きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

大人の役割。

小学四年生の国語の教材に、椎名誠さんの「プラタナスの木」というお話があるそうです。

数日前に初めて目を通しました。

読んだ感想は、人それぞれだそうなので、これはあくまでも私が読み取ったことです。

登場人物の四人の少年たちは四年生です。その中の1人、「マーちん」が主人公です。

その四人と、ある公園の大きな古いプラタナスの木と、どこからともなく現れたおじいさんとのお話です。

よくある話に、少年が一夏の経験、冒険を通して一回り逞しく大きく育った、というものがありますが、このお話を丁寧に読んでいくと、それだけではないというのが分かるような気がします。

川沿いの古い大きなプラタナスの木しかない公園。遊具などもなく、小さな幼児を連れたお母さんたちも、中学生たちもめったに来ない公園。

だからこそ、この公園はボール遊びが禁止されず、四人の少年たちがボール遊びをする為にくることができたのでしょう。

小さな幼児も中学生もめったに来ない公園に、元気で仲良しの少年たちが来てサッカーに熱中して遊んでくれているのは、長い時間、ずっと佇んで公園を見守ってきたプラタナスにとっては、よほど嬉しいことだったのではないでしょうか。だからこそ陽射しが強い真夏日には、大好きなサッカーをして、いっぱい汗をかいた少年たちに心地よい日陰と、火照った頬に気持ち良い風を提供してくれていたのかもしれません。

プラタナスの木に、もし本当にそんな気持ちがあったなら、どこからともなく現れたおじいさんの、少年たちを優しく見守る目線と重なるような気がしました。

少年たちを優しく見守るおじいさんは、次第に少年たちと仲良くなります。時には転がってきたボールを抱えて、さりげなく両チームの興奮を抑えたり、木陰に入って水分補給するといった自分たちの体調を管理することもやんわり教えています。

そして、プラタナスの木が逆さまになったところを想像させることで、目には見えない地中の根の存在や働きを、子どもの関心を上手に引いて伝え、物事を違った視点で見ることを伝えているように思います。

木は、地上部分の枝や葉を支える為に、人知れず見えない地中で同じくらい大きな根を張り水分や養分を送る為に働いている。でも、地中部分の根もまた、その地上の幹や枝葉がないと水分や養分を送ることができなくなり困ってしまう。お互いがお互いを必要とし、助け合う、互助の関係を教えているように思えます。

今、忘れがちになっている互助の関係の大切さは、人間の世界においても、そしてまた自然界まで視野を広げても、同じことが言えそうだということに気づかされます。

夏休みに入り、マーちんがお父さんのふるさとに行くことをおじいさんに告げると、おじいさんはお父さんのふるさとにあるたくさんの木たちによろしく、という言付けをします。このおじいさんは、なぜ、どこかも分からないマーちんのおとうさんのふるさとの木たちのことを口にしたのでしょうか?

あたかもずっと前から知っていて、遠く離れることになった友だちへの言付けを頼むように。

おじいさんは、もしかして、以前は同じふるさとにいた時があったのでしょうか?

それとも、マーちんが遠くに行ってしまっている間も、自分やプラタナスのことを忘れてしまわないようにわざと言ったのでしょうか?

大きく古いプラタナス。おじいさんの気持ちを想像してみると、多くのおじいさんおばあさんがそうであるように、可愛い孫とつかの間離れることも、自分の残された時間を考えると少し切ない気持ちが胸を横切り、自分のことを忘れないで欲しいと思ったとしてもおかしくはないかもしれません。

そうして、マーちんが公園を離れ、お父さんのふるさとにいる間に、どちらの土地も大きな台風に見舞われます。おじいさんの言付けの影響もあってか、台風の間にマーちんは頭におじいさんの顔を思い浮かべましたが、その顔が段々薄れていくような感覚を覚えながら眠りにつきます。

距離が遠く離れているのに、嵐の晩にわざわざ顔を思い浮かべるのは、それだけ心の深いところでおじいさんと結びつきができているからではないかと思います。

夜が明けて、マーちんは嵐が去ったあとの森を眺めながら、おじいさんが教えてくれたことを今度は自分自身の感覚で実感します。

根がしっかり張った森の木は、強い風が吹いても簡単には倒れたれりしない。森も崩れたりしない。

これを人で考えてみたらどうでしょう?様々な知識や経験という養分をたくさん得て、その養分が枝葉の隅々まで行き渡り深く考察ができる人、それがやがて自信となり、しっかり自分の足で立っている人、そんな人は少々困難なことに出会っても簡単には挫折しません。その力強さは共通する気がします。

お父さんのふるさとから戻ったマーちんは、公園のプラタナスの木が台風で倒れてしまって、切られて切り株だけになってしまったことを知らされます。

木のことも、おじいさんのことも忘れられないマーちんたちは、ある日思い立ってその切り株の上に立ってみます。

「根に支えられてるみたいだ」

そう感じたマーちんたちは自然と手を上げて広げてみます。みんなが木の幹や枝や葉っぱになったみたいで、根との繋がりまで感じることができた様子です。

プラタナスの木がまた芽を出すまで、自分たちが幹や枝や葉っぱの代わりになろう。」

そう思えたマーちんたちは、今の状況をただ悲しむだけではなく、自分たちが古いプラタナスの代わりになろう、なれる、と、ある意味問題の打開策を見つけることができ、そう遠くない未来にそれが叶うだろうという見通しを立てる力がついていることが分かります。

大きく息をすって、青い空を見上げた マーちんたちは、今は前を向いています。希望をもって自分たちでできることをやっていこう。おじいさんがいない間、自分たちが代わりになろう、なれるという自信に似た気持ちが溢れています。

プラタナスやおじいさんとの出逢いによって、マーちんたちは確かに優しく強く成長した様子が描かれています。

冒頭に上げたように、このお話は確かに一夏の経験によって少年たちは一回り逞しく大きく成長しています。ただ、それだけでなく、「おじいさん」という経験豊富な大人によって、物の見方を変えることや、普段は隠れていて見えない部分を見る大切さ、互助の感覚、若い頃にしっかり知識や経験を得ておくことの重要さを学んでいます。

それらの教えは、マーちんたちがこれから生きていく上で、大きな道標となっていくのではないでしょうか。

このお話は、《大人の役割》の大切さと《命のバトン》についても書かれた物語のように思うのです。

私は療育という仕事柄、いつも《大人の役割》とは何だろう?と考えています。

初めてのブログで竹内まりやさんの「人生の扉」という曲について触れましたが、そういう年代になるにしたがって、自分ができることは何だろう、何が残せるのだろう、と考えるのかもしれません。

このおじいさんの様に、子どもたちを優しく大きな愛で包み、生きていく道標に少しでもなりたい。そう感じさせてくれる物語でした。

 

これは「感動文」ではありません。私の拙い読書感想文です。

ここまで目を通していただき、ありがとうございます✨