きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

ちびっこ達と新たな出発。

1月から、週に1度、2歳と3、4歳児の親子体操教室の講師をしている。

長年(30数年)続いたその教室の、二人の先生の内のお一人が3月でお辞めになるので、1人講師を探しているけど、どうですか?と声をかけていただいたことがきっかけで。

市の子どもたちの成長にとって大切な教室をもうしばらく存続させることが出来るなら、という思いで引き受けたのだった。

私が引き受けなければ、後任がおらず、教室自体が消滅するところだった。

 

子どもたちとの運動なら、慣れている。

しかし、2歳から4歳までの子どもたちというのは初めてなので、発達段階を遡り、自分の子育ても遡り、頭の中をある意味バージョンアップ。

そして業務委託なので、ある程度雇い主である施設の意向を確認し、今おられる講師の先生方のこれまでの経歴や教室をどのように引っ張ってこられたかを、ざっくりではあるが情報収集して初日を迎えた。

 

こういう仕事あるあるで、現場では手取り足取り教えてくれるという余裕なんてものはまずないと思った方がいい。

予想通り、初日からいきなり打ち合わせなく本番に入り、引き継ぎのために、先生の目や体の動きを見ながら、その意図と意向を常に探り、自分の立ち位置と役割を測りながら動いた。

元々体育会系なので、こういう流れも慣れている。むしろ、それくらいの方がやりやすく、ざっと流れに食らいついてやってみて、後から疑問が出たところについてすり合わせていけばいいと思っている。

3月末の前任者との交代までに私に残された時間は、週に一度、1日2コマ。45分と1時間。それを7回のみ。

サブとして、お母さんやお父さん、そしてちびっこ達の補助に回りながら体操やダンスそして、広い体育館いっぱいを使うサーキットの内容も急ピッチで覚えた。たった7回だったけれど、ほぼ大まかにこの仕事の要点を掴むことができた。

あとは細かな動きや歌の歌詞、相方の先生とのコンビネーションについて、自宅で徹底練習して体に覚え込ませるのみ。

 

そうこうして迎えた4月。

既に新体制になり、前任の先生に代わり、もう一人の先生と二人で教室を開始している。

これまで療育で関わってきた年少〜高3までと違い、生まれてまだ2年も経たない1歳数カ月〜4歳までのちびっこ達。

まだ、歩くのさえ、危うく、小さいトランポリンの上でジャンプ!ジャンプ!するのだって、上手く膝を使って出来ないお子さんたち。

そんなちびっこ達と、まずはお母さんお父さんが愛着形成するためのスキンシップ遊びにも取り組む。

前任の先生はその道のプロでもあったが、長年携わる内、もっとより良いものを、と常に新しいものを提供しようと全力で向き合われたのだろう、昨年度の内容は、その年齢のお子さんたちにとっては少しばかりレベルが高く、産後のお母さんたちの為の運動も兼ねていた為、運動量も多いので私でもゼイゼイするほどだった。きっと、産後のお母さんたちにとってもハードすぎたろうと思う。

お母さん方に我が子を他の子どもと比べて怒ったりしないで欲しい、という願いも持っておられたが、それならば、余計にペースが早いと、お母さん方は焦り、余裕を失って上手く動くことのできない子どもにイライラしてしまうだろう。

 

だから、相方の先生と相談して、親子でしっかり手を繋ぎ、目を合わせ、子どもの動きに合わせながら運動できるように、少しペースを落として取り組んでもらえるよう変えながら、今年度は進めている。楽しく運動するには、そうできるように環境調整が大切だ。

 

私は、療育の世界が長い。

小学生でも両足揃えてのジャンプもままならない子どもたちと切磋琢磨してきた。両足ジャンプが、できるようになる為には、体のバランスが整わなくてはいけない。自分の体を思うように操れるようになるには、筋力と意志の力が必要になる。体の隅々まで神経が行き届くには、年数もかかる。そして、指導者から出される指示を聞き、それを理解し、従えるという力を養って初めて、他者とタイミングを合わせて動く、という連携した動きに到達できる。

その全てをしっかり育てた後、ゆくゆくは例えば大縄の8の字なども跳べるまでに仕上げていくというような世界。それには慣れていた。

 

