きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

すみれ色のなみだ。夢の後。

月曜日の朝、母が夢に現れた後、暫し考えてから、すぐこのブログにそのことを書いた。忘れないようにしようと思って。

そして、落ち着いてから午前中の間に買い物へ出かけた。

いつも車で外出するときは、ほぼ音楽をかけていると言っていい。

専らロック系、時々昔の音楽、という感じか。

でも昨日は母が昔好きだと教えてくれた歌をかけることにした。私が子どもの頃に教えてもらった歌。それは

「すみれ色の涙」岩崎宏美さん。

「四季の歌」芹洋子さん。

の2曲だ。

それからも母が好きになった歌はあったと思う。テレサ・テンさんの曲は好きだったと思う。意外なところでは安全地帯のワインレッドの心が好きだった。

だけど、最初の2曲は、母というものを良く表している歌だと子どもの頃から思っていた。

亡くなってからも、それを思い出していたのに、実際にはまだかけることができていなかったから、母が夢に現れたのをきっかけに、聴いてみようと思った。

「すみれ色の涙」、、、岩崎宏美さんの澄んだ歌声が素晴らしい。私は子どもの頃、「マドンナたちのララバイ」が好きだったが、この「すみれ色の涙」は、岩崎宏美さんが若い頃の歌だから、声もその分余計に清らかだった。

母は、この歌と同じように、野原にひっそりと咲く「すみれ」が好きな人だった。華やかな薔薇や大輪の向日葵などではない。目立たないけど、ひっそりと静かに咲くすみれが好きだった。

メロディが心に染みる。運転しながら聴いていると、母がもっと元気だった頃、義父の運転する車の助手席に乗り、会話しているという後ろ姿が一瞬脳裏に浮かんで消えた。そんな風に2人の姿を後部座席から見たことは一度もないのに。

「すみれ色の涙」の曲調の成せる技だったのだろう。

13時過ぎに帰宅し、ご飯を食べてから、このブログを開いた。

コメントが来ていたのだ。

同じはてなブロガーの宵闇の夜(id:yoiyaminoyoru)さんだった。

母が夢に現れたことで、きっとここから好転するだろう、と記事に書いたことに対して、「どんなことが起こるか楽しみです」とくださっていたのだ

なので、「私の好転とは、きっと良い形で物事が収まるだろうということなんですよ」とお返事させてもらった。スマホを見ると14:30頃になっていた。

母が亡くなってからというもの、義父との関係が難しくなっていた。俄に私たちには無縁だと思っていた相続の問題が出てきたり、納骨を巡って義父と意見が合わなくなるなど、急に雲行きが怪しくなってしまっていたのだ。

どうも、義父に偏った話をする人がいるようで、頑固な義父が余計に頑固になり、疑心暗鬼にもなり、話が通じなくなってしまっていた。さすがに義父も高齢で、認知面でも考慮しなくてはならないかと案ずるほどだった。

私たち娘は行き詰まり、娘同士でも波風が立つようになりだして、母の葬儀が終わった途端にこれまでの関係がガタガタと音を立てて崩れたようで、まさかこんなことになろうとは、と、人生の厳しさに項垂れる数日間だった。

妹たちや夫は、もはや、義父とは話をするのは無理では?と気を揉んでいたが、私一人、「いや、きっと、話が通じる日が来る」と信じたかったが、万事休すか、と娘や夫の言い分が正しかったのかもしれないと思いかけていた。

それでもじわじわと時間をかけて、義父の様子を見ながらやり取りを続け、相続は一方的な義父の言い分を受け入れ、それで良しとし、遺骨も義父が分骨を提案したので、のむことにした。 これ以上、話が長引くことは、義父の体調から考えると避けたいという思いがあったからだった。

