きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

だからユーモアが必要なのさ。

いつも始めは青ざめた表情で、入り口に立ちすくむ子どもたちがいます。

挨拶されても頑なな表情を更に固くさせるだけ。

不機嫌な様子で、誘いを受けてもプイっとそっぽを向いてしまいます。

とりつく島もありません。

特に、活動が始まってしまってから、や、途中で入らなければならない時などに、こうした固い表情、態度になってしまうことが多いです。

神経の細い、繊細さんに多いです。

色んな大人が声かけていっても、変化無し。誰もが手をこまねいている。そんな様子を眺めていた後、私はすぅーっと近づきます。

「はぁい。〇〇くん、おはよ〜♪待ってたよ😊。来てくれたんや。良かった。うれしいよ」

決して声高に、明るいトーンで勢いよくは近づきません。

必ず静かにそぉ〜っと近づき、微笑みながらそう言って、子どもたちと手を合わせます。

すると、子どもはお母さんや柱を掴んでいた手を離し、やはり、すぅーっと付いてきてくれます。

そこからは一緒に活動に参加しながら雑談です。

自分の興味の赴くまま、その時頭の中にあることを質問してきてくれます。いつも突拍子もないことから始まります。それに「うんうん、そうなんや。あはは😊」と応じながら、みんなと同じ集団行動を無言で促します。

不思議とその時は笑顔で楽しく活動してくれます。

私は「安全基地」を務めているのです。

興味の赴くままにとめどなく話しかけてくるのは安心して活動に取り組む為の彼らの苦肉の防御策です。

そんな時、だいたい子どもたちは私の年齢を聞いてきます。

「先生、何歳?」

 

これは、子どもたちの関心事です。

「はくさい」

そう答えると、初めての子どもは、あっけに取られます。

「え!?」

そして憤慨します。

「もう!冗談ちゃうって!。何歳!?」

そして答えます。

「てんさい」

「もう!何歳なんよ」

「しろサイ🦏」

「、、、、、」

私は子どもたちに歳を聞かれても、絶対に答えません。

なぜなら、子どもたちは「お姉ちゃん」が好きだからです。

自分が気に入っている相手が、「お姉ちゃん」かどうかを確かめている。それなのに、実年齢を明かしてしまうとどうなるか?

落胆します(笑)

いや、50代なん、見てわかるやろ。

そう大体の大人は思いますよね。

でも、分からないんです。発達障がいの子どもたちの多くが、相手の年齢を予測することに長けていません。

白髪があるかないか。

見分けるポイントはそこくらいでしょうか。

前には40代なのに、25歳?と言われたことがありました。心躍りますね。

 

聞いても満足のいく回答を得られないものだから、相手も思い出したら何度も聞いてきます。

その度に、「何歳?」「白菜」、、、のやり取りが繰り返されるのです。

生真面目で、こだわりが強くて、融通の利かないタイプの繊細さんたちは、恐らくイライラしていることと思います。それでも、煙に巻かれたまま、活動を続けます。

 

こんなことを続けて3年目になるお子さんがいました。

先日も、1人遊んでいるところへ寄っていき、ひとしきりいっしょに遊んだ後、そのタイミングはやって来ました。

「先生、何歳?」

私は、ウケながらも、

「白菜」

と言った時でした。

「そう!😊」

と、その子は言ったのです。

その日は夫も活動に加わっていて、側にいたので、この瞬間をキャッチしていました。しかし表情に出しません。

もう一度、その子が聞きました。

「何歳?」

「てんさい」

と答えた私。

 

いつになく、その子は嬉しそうにニコニコして笑っています。

 

帰り道、夫とこの時の話になりました。

「そう!😊」って言ってたね〜って。

「面白いよね〜」って。

この、「面白い」とは、子どもの成長、変化って不思議で面白いよね、って意味です。

夫は私がいつも、冗談が通じにくい生真面目なASDの子どもたちに、根気強くオヤジギャグを返しているのを知っています。

そして、なぜそうするのかの意味も知っています。

生真面目でこだわりが強くて繊細さんは、他者の意向をキャッチしたり、想像を共有したりすることが苦手なことがよくあります。

相手がなぜ冗談を言ってくるのか、その意図が分からずに、相手が想像していることを共有することも苦手な為に、言葉の持つもう一つの意味だとか、冗談だとかに気づけないとか理解が追いつかないとかで、楽しさも共有することがなかなか難しく、そのために同じ空間の空気を楽しむとか、笑いを理解して共有する、といったことが苦手なのです。

 

でも、かれこれ3年も続けている内、、、

「何歳?白菜」「何歳?天才」が、その子の中で、パターンに組み込まれた、その瞬間を私と夫はキャッチしたのです。

その子は無自覚のまま、いつものように私に聞いたのだと思います。久しぶりだったこともあり、忘れてまた同じことを聞いたのでしょう。が、いつもと同じパターンが返ってきて、その瞬間、面白みを初めて感じたのでしょう。

「あ、そうだ、これこれ♪」といった感情なのでしょう。

そして、それを、側に夫がいたからこそ、第三者の夫を意識して、このやり取りを、「そうなんだ、これなんだよ」と「共有」したのだと思います。

高学年になっていたことも関係あるのでしょう。

だいたいの冗談が通じなかった子どもたちが、高学年になり、私のギャグを理解して、笑うようになったり、冷静を装いポーカーフェイスながらポツリと自分もオヤジギャグを試したりと、「笑いの共有」が可能になるのが高学年になってからなのです。

彼らの好きな、「お決まり」の「お約束」になるまで。続けてこそ、蒼白い顔でこわばっている彼らに笑顔が戻るのです。

だから、ユーモアが必要なのさ。