ところが、この、生まれて2、3年の間もない小さなお子さんたちは、3ヶ月ほどのワンクールが終わる頃には、音楽を聞き、私たちの動きを模倣してダンスすることもできるし、ちょっとした介助で両足ジャンプもできるようになる。私たちの指示をよく聞いて、スタートしたり、ストップしたりすることもできる。前に立つ私たちを見る、という共同注視の力もある。

驚いたのは、コースを決めずに自由に走り回っていても、ぶつかりそうになった時、咄嗟にお互い足で急ブレーキをかけて直前で止まったり躱したりして、衝突を回避できていることだ。これは走りながら、目で周りをよく見ることが出来ていて、注意を払えている証拠。そして相手に気づき、ぶつかりそうだ!と情報が脳に伝わり、ストップ!と体に瞬時に指令が伝わっているからこそ。その体の内部の連携が、こんなに幼い子どもたちに備わっているという点だった。

療育施設にやって来る子どもたちが、出来なくて困っていること。できるようになるまでにかなりの努力と年数がかかること。それが、定型発達であろうと思われる多くの子どもたちには、この年齢で既に力として備わっていることを改めて思い知り、障がいを持った子どもたちの困難さを逆に強く再認識する、ということになった。

 

そうは言っても、この親子教室には、何割かは、グレーゾーンであったり、ADHDASDの可能性がある子どもたちがちらほら混じっている。

まだこの段階で診断されてきている子は少ないが、中には既に診断済みのお子さんもいる。しかしこれまでは特にそこに手厚いアドバイスや適切な配慮はなかったようだ。

 

この教室は、何かをできるようにするための教室ではない。そう言われている。

それでは何のためにここに来るのか?

楽しく運動し、親子の絆を深めるため。

それは子どもたちの健全な発達を促し、親子の愛着形成の手助けをするためではないか。

健全な発達を促す、ということは、適切な介入を、適切なタイミングで行い、子どもたちの発達は個人差がありまちまちではあるが、一人一人に丁寧に関わることで、さっきまで出来なかったことが出来るようになって、やったあ!うれしい!褒めてもらえた!楽しい!と思えるようになることではないか。

まだ、子どもにどう接していいか迷いの中にいるお母さんやお父さんに、「こうしてあげれば上手くいくんだよ」っていう手ほどきをさりげなくしてあげることで、笑顔で子どもに接し、自信をつけてあげることではないか。それで虐待に繋がる要素を払拭することができ、より良い親子関係を築くことに繋がるなら、それはペアレント・トレーニングと同じではないか。

そこには、定型発達とか、障がい児などという垣根はない。

 

ここでは親子教室の講師であって、障がい児の療育者として雇われているのではないが、そんなことは私にとってはどうでも良い。

 

私のこれまでのスキルを使って、これから園や学校に進んでいく未来ある小さな子どもたちやご両親たちに、早期の段階から関わり、一人一人の可能性を伸ばすことに全力を傾けることには変わりがないのだから。

 

まずはこの一年間。この仕事も自分のものにするために、チャレンジ!

 

そう思っていた矢先、初日に相方の先生が声がかすれて出なくなった!

その次の時、今度は私が当日の朝、朝食のイチゴを食卓に出そうとして無理な態勢を取った瞬間、ぎっくり腰に!!!

家を出るまでの一時間の間に、本当なら安静にして揉んではいけないとよく言われているが、メデゥーサに睨まれたみたいにピキピキと石化していく腰から上を、引きこもりで今は同居している息子に解してもらい、ボルタレンのローションを塗り、脂汗をかきながら車に乗って出動した。そして、多少の動きは省略したものの、お母さんたちが気づかない程度に踊りや運動の見本を行い、無事にその日の務めを果たすことができた。

夫からは強靭と呼ばれ、息子からは帰れなくなったらどうするん?と苦笑された(笑)

この講師の仕事は替えがきかない。有給もない。予備日があるだけ。休めば相方にもお母さん方にも影響が及ぶ。

どこまで可能で、どこからは無理なのか、自分の極限の限界は自分が一番よく分かっている。それは今までの経験則から掴んだものだ。

こういう出来事を通して、「仕事をするというのは、こういうものなんだよ。」と、母の姿を見て、息子が何か感じてくれたら嬉しい。

実際、息子は神妙な面持ちで何かを考えていた。

 