分骨といっても、喉仏と体の各部分を少しずつの小さな骨壺だ。僅かな骨を分けることは、忍びないが、それしか着地点がなかった。

しかし、調べると分骨して納骨するにも証明書が必要らしい。

そこで、この日の午前中出かける前に、母が住んでいた土地の市役所や斎場に電話をかけた。

斎場の記録から、再度証明書を出してもらえるかと思ったが違っていて、初めにもらった証明書を持っていき、それを見ながら申請書を書かなければならないと斎場の人は言う。

初めの証明書は義父が持っている。

1日に義父の元へ行くには行くが、それは片付けの為であり、再び斎場に行ける時間の余裕はないだろう。

あとは義父に電話して、内容を教えてもらうしかない。直接行って、聞いたものを元に申請書を書く。斎場の方もそれでいいといっている。

ということで、義父にまた電話しなければならないな、、、と考えていた。

ら、、、電話がなった。

義父からだった。

別件での連絡だったが、その話の後に、それはそうとなぁ、と何やら義父が切り出した。

「今見てたんやけど(多分テレビだろう)、納骨やら永代供養やら、合祀やらなぁ、色んなパターンや考え方を言っててなぁ、」と、言っている。

「うんうん、ややこしいよねぇ?」と私。

「やっぱり、わしももうこの歳やろう?寺に納めるつもりやったんやけど、自分が亡くなってしまったらその後がなぁ、、、」と義父。

そこで、私はハッとした。

 

「そうやね。そう考えると、今後のことは、私たち娘にさせてもらえませんか」

思い切って義父に伝えた。

これまで何度も相続についても、遺骨についても、良いタイミングはあったのに、私が義父の気持ちを変に案ずるが為に上手く事を運べず、余計におかしな方向へと流れだしてしまったことを悔やみ、もし今度何か義父から発せられる事があったら、今度こそはすかさずキャッチし、流れを変えよう、と心に決めていた。

だから、ここだ!と切り出せたのだ。

「そうか。それなら今度持っていけ。そやから分骨はせんでいい」

と義父。

なんと!

あんなに頑なだったのに、あっさり承諾。

「わかったよ。じゃあ。そうしよう」と私。

その件はまさかの急な大転換点を迎えたのだった。

それが14:40。

宵闇さんに「きっと良い形で収まるだろう」とお返事してから10分後のことだった。

 

自分でも、あまりの急展開に驚いていた。

電話の向こうの義父は、付き物が落ちたように今までの義父に戻っていた。

短期は損気。じっくりと、義父の気持ちが落ち着き、出方が変わるのを待っていてよかった。きっと通じると信じていてよかった。

そう思わされた瞬間だった。

前回会った時には、娘代表として、大切なことは言わなくてはならなくて、よく飲み込めなかった義父は激怒し、怒鳴り、私を何かで叩こうという素振りまで見せる、まさに激昂状態だった。

でも、私はそれに動じることなく淡々と説明し、必要な場面ではきっぱりと言うべきことは言っていた。

落ち着いた義父は、

「お前、わしがあれだけ怒ってるのに、よく冷静にいられたな」と言っていた。

「わしは怒りっぽいんやで?」と言うので、

「知ってるよ?」と返した。

「でも、優しいんやで?」とも言うので、

「それも知ってるよ?」と返した。

「18年の付き合いなんやで?」と付け加えた時、義父は、うう、、、と項垂れていた。

今回のことは、血が繫がっていないからこそ起きた、それぞれの立場の違いからくる、想いの違いだったと思う。

でも、血が繫がっていなくても、時の流れの中で繋いできたものがあったとも思う。

義理の親子ではあるが、信頼関係はあったと思う。

それまで間に母がいたことで回っていたことが、亡くなった途端、壊れるのかと思ったが、どうやら母が裏で何か上手く行くようにお膳立てしてくれたのかもしれないなと思った。

 

夢は上手くいく暗示、とは思ったが、本当にその日に上手く着地できるとは思わなかった。

夢に出てきたのは、それを知らせる為だったかのかもしれない。

死に目に会えなかった私は、夢の中で母に最期のお別れの言葉を伝えることができた。

義父との間に詰まっていたものも、スッと流れた。

夢のおかげで、鬱々悶々としていた私の気持ちも晴れ晴れとしたものに変わっていた。

 

いたずらっ子ぽく笑う母の写真に向かい、「お母さんが上手くいくようにしてくれたんか?ありがとね」と声をかけた。

 

