私が目の網膜の病気「原田病」にかかってから、おそらく16年が経ったと思う。
ある日片目の中に異次元への入り口のような円形が見え、次の日にはもう片方の目の中にも同じものが見え、慌てて評判の良い眼科を訪ねたところ、即入院して治療しなければ失明する危険があると診断された。
入院先は阪大病院。そこの眼科医の先生は、その原田病の専門医だった。
初めに見ていただいた眼科医は、その入院先の先生の先輩にあたる方だったようだ。
そこから3週間、大量のステロイド剤を投与する治療が始まった。息子は5年生だった。
難しい年頃で、置いて入院するのは気がかりだったが、こればかりは仕方なく、同居の前夫の義両親が何とか毎日学校に送り出してくれていた。
そんなある日、学校から連絡が入る。
まだ私の目は良くなっておらず、スマホの文字すらよく見えない頃だった。
電話は担任の先生からだった。
どうやら息子が6年生の卒業式の練習が嫌でごねて、連日対応に困っているというのだ。
息子に聞いてもらったところ、
「鼻がチリチリする」
と言ったそうだ。
それは、5年生が送る言葉を言い、歌を歌い、6年生から別れの言葉を返される頃に起こるらしい。
なるほど、鼻がチリチリか、、、。
私は、きっとそれは悲しくなって、泣きそうになるから鼻がチリチリ、むずむずとしているのだと思う。悲しいとか、寂しい気持ちになるんだね、と言ってやって欲しいとお願いした。きっと当日は参加できるはずだからと。
しかし、数日後、再び担任の先生から連絡があった。電話というよりは、連絡帳だったのかもしれない。記憶が曖昧になっているが。
先生は、「色々と手を尽くしてみているが、難しい。この状態では当日の参加は難しい。練習もままならない。今回は諦めても良いか」と、今回ばかりは途方に暮れた様子だった。しかも、リコーダーの演奏もしなくてはならないのに、数日前から見当たらないというのだ。だけど、なぜ人の子のことを勝手に諦めるのだ?という気持ちもあった。先生の大変さと、息子の可能性と、自分の気持ちのサンドイッチで病院のベッドの上でしばし悩んだ。
とりあえず、家人にリコーダーを探してもらったがどこにも無いという。
何故なのかは分からなかったが、先生には早急にリコーダーの手配をお願いし、当日は必ず参加できると思う。だから、諦めずに信じてやって欲しい、と話した。
それから私は息子に電話し、
「それは寂しい気持ちだと思うよ。優しいんだね。でも6年生は卒業してしまう。最後にありがとうの気持ちを込めて、参加すればそれで充分なんだよ。リコーダーは新しい物を買う。リコーダーが難しいなら、吹くマネでいい。そこに参加することに意義があるから」
と、念を押した。
6年生の卒業式当日。息子は無事に参加を果たすことができた。リコーダーは上手く吹けないところは吹くマネをしたそうだ。
毎回行事の前には大荒れになる。今度ばかりはもう無理か、と絶望するが、いや、きっと大丈夫だと、大局観で過ごしてきた。その結果、毎回ギリギリのラインだが、当日は精一杯の参加を果たしてくることができた。
先生もそれをご存知だったから、その時も、今回はもう無理だと思ったけれど、結局お母さんの言う通り、参加出来ましたね、と喜んでくださり事なきを得た。
こちらは失明するかどうかの瀬戸際に、更なる追い打ちを息子にかけられ、神に祈るしかない気持ちで入院生活を送っていて、キリキリさせられた。
そんな入院生活で、唯一救われたのが、担当医の先生のキャラだった。
ハーバード大にも留学されていたからだろうか。とてもアメリカンナイズされた感じの立ち居振る舞いで、顔は見えないけれど、非常に患者の不安に寄り添い、軽減してくださる対応で温かみがあった。老若男女どの患者さんにも出逢うと挨拶がてら、ポンとソフトに腕をタッチしお元気ですか、と声をかけられる。
年齢は私とほとんど変わらないということで、親近感もあり、住んでいた地域にも土地勘をお持ちで、診察の合間にする雑談も面白く楽しませていただいた。
結局、3週間の入院が終わる頃、散瞳剤の影響だと思うが、網膜が眼底に癒着し、上手く収縮できなくなり、いつも眩しいことと、今の様な3月という春先、花粉が飛ぶころや、感情の揺れる出来事などがあると、炎症がぶり返すので、多くの人が早期発見、早期治療をすれば治癒できるにも関わらず、私はその何%かの再発組に入ってしまうことになる。
その為、炎症が落ち着いても、数カ月に一度は診断を受け、状態を見ていただかねばならず、気がつけばその担当医とは16年のお付き合いとなったのだった。
先生はマラソンもお好きで、大阪マラソンにも毎年参加されている。
医者というハードな仕事をしながら毎日走り、大きな大会にも参加するといったバイタリティには脱帽だ。
そんな16年の中で、私は5年前に再婚したが、今の夫も偶然に若い頃、網膜に炎症の起こるベーチェット病にかかっていた時期があり、原田病の専門医であるその先生に、一度お会いしてみたい、ということで、私の診察に同行したことがあった。
夫の年齢が若いこともあって、長年診ている私が再婚したことへの驚きも重なったのだろうし、夫も一時期阪大で研究員をしていたことも刺激になったのか、動揺が隠せなかった。
暫く成り行きを聞いたあと、徐ろに
「でも、きらめきさんと出逢ったのは僕の方が先だよねぇ、そうだよねぇ?僕が先なんだからね」
と口走りだされたのだった。
はて。
先生、どうされました?
と思いつつ
「はい、勿論先生が先です」
と答えたら、
「ふふん。そうだよ、僕が先なんだからね!」
とご満悦なご様子でマウントを取っておられた(笑)
同じ「阪大」というキーワードがプライドを刺激してしまったのだろうか、、、。
帰り際、夫に向かい、先生が
「きらめきさんを頼みますよ」
と声をかけてくださった。 軽いトーンではなく、しっかりとした声かけだった。
夫は「はい、大丈夫です」と答える。
ほら、ホンダの山本さんから言われた時、何かどこかで同じやり取りがされたような?と過ったのは、実はこの担当医とのことだった。
あちらこちらで、私は親族でもない方々から、「頼みますよ」と託されている。
そういえば、以前には、私が見ているお子さんのお母さんにまで同じことを言われていた。
そして毎回、皆さん、ご主人はどうされてる?と夫のことを気にかけてくださる。
夫とは私が勤めていた療育施設で出逢っているが、一緒に働いて下さっていた10ほど上の職員の方などは、私たち夫婦を見るたびに、涙ぐみすらする。(夫が可哀想だからではなく)
なんだか不思議な感覚になるが、赤の他人の方々から、その様なお心遣いをいただくことの有難さを噛み締めてもいる。
長年の間に私にもそういった人間関係ができていたのだなと。
(もしかしたら、夫の人徳なのかもしれない)
今その先生は、淀川キリスト教病院に移られ、そこの部長先生になられている。
まだまだこれからもお元気でご活躍いただきたい。(私より2歳若いけど)