こうして始まった幼児親子体操教室。

初っ端からアクシデントが続いたけれど、新たなコンビの連携が試されていたのかもしれないな、と思っている。ちゃんとお互いにカバーし合って乗り越えたので、結果オーライ。連携も強化された。

 

雨降って、地固まる。

連休後の本格始動が楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

きらめき療育論:目を合わせることが苦手なのではないのです。合わせたくないのです。

まるで磁石のS極とS極の様に、目を合わせに行けば行くほど、逆にグリン!と反対方向へ向いてしまう自閉症圏の子どもたちの目。

こんな上手に躱すことができるだろうか???というくらい上手に合いません(笑)。

 

自閉症圏の子どもたちは、目を合わすのが苦手、とよく思われています。

人の「目」が怖い。

視線が刺さるように感じる。

不安。

だから、合わすのが苦手。

合わすのが怖い。

というように。

 

だから、合わせなくても、こちら側である私たちが、聞いていることを理解し、目を逸らしたままでも、会話は成立することができることを知っていればいい。

そう少しずつ理解は進んできて、自閉症圏の子どもたちと、やり取りできる人も増えてきました。

 

でも・・・、

それはあたかも自閉症の子どもたちを理解しているかのようですが、実はそれだけでは不十分ではないかと思うのです。

だって、それって、私たちはそのまま。

自閉症圏の子どもたちが私たちに合わせるという世界のままの話だからです。

「目が合わなくても話を聞いてくれていると理解して話を進める」というのは、私たちが歩みよった行動としては、一見進んでいるかのように思えます。

でも、それは「一歩」。

やっと一歩進んだ、というだけなのです。

 

合わせられない子どもたちの中には、

そもそもコミュニケーションとして相手の目を見ることの意味や必要性自体、まだ理解できていないという場合があります。どういうことかというと、

・目を見て話すとお互いの気持ちが伝わりやすいという実感がまだない。

・話している人の気持ちを想像出来ていない。

気持ちを共有できる喜びの未獲得。

・話しかけの声の方向と目の動きが連動しており、相手の目を見ることで自分に話しかけられているのかどうか確認できることに気付いていない。

というようなことです。

 

話している人の目は、見るべき対象だという認識がないということにも繋がります。

また、ずっと視線を上げて見るだけの力(精神力)がない、というケースもあります。対象物を眼球を上げて注視し続けるには、それだけの気力が必要です。

私たちは、何気なく周りを見渡し、相手の行動や目の動きを追って見続ける(追視)ことが出来ていますが、そういう自閉症圏の子どもたちを見ていると、それがどんなに精神力の要ることか思い知らされます。

 

目を合わすことが苦手とされる子どもたちの一人一人が、一体どういった理由で人の目を見ることができないのか?

不安だからか、先程挙げた様な理由からなのか、しっかり見極めてあげることは、この先のその子ども達にとって、大変大切な事柄です。

ただ、私達が、見ていなくても聞いていると理解して話してあげてさえいればいいのか?というと、それだけでは彼らの困難さは何も変わりません

 

彼らが、彼ら自身の困難さから自由になり、少しでも楽になる為に、ちょっとした取り組みと関わりを続けることで、抵抗なく人の目を見て話すことができるようになるなら、私たちの方が多大な努力をして、学び上手に導いてあげることが出来ればいいのではないでしょうか?

 

そして、更に、私たちが気づいていないことがあります。

気づいていないからこそ、私たちは、私達の方が変わる努力をせずに、「目を見ていなくても、聞いていると理解して話すね」ということで、あたかも「理解してあげている」かの様なアピールを、平然としてしまうのです。

これって、見方を変えれば、ずいぶん傲慢なことだなぁと感じます。

 

多くの自閉症圏の子どもたち、例えば、重度の知的障がいを併せ持つ重度の自閉症児から、中程度の知的障がいを持つ自閉症児、そして高度な知的能力を持ちながらも自閉症傾向にあるグレーゾーンを含めたスペクトラムの子どもたちが、人の目を見るのが「苦手」「見ることができない」といわれていますが、多くのこういった傾向を持つ大勢のお子さんと深く関わってきた中でわかってきたことは、彼らは、人の目を見るのが