笑っている母の写真の横には、すみれ色のパンジーが飾られている。

 

母の夢。

昨夜、というか今朝だろうか。

母の夢を見た。

 

何故か私の夢はいつも大勢の人が出入りする場所や部屋で、物が雑然としていることが多い。

昨夜の夢もその通り雑然とした部屋で、その一角に母がベッドの様な所に横たわっていた。

夢の中の母も生前と同じ、寝たきりの状態だった。

しかし違うのは、反応の少ない生前の様子と違って、意識はしっかりとしており、話は充分にできる状態だった。

私はその母を、その場所で機械浴の様に寝たままで入浴させてあげようと思い立つ。

まずは顔を洗う。

入念に洗顔フォームで洗う。ゆすぐのが少し難しい。

その後に洗髪を。

シャワーを使い、綺麗に流し、ゆっくりとケアしながら、会話をしている。

「こんな風に、デイでもお風呂入れてもらってたん?」と聞くと、「そうそう」と言っていたことを覚えている。

夢の中で、私は生前とは違ってしっかりしている母と話しながら、この母はすでに亡くなっていて、私の為に出てきてくれていることに気づきながら、そのことには触れずに接している。言えば、この夢が終わってしまいそうだと思ったからだった。

時折、邪魔が入りながらも、何とかやり終えるころ、もう時間が残されていないことを感じた。母の顔が風船のように丸く膨らんでキャラクターのようになり、そして緑色になっていったからだった。その顔を見ながら、あぁ、これで最後なんだ、と実感した。

慌てて母に、

「なかなか充分には行けずにごめんね。お母さんの子どもに生まれてきて良かったよ。ありがとう」

と伝え、抱きしめた。

そこで夢は終わった。

 

母は亡くなった時、緑色に顔の色が変わっていたと聞いている。だから、夢の中でもそう変化したのだろうか。

 

亡くなった時、恐らく一ヶ月後くらいに夢に出てきてくれるのではないかと、うっすら感じていた。

昨夜はちょうど22日目だった。

なぜそう感じたか。

それは母の2番目の夫(私たちの2番目の父)だった人が、母と離婚後、亡くなり、ちょうどそれから一ヶ月後に私の夢の中に出てきてくれたからだった。

母の2番目の夫が亡くなった時、連絡を受けた母と私たちでひっそりと、本当に小さなお葬式をあげた。僧侶もいなかったことが不憫で、その人の宗派など知らなかったが、せめてもと思い、他の者が席を外して私一人の時に、持ってきていた般若心経の小さな経本を見ながら、慣れないお経をブツブツと3回ほど唱えていた。

もしかしたら、それで、出てきてくれたのではないかと当時の私は考えていた。

夢の中のその人は、一時期一緒に暮らしていた家の一階で、ステテコパッチに白いTシャツ1枚の出で立ちで、こたつに入り、話しかけても、ただニコニコしていた。

他の姉妹の夢には出てきていない。

そういうことがあったから、母も出てきてくれるような気がしたのだ。

しかし昨日は、その様なことは微塵も考えていなかった。

ただ夕暮れ時に、夫とお互いの親の業の物語について話していただけ。

それまでは、生前の母の業によって起きた様々な出来事を妹と思い出し、文句を言っていたくらいだ。

今、私と2人の妹の所には、同じ写真がそれぞれ飾られている。

母は好きだったパープルのカーディガンを着て、いたずらっ子のように微笑んでいる写真。

それは、本当は右隣に息子が座り、肩に手を回していた写真だった。スマホで編集し、母だけにして妹たちに送ってあった。

その写真のすぐそばで、私たち娘が愚痴っているのを、きっとバツが悪い思いで聞いていたことだろう。

 

最近の写真の中では、その息子と一緒に写ったものが一番良い笑顔をしていた。私と一緒に撮ったものではそこまでの良い笑顔にはならない。夫や、息子が声をかけたり、手を握ったりした時だけ、本当に嬉しそうな表情を浮かべる。そんな現金な母だった。

