きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

問いかけはコミュニケーションの入り口。

昨日までに、私が発した質問に対するお答えではないかと思える記事を2つ見つけました。

本当に私の問いに触発されて書かれたかどうかの確信は持てませんが、タイミングからみてそうではないかなと思っているところです。また、そうでなかったとしても、それは構わないのですけれど。

お答えと思える記事を書かれた方は、直接質問を投げかけた方以外にもお二人。計三人いらっしゃいました。

どういったお答えにしろ、投げかけた問いに対して、ご自身の考えを発していただくというのは非常にありがたいことだと感じています。感謝です。

さすがに日頃からご自身の意見を発信されている方々。

そこは、人と人の思いが交差しスパークする瞬間。そのきらめきが私は好きです。

今回の私の問いは、少々厳しい内容だったことでしょう。

昨日の記事を入れて4つ書きましたが、どぎつい問いを突きつけられた方々が、その時どんな反応を示されたかはその人それぞれだろうと思います。

ガーンとショックを受け、もうここには立ち寄りたくないと思った方。

ガーンとショックを受け、悶々としたが、その後の成り行きを見るためまたお立ち寄りくださっている方。

ガーンの後、カーッと頭に血が昇りカッカカッカ来ている方。

ガーンと来たが、どういうことかな、とその後冷静に思考を巡らせた方。

初めから冷静に、この問いは何を言わんとしているか、じっくりと検討されている方。

色んな方々がおられたことでしょう。

1つの文章を読んで、どんな感想を持つか、どんな反応を起こすか、は、人によって違いがあります。

ここが、この世の中を複雑にしている理由だなと思います。

 

さて、私の問いを受け(?)、お一人目は、「何としてでも戦争回避、それ一択」と答えてくださいました。

お二人目は、「戦争回避だが、万が一の時は無抵抗」とのことでした。

最後の三人目は「戦争回避だが、万が一の時は戦う」

とのお答えでした。

更に三人目の方は、日頃からお互いの人権を尊重することや、命こそ宝などの価値観をあらためて認識し共有できるよう、新鮮な「空気」を創りだし供給することが大切だ、と記しておられました。

 

このお三人さんのお答えの共通点は、「何が何でも戦いは起こさない、最善を尽くすことが大切だ。」ということかと思います。

しかし、その後、万が一攻め込まれたら?のお答えは三者三様でした。

「一択であり、そんなことを考えることは無意味」「無抵抗」 「戦う」の3つです。

私は今回初めて無抵抗という方に出会いました。

 

実のところ、私の疑問というのは多岐に渡っており、複数の観点が入り混じっていました。

戦争前、戦争中、そして終盤。

なので、読まれた方は、頭の中が混乱されたことと思います。

そしてこの3人の方々は、とにかくその戦争前について重きを置いておられ、その為、その後について問うたことにはやや憤慨したお気持ちが文中には含まれているように感じました。

ただ、今回の私の一番知りたくて核心になる問いは、戦争が始まってしまった後になってからのことで、その時の行動が、結局、戦争を始める前の行動に繋がるとどこかで感じているからかもしれません。

なぜ戦争が始まってしまってからのことが気になるかというと、やはり国民にとってそこが一番危機に面するからだと思います。

これまで散々色んな資料、映画などを見てきました。自分が知り得ない当時の状況を自分事のように感じたい。それが、ゆくゆく戦争を回避することに繋がる、と子ども心に感じていたからだと思います。そこに描かれていることは想像を絶するものです。だからこそ、もしそんな状況になったら私はどうするか?を考えてきたのでしょう。

 

さて、問い自体は1行で書けるほどシンプルなものですが、答えようとすると膨大な量の思考と言語化が必要になります。

そうする内に、答える内容も、三者三様、そして内部で起こった反応も三者三様であったことが表に出てきたのではないかと感じています。

こうして問いかけてみたからこそ、その違いは明らかになったのだと思うのです。

もし、このお三方が、直接やりとりをされていたら、初めは同意見だったのに、まさかその後の意見がみんな違うことになるとは思わず驚かれたかもしれません。

人の意見というのは、深く聞いてみないことには分からないものなのだなとつくづく思います。

さて、私が問いかけた「もし一方的に攻め込まれたらどうするか?」には続きがあります。

このお三方の様に、意見が分かれた場合、そこから、また新たな疑問が湧いてくることになります。

あら?あなたはどうして、無抵抗なの?

あなたこそ、どうして戦うのですか?

と。

その時、この方々はとんな風なやり取りをされるでしょうか。とても関心があるところです。

実は、初めの問いは、これから始まるコミュニケーションの入り口でした。

時々問いかけを受けると身構え、責められているように感じることが日本人には多いですが、コミュニケーションの始まりは「問いかけ」によって始まります。そこからお互いが深く思っていることを理解し合うために何往復もしながらコミュニケーションを進めていくのです。正しいか正しくないかは関係ありません。

戦争に関する問いかけをした場合、特にその一番初めの一文で、苛立ちを表す方々がこれまでの経験では多いです。

一方が怒りを露わにすると、別の意見を持った方はそれについて述べることには勇気が必要になります。

当然問いかけは一度で終わり、コミュニケーションはそこで終了です。

意外と日本人は対話が苦手なようです。普段から自分の置かれた環境や気持ちについて説明することが少ない人は、咄嗟に上手く言語化できずに負荷がかかり、これが苛立ちへと変化するからではないかと思います。