「苦手」ではなく「見たくない」

のだということです。

 

不思議なことに、それは目を合わすことの必要性や意味をまだ理解していないと思われる、重度の知的障がいを持つ重度の自閉症のお子さんにも言えることだ、ということです。

 

「目が合わない」のではなく「合わせない」。

「合わないように巧みに逸らしている」のです。

 

それはあたかも目を合わせることによってどういうことが起こるか?を知っているかのようです。

目を合わせることの必要性や意味をまだ理解していないはずなのに、理解しているかのように逸らす、というと、矛盾しているようですが、実際にはそういうことが起こるのです。

 

なぜ、合わせたくないのか?

 

その理由は私たちにあります。

以下の文には、

その理由が書かれています。

視線が刺さるように見える、というのもその理由の一つではあります。

でも、もっと深い理由があるのです。

自閉症圏の子どもたちは、本当は目を合わせることができるのです。

その理由も、順を追って説明していきますね。

 

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きらめき療育論:全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ③

「全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ」の2篇を読まれた方は、これだけのことを身につけるのは難しいと感じられたでしょうか。

しかし、まずは子どもたちが感じている世界を知ることに意味があり、支援の先生、介助の先生、療育施設の指導員、など、子どもたちの側にいる先生なら、これらのことはそろそろ熟知し、対応できるようになっていかなければなりません。

なぜなら、これだけ「発達障害」「不登校」という言葉が認知され出してから何年も経ち、耳にしない日はないほどの現在において、散々学校の先生や介助員、支援員の方々も、療育施設の指導員の皆さんも、研修を受け、国の予算を割いてお給料をいただいてその仕事に就いているはずだからです。

研修は受けていない?

もし、そうおっしゃる方がいらっしゃったら、今日からその受け身の姿勢は終わりにしてください。

「側にいるだけ」ではダメなのです。

子どもたちも保護者の方々も心底困っておられ、藁をもすがる気持ちです。

満足のいく研修がなければ独学で学んでください。本を読んだり、外部の勉強会へ参加したり、できることはいくらだってあります。

待ったなしの子どもたちに、今日も、明日も、対応に迫られている皆さん。

同じ失敗を明日も明後日も繰り返してはいけません。

今日、上手くいかなかったことがあれば何故上手くいかなかったか原因を振り返り(C)、明日までに違う策を考えて(A)下さい。

そうやって、朝には違った手立てを持って(P)、いざタイミングが来たら、サッと対応できる(D)ように、その時が来るのを待ち構えるくらいの心構えでいてください。これはPDCAサイクルといって応用行動分析学の中でも用いられる方法で、私たちが、自分自身の行動も吟味し精査していくことで問題解決の力を養い、早く対応方法を身につけることに役立ちます。

 

そうすれば、例え1歩ずつでも前進し、救われる子どもたちがいるはずです。

子どもたちが救われれば、先生方の負担もその分減っていくはずです。

 

今これだけ発達障がいと診断される子どもたちが増えた背景の一つとして、学校での対応の方針の定めにくさというものがあります。

一人のお子さんへの支援方法を相談するには複数の先生方で意見を出し合うことと思いますが、その時それぞれの先生の見解がまちまちで、一向に一つにまとまらないのだと思います。なぜまとまらないか?というと、「あの子はADHDなのだろうか?」「いや、あの行動から見てASDではないだろうか?」と、どうしても一つの診断名に当てはめて考えようとするために、当てはめきれずにADHDとして接すればいいのか、それともASDとして接すればいいのか、とんと分からなくなってしまうからなのでしょう。それならば、いっそ、医療機関ではっきり診断してもらえば意見を統一することができるのでは・・・・と、先生方もまた藁をもすがる気持ちで受診を勧められるのかもしれません。お医者様から対応について指示をもらうことができれば、あとはそれに従えばいいのです。そんな簡単なことはありません・・・と言いたいところですが、現実はそう簡単ではありません。

 

そうやって、診断を受けることによって、一度は多くの人に理解をしてもらいやすくなり、支援の方針も定まったはずですが、担当の先生方は、接するうちにまた、どんどん頭の中に?????とはてながたくさん湧いて出てきてしまいます。