余談だが、母の2番目の夫が亡くなった時、大事に持っていた定期入れに挟まっていたのも、幼い息子がその人に抱かれて写った写真だった。

息子は、何というか、不思議と、無自覚だが昔から人に愛され大事にされる何かを持っている。縁だろうか。何か役目の様なものがあるように思う。

予想より、少し早かったけれど、愚痴っていた娘の前に現れ、終始穏やかに、長い時間、私と会話し、別れの挨拶をして去っていった母に、言いようが無いような心が満たされる時間をもらい、初めて一人むせび泣いた。

きっと、今の状況を慰めにきてもくれたのだろう。

業の深い母だったが、懐も愛情も深い人だった。

夢の中では、私が母を抱きしめていたが、反対に私が母の愛に抱かれていた感覚だ。

 

きっと、ここから色々と好転していく気配を感じる。

 

業。

人にはもって生まれた業(ごう)のようなものがある。

その業が強い人のことを

「業が深い」という。

 

最近はこの業という言葉も、あまり聞かれなくなったように思う。

代わりにカルマという言葉が流行ったからか。

業とカルマは同一の意味だそうだ。

しかし、カルマでは、前世の記憶、前世から背負ったもの、などという意味合いが濃く感じられると思うが、業は世間一般では、その人の執着や欲望の意として使われることが多いのではないだろうか。

昔からよく言われてきたのは、お金、お酒、異性問題、賭け事、などであろうか。

それ以外にも、人により、何かに強く惹かれ駆り立てられるもの。

それが、前世からどの様な因果関係によって、現世に影響をもたらされたものなのかなどは知らない。

ただ、三つ子の魂百までも、という言葉があるように、人間が生まれ持った業は幾つになっても変わらないのだな、と深く思わされることがある。

しばしば、まるで、駆り立てられているかのように、業に向かって突き進む人の姿を見る度、「あぁ、業とは、、、」と思う。

突き進む本人は、それが自分の背負った業による行動だとは認識していないのだろう。

だから、余計に、端からは、その突き進む姿を見て、業の深さを感じるのだろう。

 

人の人生は平均80数年と長い。

それでも最後の最後に現れ、残るものは、やはりこの業なのかもしれない。

 

じゅんぐり、じゅんぐり。

娘、夫、私、義父(亡母の夫)の4人は、年齢の一桁の数字がいつも同じになる。

 

例えば、

 

娘が22歳の時は、

夫 32歳。

私 52歳。

義父82歳。

というように、一桁の数字が同じなのだ。

 

ということで、

娘と夫は10歳違い。

夫と私は20歳違い。

私と義父は30歳違いに。

 

夫と義父だと50歳違い。

娘と義父だと60歳違い。

 

娘と夫は平成生まれ。

私と義父は昭和生まれ。

 

義父は戦中生まれ。

私は戦後生まれ。

 

今日、夫と話していて、こういったことを再認識したのだった。

 

母が亡くなり、諸々の話を義父とする。

しかし、色々と難航している。

 

生きてきた時代背景が違う。

気質が違う。

 

義父も高齢。

話がスムーズに進まないことも多い。

その要因は何なのか。

私には分かっても、夫や娘などにはなかなか分かりにくいこともあるだろう。5歳違いの妹たちにだって、分からないかもしれない。

 

義父は家長として命を下すことが話し合いだと思っている。

だけど、お義父さん、相手にも意見を聞き、お互いに理解し合い、より良い着地点を見つけていく、というのが話し合いなんですよ。

 

義父は、自分の出した提案を通したく、

「はい、と言え」と言うのが口グセだ。

お義父さん、それは、強要というんですよ。

 

義父にそう伝えたところで、80数年そうして生きてきた人が簡単に変わることは難しいだろう。この先は余計に。

 

私たち娘は、母に守られもしたが、随分振り回されても生きてきた。

義父を選んだのも、そうだ、母だ。

もう。お母さんは。

と、母の写真に文句を言ってみる。

 

写真の母は、いたずらっ子のような笑みを浮かべ、ただ笑っている。

 

しかし、その歴史も、もうこれから更新されることはないのだ。

 

これからは、私たちは、私たちの時間を大切に生きるのみ。

 

そう思うと、なんだろう。

 

人生って、短いんだな。と気づいた。

 

同じことを、いつか我が子供たちも思う日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

知らせ。

夫のスマホがピコン!と鳴った。

深夜1時。

2人揃って床に転がり寝ていたが、咄嗟に目が醒めた。

膝丈パンツを履いている左脛がさわさわとした。

うわ!っと上体を起こし、見ると脛をムカデが這っていた。

赤い足のあいつ!