若しくは、正しいことでないといけないと思うあまり、問いかけられると正しくないと言われたような気がするのかもしれません。

しかし、その時その人の中でどんな反応が起きるかは、その人がこれまでにどんな経験や背景を持っているかによって決まります。よって、それはその人の問題です。

問いかけが行われた時に、同じ反応が起こるという方は、まずそれが何故であるか内側と対話することを試みて、一旦フラットになる作業が必要かもしれません。

問われる人が起こす反応も様々なら、問いかけをする人の反応も様々だからです。

 

三人目の方が記しておられるように、戦争を回避するには対話が必要で、そこに至るまでに、「相手の人権を尊重することや、命こそ宝などの価値観をあらためて認識し共有できるよう、新鮮な「空気」を創りだし供給することが大切」、だとすれば、日常の中でも、人と人との間で重要な問いかけがなされた時は、相手がその意見に至った背景をじっくり考え、分からないところは更に質問を重ねることで理解を深めようと心がけることが基本的に大切なのかなと思います。それは相手に対するリスペクトです。

想像力と理性で相手を理解しようと努め対話することが平和に繋がる一歩だとすれば、私たち日本人はそこから取り組むことになりますね。

世界を平和にしたいと思えば、国民同士が争っていてはそれこそ意味がありません。

切羽詰まればみんな感情的になりますから、今から日本人は練習が必要なのかもしれませんね。

 

さて、話は変わりますが、今回問いを投げかけたことにより、私も他の方のお話を読ませていただく機会を経て、新たに気づきがありました。

1つは、初めて「無抵抗」という意見を持った方がおられたことでした。

これは私が長年考えていたことの選択肢の1つでした。

仏教の国に生まれた者として、そして第二次世界大戦を教訓として、私たち日本人は、次にそんな境遇になった時、どんな風に行動したらいいのだろうか。と、いうのが自分に対しての発問の始まりだったのだと思います。

子ども時代にガンジーがよく話題に上がっていたことも関係しているかもしれません。

しかし、それにも問題はあり、だからこそ考え続けてきたのでしょう。

こんな話を他の誰かにするなんてことはこれまで一度もありませんでした。こんな話をすると嫌がられるに決まっていますから。

日本人はとにかく重い話題を嫌う傾向があるなと思っています。

でも、今、こういう世界情勢の中で、ようやく多くの方が身に迫る危険を感じて自分事として考え始めた方が増えた中ですから、思い切って同じように関心の高い方にようやく問いかけることができました。

そんな中で、初めて「無抵抗だ」という考えをお持ちの方に出会ったのですから、私にとって驚きと共に、あぁ、そういう方もいらっしゃるんだとある種感慨深いものも感じました。

ところが、この方のお考えを読ませていただく内に、急に違う視点が私の中に出てきてしまいました。

さっき書いたように、攻め込まれても無抵抗でいる、という選択肢が私の中に加わったのは、ガンジーの非暴力•不服従という言葉を知ったことに始まります。

繰り返すようですが、

日本は仏教の国で、スリランカからは仏陀の言葉により助けられ、唯一の被爆国である日本で生まれた日本人なら、第二次世界大戦で学んだことから、例え踏み込まれても、抵抗しないことで抵抗とする、ということが、世界に対して強いアイデンティティを示すことに繋がり、平和を発信することになるのではないだろうか?と考えたからでした。

でも実際にその時になって、無抵抗であるなどと、そんなことができるだろうか。とも思うわけです。

 

それに、、、

日本人が無抵抗でいることで抵抗とするには、国民がみんなでそう理解しなければ成しえないことです。

たった1人がそうしたところで、どんな志があってそうしたかなど、知られるはずもありません。

かといって、国が強要したり、教育で刷り込めば、それは捕虜になるなら自爆せよと教えた戦前の日本の教育と同じになるのではないか?とふと思いました、

それに、自分1人がそう考えたからと言って、家族にそれを強要することもできないではないか、とも思いました。

その時の判断は、その人に委ねられる、というのが、第二次世界大戦から日本が学んだことなのかもしれません。

だから、勿論

いざとなって戦う人を責められはしません。その人には守りたいものがあるから。

無抵抗な人を止めることもできません。それはその人の信条によるものだから。

そして家族に強要することもできません。その人の命はその人のものだから。

これが今回、答えてくださった方の記事を読んで、気づきを得て変化した私の考えの部分です。

もしかすると、投げかけたことで感情を害した方もいらっしゃるかもしれません。

けれど、投げかけたものに対して、その方々が懸命に投げ返してくださったもののお陰で、私は1つ長年の問いに対する考えを前に進めることができました。

 

コミュニケーションは、対話を繰り返し他者の意見を聞くことで、自分の価値観に変容をもたらすものです。

日本人として、同じ国民同士で争わぬよう、意見が違う人とも、まずは落ち着いてしっかりと対話することから始めるのが良いのかもしれません。

 

それから、今回のパキスタンの働きは、そうすることがパキスタンにとっても利があるからとも言われています。

今回、日本は部が悪すぎました。

関係が近いもの同士だからこそ、はっきりと物が言えないということもあるかなと思ったり。

そんな時は当事者ではなく、距離のある者が仲裁役となるしかありません。

それならば、また別の場面では日本が仲裁役を担うこともできるのだろうと思いました。

人間関係と同じで、その時々で仲裁できる人がその役を持ち回れたら一番いいのではないかと思いました。

どこかとどこかが揉めたとしても、必ず誰かが仲裁に入る。

そうやって、回り回って仲裁をしていく内に、揉めたって仕方がない。みんな、仲間なんだから、と国同士手を繋ぎ一体となっていくことができたら。

結構それが一番平和を保つことに近いことなのかもしれません。

5回に渡り、長々と私の長年の問いにお付き合いいただき、ありがとうございました。

また、ご自身のお考えを示してくださった方々、ありがとうございます。

この場をお借りして感謝申し上げます。