どうしてかというと、一人のお子さんの中には、様々な要素が入り乱れているからです。ASDADHDのどちらかだけの診断名がついたからといって、どちらか一方だけと決まったわけではありません。この2つは、複雑に辛みあっていて、一人の子どもの中に併存していることも多くあります。しかし、以前はどちらか一方の主な症状の方を診断名とすることが多かったのです。最近でこそ、医療機関によっては、2つの障がい名を並べて診断される所も出てきました。書かれていなくても、聞けば「特性としてありますね」と教えてくれることもあります。

そうやって、一人の子どもの内面では、どちらかだけの特性と決めきれない両方の特性がその時どきによって表れてみえることがあるので、それをご存知ない先生方はどちらで対応すればいいのか分からなくなってしまうのです。

 

診断名に捉われて対応するのではなく、その子どもの行動や発言などを細かく観察し、それによって支援方法を適切なものに変えていけば、?になることはありません。

例えば、、、

 

ADHD(不注意優位型)と診断されたAさん。

生粋にADHDだけの場合、他者の気持ちへの理解などに困難さはあまり見られませんが、Aさんは時に周りの友達の気持ちを全く考えていないかのような行動をすることがありました。まるで自分中心の世界にいるかの様です。

しかし、ASDの特性を持っていることに気づいてもらえない場合、単に「人の気持ちを大切にしない人」として叱責されることが多くなります。

無理解で叱責ばかりが積み重なると、なぜ怒られているのか、どうしたら良いのか、分からずに、ストレスが大きくなり反抗的になったり、身体症状が出て不登校になったりしてしまいます。

この場合、ADHDだけでなく、ASDとしての他者への想像力の欠如や心の理論の未獲得といった要素についても検討し、介助者はAさんが他者の気持ちに気づかずにいる場面では、他者との間に入り、相手の気持ちに気付けるような手立てをうっていくことで、次第に学び習得していくことが可能になっていくと考えられます。

こうして診断名がなくても、言動によって適切で必要な支援を受けることができれば、不登校になることを防げるだけでなく、このAさんが周囲に理解され、他者の気持ちを理解しながら大きく成長することを支援することができるわけです。

 

そのためには、大変ではありますが、大雑把なタイプ別の対応方法だけではなくて、とても細かな行動や言動別の対応方法を学ぶことが重要になってきます。

ところで、このような対応は特別支援学校に任せればいいとお考えになる方もおられるかもしれません。

地域の学校は、障がい児のための学校ではないんだと、そういう意見をお持ちの方もおられることでしょう。

ところが、障がいを持った子どもたちに有効な手立てというものは、一般の定型発達と言われるお子さんたちの指導としても優れています。障がい児への指導や介入が上手な人は、定型発達の子どもたちへの指導も上手です。これも何年も前から言われていることです。

 

発達障がいを持つ子どもたちへの支援方法を身につけるということは、先生たちの身もまた助けることに繋がると私は確信しています。

 

さあ、ここまで読まれて子どもたちの不安の正体と、学校が危険地帯に見える原因、そして、対応方法をなんとなく理解していただけたら、次は不登校になりかけている子どもが実際に保護者に付き添われたり、なんとか辛うじて自分で登校してきたときに、よく生じやすい失敗と、その改善方法について書きたいと思います。

 

お母さん方からのご相談に対して、ご自宅での接し方や学校の先生方へのお願いのされ方、また、連携の仕方などアドバイスさせていただく中で、本当にお母さん方は忙しい生活の中で、そして「家」というお子さんと自分しかいない密室の中で、本当に苦慮されながら奮闘し、お子さんをなんとか良い方向へ導こうと頑張っておられます。

その甲斐あって、お子さんが「学校に行ってみようかな」「行ってみる!」とやる気になって、再登校を始める、といったことはよくあることです。ところが、最初の関門である、玄関口で止まってしまい、そこから教室まで行くことができなかった、または行ったけれど嫌になってしまった、というお話をよく聞き、本当に残念に思ってしまうことが多いです。

どうして上手く繋げてくれないかな・・・ともどかしく思います。

 

それは、「全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ」の2篇に書いたような事柄を、先生や介助員・支援員の方々がご存知ないのが一因だろうと感じるのです。