まあまあの大きさだ。

 

半分まだ寝ている頭ながら、

ムカデに刺されないようにするには!?

その後逃げられないうちにトングで捕まえるには!?

と考え、払い除けた後すぐトングを置く玄関に走れるよう、そっと態勢を整え、素早くサッと払いのけた。

何故かムカデはゆっくりしている。人間の足の上を歩いていたことに気づいていなかったのだろうか。

玄関まですっ飛び、トングを持って戻り一発で捕まえた。

そのまま玄関の外へ出る。

コンクリートの上で格闘していたが、一旦離すと、打って変わって猛スピードで逃げ出した。 

暗い、見えない。

庭のソーラーライトを取りにいき、照らしてその後も格闘を続けた。

何とか退治して中に戻ると、夫が台所の床を指差し、

ゴキちゃんがいるよ

と言う。

小さめ。

速攻トングで掴んで再び外へ。

 

このゴキブリを狙って来たのかな。

 

夫のスマホが鳴らなかったら、私はムカデに刺されていただろう。

天の知らせ。

永遠におさらばよ。

その日、夫は朝から副業バイトに出ることになっていた。

しかし目が覚めた時にはすでに夫はいない。

しまった、寝過ごした、と慌ててふらふらと起き上がり、寝室を出ようとして、掴んだスマホにふと目をやった。

違和感を感じる。

寝ぼけているから、スマホ画面がいつもと違うことに気づいたが、ピンと来ず、暫く画面を見つめた。

どうやら電話の着信の表示画面になっているようだ。画面をよくよく凝視して、やっと誰からだか頭が認識した。

「母担当のヘルパーさん」だ。

我に返り、慌てて電話に出る。

ヘルパーさんからということは、義父の身にまた何かあったのかもしれない。

と、思ったが、違った。

母だった。

「お母さんが緊急搬送されました」

義父は一緒に病院へ行ったため、ヘルパーさんが代わりに連絡を下さったようだ。

面食らった。一体何があったのか。

また熱がでたのか。

 

状況は残酷だった。

すでに心肺停止状態。

毎朝来てくれるヘルパーさんが、ベッドの上の母の異変を見つけてくれたのだった。

病院に搬送後、一度は心臓マッサージにより吹き替えしたらしいが、すぐに停止。

母はそこで息絶えてしまったそうだ。

医師から何時に来れますかと聞かれる。

これから、妹にも連絡し、待ち合わせピックアップ。息子や娘、そして離れた土地にいる母の姉妹たちにも連絡しなければならない。

3時間後には到着できるかと思います。と返答し、急いで支度した。

こういうこともあるかと、喪服やバッグなど、手入れしてどこに置いておくか決めていたが、いざとなると思考がまとまらない。まずは各所に連絡をしながら、頭の中で用意するものの段取りをつける。

息子は急で、行きたいのは山々だけれども身体が追いつかないということで、また明日にでも自分で行くよ、とのことだった。母の姉妹たちも、高齢だし、病人を抱えていたり、手術後だったりで、離れた母のところにはいけないと申し訳なさそうにしていた。

しかし、私の2人の妹たちは、連絡がスムーズにつき、運良く両方仕事が休み、予定も無しで、母の元に向かえることとなった。それだけがミラクル。本当に良かったと思った。

夫はバイトに出ていたが、丁度、母の連絡が入った時帰宅していた。雨が降りそうで予定を変更したんだそうだ。本当に良かった。

ということで、なんとか出発。母の元へ急いだ。

母は認知症であったが、すでに自力で動くことはできなくなっており、車椅子とベッドの生活で、徘徊することもなく、暴言などで家族を困らせることもなく、ひと言の文句もなく、ただただ静かに全てを受け入れ、ひっそりと過ごしていた。

