しは無くし、自分で取ってもらうようにスライドしていきました。こうすることで、次第に一連の行動を終えるまで集中が続く様になっていくのです。
ただ、上着の着脱や、ズボンの、上げ下ろしは左半身が不自由ですと、自力だけでは困難です。
できるだけ、その時々の本人の力で頑張ってもらいながら、限界だなというところからは補助を入れるというやり方でそれ以外は見守るスタンスでした。
困難の多い、彼の身の上を考えると、本当に酷で、見ている側は可哀想だな、という感情がどうしても湧きがちになります。
でも、彼が成長の過程で、側に誰もいない時、上着もズボンも履けないで、暑さ寒さの中辛抱せざるを得なかったり、どうしようもなくその姿で人前に助けを呼びに行かざるを得ないことを想像すると、やはり、今は大変でも、この先必ず努力が彼を助けることになる、と、そのことをいつも自分に言い聞かせ、心を鬼にして、淡々と側で寄り添い続けました。
寄り添うというのは、何もいつも優しく手助けすることではありません。
不自由な彼が、体育の時間の前後に着替えを行う度に、横でつく者はそれを待つという忍耐を課せられます。夏は暑く、冬は寒い教室で、じっと、必要なタイミングを見計らい、フェイドアウトを防止し、一連の行動を促し、完結するまでを見守るということは、側にいる者にとっても非常にしんどく大変なことなのです。
でも、私たちが感じるそのしんどさ、大変さは、そっくりそのまま当事者である彼が感じていることでもあるのです。
その彼のしんどさを私たちも同じように感じながら、苦を共にする。
それもまた、寄り添う、ということに他ならないと、当時の私は彼から学ばさせてもらいました。
こういった補助する側の行動は、その日その時間、つく人によって違いが出ては良くありません。
つく側の人間の性格も考え方も様々ですが、ある人は可哀想という気持ちから殆どを手助けする。またはじっと待つ大変が嫌になり、時間に遅れない為に誰も見ていないからとサッと全部してあげる。ある人は関心がなく放置。
と、この様なことが繰り広げられるとどうなるかと言えば、当事者の子どもは当然優しく楽な方になびき依存しがちになります。担当が代わり、厳しい者がついた時には、楽な時間を過ごした分だけ、余計に厳しさを感じ、拒否したり荒れたりしてしまうことにも繋がります。
チームで対応方法やそこに至る深い理由まで見解を揃えて熟知しておかなければ、当事者の子どもが混乱してしまうのです。
これは介護、特に訪問介護でも言われていることですね。
大人の見解が分かれるくらい、半身に麻痺を持つ子どもの成長の傍らで関わるということは大変で難しいことでもあるということです。
さて、その少年は、殆どの体育や水泳、遠足などのイベントを、他の五体満足な定型発達と言われる子どもたちと同じように取り組み成長しました。勿論出来る範囲ではありますが、言ってみれば特別視しない環境に置かれ、極限に切磋琢磨した状態だったと思います。
小学校時代は、高機能障害か、または知的障がいとADHD を併せ持つ重度自閉症か、そういった、診断名を先生方は議論することが多くみられましたが、可能性のある診断名は勿論頭に入れながら、目の前のこの少年が、将来やってくる自立•自律する成人期の為に、今必要なのは何か、どうすれば、その必要なことを獲得出来るのか、その為に、どんな方法があるか、どこに補助があれば、他の児童と共に同じ空間を共有し、精一杯の学習や体験ができるか、を考え抜いた5年間でした。
その少年は、見事にそれに応え、高校生になる頃には、不自由だった左手は、物を掴む時には5本の指を大きく広げ、ゆっくりと1本1本ではありますが、器用に掴めるようになっていました。
彼は、小学校時代に刷り込まれた、「左も使う」という言葉を、ずっと守り、自分の意志で常に生活の中でも使ってきたのだろうと思います。
成長し、大きくなったその手は頼もしく、筋肉質な背中を見ていると、その人の誠実さが感じられ胸が熱くなったのを覚えています。
何が適切で、過剰な補助や配慮なのか、その時々で検討し、その人が定型発達児•者の中でも精一杯学習し体験、経験できる環境を作る。
それが本当のインクルージョンではないかと思います。
脳は可能性に満ちています。
損傷を受けた場所をカバーしようと他の箇所が変わりに活発に活動し、補い出すことがあります。
初めは繋がっていなかった神経も隅々まで繋がりだします。
それは、切磋琢磨し懸命に努力することで可能になります。
可能にするために、もう一つ忘れてはいけないのは、心の繋がりです。
共に、苦楽を共にし、信頼関係がある人、仲間との心の交流があってこそ、困難なことも楽しく、また、励まされ、もうちょっと頑張ろう、もう一歩進もう、と頑張れるのです。
私たちに出来ることは、そんな彼らを信じ、共に歩むことです。
決して諦めず、その人たちの手を取り、暗い道を照らす光の役割を担うことです。
この先の長い年月を想うと、心が沈むこともあると思います。
それでも子どもたちの成長は待ったなしです。
身体が軽いからできること。骨組みや筋肉がつくからできること。その年齢にしかできないことがあります。
沈むことがあっても止まっている暇はありません。
前を向いて進もうとしている子どもたちの為に、今、同じ様なお子さんを抱えているお父さん、お母さんを応援しています。
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