その母が、朝方、誰にも看取られることもなく、壮絶な姿で亡くなっていたというのは衝撃的なことでもあった。

それでも、医師は尿路感染による全身状態の悪化からくる老衰、と診断した。

私は一通り説明をしていただいたが、一点、分からないことがあった。

説明された死因と、母の姿が一致しない部分があったのだ。

どうしてそういう姿になるのか、そういう姿になるのは、どのような現象が起きるからなのか。その現象が起こる過程で、母の最期はどのような苦しみがあったのか。

娘として、誰にも看取られていない現状の中、少しでも母の最期について、知りたいという思い、そして、たった一人で逝った母の苦しみを知ってやりたい、そんな気持ちがあり、医師にもう一度、その現象について質問をした。

すると医師はそれまでの穏やかな口ぶりが一変し、苛立ちを露わにし、「さっき言ったように!」と、再び同じ説明を繰り返した。

話を聞いていない、または理解していない家族だと思ったのだろう。

いや、または、実際には死体解剖などしていない状況で、死因は診断したものの、どういう成り行きでその現象になるかは、はっきりと特定できない、説明できないことから、苛立つことでうやむやにしたのかもしれない。

後から夫とも話したが、夫も私のひと言から、そこまでの深い問いが含まれていたとは汲むことができなかったと言っていた。

「〇〇(その現象)というのはどういうことなのでしょうか」

といった質問から、家族の想いまでは汲み取れない。

それはそうかもしれない。

私も端的にしか発していない。それは、医師の説明に言葉を挟む事自体、家族にとっては気が引けることで、まずは気になることがある、と発信する第一手であるから。

その場で上手く専門的なことを質問できる家族はさほど多くないだろう。

しかし、そこで自分の説明をもう一度繰り返しただけ、という目の前の医師を眺め、この医師に、再度先ほどの問いを投げかけることの無意味さを感じたことと、そうはいっても、運びこまれてから数時間、私たちを待ち、その間に血液検査をして結果を出してくれた医師に対して、ありがたいという気持ちもあり、説明が終わる頃には、「ありがとうございました」と言って引くことを選び、実際、そうして部屋を後にした。

これまで何度でも体験していることでもあるが、医師は自分が分かっていることは、患者や家族も分かると思っている。患者や家族が、分からない部分はどこで、どの様な問いを持っているかは、分からないことが多い。

人の生き死にに関わり、かけがえのない家族の最期となれば、特に、聞いてなかったのか?理解していないのか?と思っても、ひと言、「どうされました?」とか、「何か気になることがありますか?」と、折り返しコミュニケーションを取りさえすれば良いことではないかと思う。そうすれば、口をやっとのことで開いた家族は、話す場を与えられ、つとつとと、心に引っかかっていることを話し出せるに違いない。

これは教師や私たちのような仕事のもの、そして世間一般の仕事でも言えることだとも思う。

腹が立つわけでもなく、悲しいわけでもなく、ただ、淡々とその様なことを医師を見ながら考えていた。

大変な激務の救急で、次々やってくる患者を見るなかで、命の重さを知っているからこそ、その激務に耐え続けていて、でも、その大変な仕事だからこそ、続ける内に、家族の気持ちにほんの少し寄り添うだけの気持ちの余裕すら無くなってしまうのだとしたら。それは、この目の前の医師だけのせいでも何でもない。

でも、事故や事件に家族や大切な人が巻き込まれ、最期の瞬間を立ち会うことができなかった方々が、ずっと細部まで突き詰めて闘い苦しんでおられるのは、少しでもその時の状況を理解し、心を寄り添わすことで、少しでも供養に繋がれば、というような気持ちなのだろうな、と感じた。

その家族の気持ちにほんの少し気づく余裕があればいいのにね。と、残念に思いつつ、またどこかできっと、その理由に近いものにたどり着くことがあるだろう、とも思うことにした。

義父は、母の最期の姿を目にしている。私よりも衝撃は強かっただろう。気丈にしているけれど、明らかに動揺が見られた。何より、普段から黒い顔が真っ黒になっていた。

義父は私が来たことで、少し安心し、安置している部屋から家に帰りたいと言う。

え?母を置いて、戻るの?と、看護師さんも、家族も総出で苦笑い。

まだ今から葬儀場を決めないといけないよ、と説得し、ロビーへと二人で移動。

保険会社や病院やと、これまで一人で全て対応してきた義父だけれど、もう葬儀場を決めるような気力も体力もなかった。

「全てお前に委ねる」との指令をもらい、横に義父を置き、2軒電話をかけ見積もりをした。

勿論この様なことは初めてだ。見積もりをしたいと言っても、今からお迎えに行き、到着してから相談でいいかと言う。母を連れて行ってしまえば、葬儀会社を変えることなどできないではないか。大まかでいいので、電話でとお願いした。

病院が勧めてくれた2軒のうち1軒は、非常に形式ばった丁寧な説明で、融通が利かないような気がした。

それに比べて2軒目は、ざっくばらんな印象だった。金額提示も低かった。

しかし、1軒目は真っ先に

「この度はお悔やみ申し上げます」

と遺族へ言葉をかけたのに対し、2軒目は何もなく本題へと進んだ。

この差は何を意味するだろうか。

結局、喪主である義父は1軒目でいいと承諾し、決定した。

病院に車で母をお迎えに来てくれたのは、予想外に若く華奢な女性だった。

こんなに頼りなげな女性が一人で?とみんなが心配になった。しかし、やり取りはしっかりしている。慣れた様子だ。しかし、エレベーターに乗り、裏口に停めた車までストレッチャーで運ぶ際には、何度か曲がり角に軽くぶつけたり擦ったりすることがあった。

後から妹がそのことについて、お母さんを大事にしてない、とボヤいていた。

こういう時、遺族としては、ちょっとした他者の言動が気になるものだ。しかし、私は一生懸命一人で運んでくれている人が少し角に擦ったからといって、そう揚げ足を取ることもないのではとも思っていた。なぜなら、そんな小さなことを気にして他者の言動を言うほど、私たちは母を大事にしてあげることができていただろうか?と思ったからである。

華奢な女性は、それ以外はテキパキと、一人でストレッチャーごと車の荷台に乗せ、一人で大きな車を運転して出発していった。

葬儀所は、想像していたより立派な所だった。安置してくれる部屋も予想よりずっと立派な和室だった。もっと簡素な味気ないものを想像していただけに、綺麗な部屋で母を休ませてあげられることが嬉しかった。

料金の相談に来られた方は、しっかりしていて飲み込みも早く、無理な勧めも一切なかった。電話で伺ったよりもずっと低い金額で纏めて下さり、義父はすっかり安堵したようだった。

何年も母に会いに来ていなかった1人の妹は、突然の訃報においおい泣いていた。きっと、会いに来なかったことを悔やんでいたに違いない。

私は、その時々で様子を連絡していたが、遠いことと仕事が忙しいことを理由に全く来なかったこの妹に対して、これまで責めることはしてこなかった。

私は長女だが、長女だから、母の元へ通っていた訳ではない。例え次女、三女だったとしても、同じようにしただろう。それは、自分がそうしたかったからであり、その方が良いと思ったからだ。

この妹には妹の考えがあり、その考えによって、母の元に来ないことを選択している。それにより、後悔が残ったとしても、それは本人が引き受ければ良いことだと思う。

同じ姉妹間で、負担を分け合うことができれば一番良いが、そうでなかったからと言って揉める必要もない。

母は亡くなる数日前に、「娘に会いたい」とヘルパーさんに告げたそうで、私は次の日に会いにいっていた。もう1人の妹は体調が悪く来れなかったが、ラインのビデオ通話で顔を見て会話していた。だからか、その妹は、時折しくしくと涙を見せることはあったが、そう崩れることはなかった。

私は子どもの頃から母の相談相手だった。母の幼い頃からの生い立ち、飼っていた動物たち、姉妹関係、凄くもてていた高校時代、バレーボール部だったこと、販売の仕事だったこと、実父との出逢いに至るまで、繰り返し繰り返し聞かされ、その実父との間が冷めてからは、揉める度に仲介に入らなければならなかった。

そうする内に、私は娘でありながら、どこか母を守らなくてはならないと思うようになり、一時期立場が逆転していたこともあった。気がつけば、私は母の人生を歩いていたのだろうと思う。

泣くでもなく、ただ母の側に座り、私はその母の人生をしみじみと振り返る時間を過ごしていた。苦労の多い人生だったね、と。

柩には、中に埋め尽くされるくらいの花を手向け、上には母の姉妹からの豪華な花を乗せた。

花に囲まれた母を見て、義父は「可愛い」と言った。そして、いつも可愛かったとも。

母は特別容姿が可愛いというわけではないが、人柄が可愛いということなのだろう。昔から歴代の彼氏に「可愛い人」と評されることが多かった。78歳になっても伴侶から可愛いと言ってもらえるなんて素敵なことだ。

型にハマった受け答えだったその葬儀場は、結局隅々まで配慮が行き届く良いところだった。初めに感じた対応の差。それが全てを表していたと思った。

 

出棺し、火葬場に向かう霊柩車の中では助手席に座った。運転してくれる方が、こちらの寺事情などについて気にして色々教えてくれた。

火葬場では、柩を運搬車に乗せる係員の方が待ち構えていた。この方がここからの案内担当者だった。独特の雰囲気を持つ方で、少し怖いような気もしていた。それが、いざ炉前の告別室につくと一変された。別人かと思うほどに、私たち遺族に向き合い説明する表情、目線、声のトーンに穏やかでありながら重みがあり、慈愛さえ感じられた。しっかりと心を傾けてくれている、そういったものが伝わってきたのだ。

静かに、でも毅然と、親族の気持ちや動きに気を配られながら、誘導してくださる姿はベテランそのものだった。

焼き上がってから案内に来てくれた方は、もう少し年配だったが、外にタバコを吸いに出た義父を優しく待っていて下さった。

私はこの火葬場に入った頃から、日頃読ませていただいている、斎場にお勤めで、そこで働く日々を綴っておられる、はてなブロガーの天然!(id:aki3nak)さんのブログ"「生きる」を考える"に描かれている光景を頭に思い浮かべながら、ここで働く方々を眺めていた。

炉の向こうにいて、焼く作業をしておられるであろう方の存在を感じ、少し夫にも説明をしたりした。

まさかこんなに早く、実際に自分の目で見て体験するとは思わなかったし、違った視点でそこの空気感を感じることができ、天然!さんのブログを読ませていただいていて良かったと思った。

再び案内された炉前で、母の骨が出てくるのを待った。予定の時間より大幅に早く焼き上がったのは、骨粗鬆症だったからかもしれない。身体の骨の多くが形がない状態だった。ただ、背骨全体に手術でつけられていた金具がそのまま残っていた。

喪主である義父が母の頭に近い場所に立ち、私はその横にいた。

気丈な義父も、母の姿を見て、一歩後ろに下がったのを見て、無情さを感じているのだろうなと察した。

母の骨をジッとみつめ、口を閉じていた義父が、暫くしてから呟いた。

「これで、永遠におさらばよ」

 

口の悪い義父だが、この言葉には母を慈しみ、大事にしてきた義父ならではの愛情と哀しみ、寂しさが込められていた。

義父は、人は亡くなってしまえばそこでお終い。後の世界のことなど信じてはいない。お墓も戒名も初七日も四十九日などにも囚われない人。言ってみれば仏様が成仏していくストーリーさえ信じてはいない。色即是空、空即是色を体現しているような人だ。

「その分、母が生きている時には、精一杯のことをした」

だから、

姿が亡くなった今、

「永遠におさらば」

なのだろう。

喉仏を入れる小さな骨壺には入らない、他の骨を何度も振り返りながら、私たちは前へと進んだ。

 

人は死んでから幾ら一生懸命してやったって意味がない。

生きているうちが大切や。

 

義父の言葉が心に深く残った。