ASDADHDなどの特性から失敗の経験を持つ子どもたちは、同時に感覚過敏から来る不安も持っていることがよくあります。

不安に思っているということを、先生方もご存知だからこそ、登校するという連絡を受けて、玄関までお出迎えし、勇気を出して来れたことを心から喜びアピールしてくれることが多いのですが、時に、この出迎えの仕方が感覚過敏をビラビラと刺激してしまうことはご存知でしょうか。

まず、不登校、もしくは不登校気味のお子さんが登校してこられた際は、デーン!!!と真正面に立って待ち構えないようにしてあげて欲しいのです。真正面に大きい大人が立つ、ということは・・・

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侘び寂びの桜の美しさ。満開もいいけれど・・・。

開花が遅れた今年の桜が、気がつけば一気に満開になり、慌てて昨日お花見に行きました。

自宅のそばにだって、桜はあります。なんなら、この辺りで一番たくさん花をつけているんじゃない?と思う木だって。

それでも、どこか、新たな桜を求めてあちこち見て回りたい、と思うのは、欲深いことなのかもしれません。

そんなことも思いながら、あまり遠出はできないながらも、どこかいいとこないかなぁとこれまでに見た桜の中で、素敵な思い出に残る場所をあれこれ思案。

その中で、まだ息子や娘が小学生だった頃、3人で行ったことがある、車で20分ほどのところにある商業施設のそばの小さな自然公園を思い出しました。

こじんまりした公園なのに、桜がたくさん植わり、愛でる人々が家族連れでお花見している、なんだかほっこりできるノスタルジックな異次元空間のように私の脳裏に残っていた場所です。

ずっと、また行きたいとそばを通る度に思っていたのに一人だと、満開の時期にそばを通っても、車を商業施設に置いてわざわざ行くのに躊躇してしまい、かれこれ10年以上行っていませんでした。

そのことを話すと、

「行ってみよう」

と、夫が言ってくれまして、思い出を辿るようにその公園に向かいました。

そこは自宅より少し北に位置しており、やはりまだ気温が低くかったのか、場所の日当たりか分かりませんが、10年余り前に来た時よりもずっと桜が少なく、まだまだ蕾もこれからの木たちが立っていました。

それでもきっとご近所の方なのでしょう。僅かに咲いている木たちの下に寝そべったり、お弁当を食べたりして、ゆったりと寛いでおられます。なんだかとても良い雰囲気です。



その間を、進ませてもらいながら、そう言えば、この先には川沿いに道が伸びていて、ちょっとした自然の中の散歩コースがあったことも思い出しました。

住宅地のすぐそばにありながら、一歩足を踏み入れたらもう森の中かと思わせるような素敵な散歩コースです。

 

転居先では聞かれなくなった鶯たちの美しい囀りが、森の中に響きます。空気も街と違い美味しいです。

歩を進めると足元の落ち葉の隙間に細い尻尾がしゅるるると消えていきました。蜥蜴です。

どこからか良い香りもします。柊の黄色い花でした。

ミツバツツジも鮮やかです。

川沿いの道が行き止まりになると、向こう側へ渡るレンガ造りの橋があります。

川はそこで広がりをみせ、池の様になっています。農業用水としてのため池なんだそうです。

森の中に続く小道を行くと、まだ誰にも踏まれていない青々とした美しい苔が道の端を覆っています。

その苔たちを立体的に撮れないかなぁとしゃがんで夢中になっていましたが、腰を伸ばして立ち、ふと頭上を見上げると、ずっと上で咲いている背の高い桜に気づきました。

 

人気のない森の中の小道の、少し開けた場所の背の高い桜に照らされているようなちょっとした憩いの場所。なんだか素敵だな、と思いました。

その先もまだ道は続きます。途中で、分かれ道がありました。その道の奥にはどうやら神社があるみたいです。ただ、寂れているような感じがします。

こんなところに本当に神社が?

 

怖いような気がしましたが、なにか惹かれるものがあり、足が勝手に進むような感じもあり、どんどん奥に入っていきました。

祠が見えました。

 

小さいけれど、立派な屋根の神社です。

でも奥の方を覗くと、誰も管理していないような雰囲気が濃厚に漂っています。不思議なのは、まだそう古くない、綺麗な赤い幟が立っていることでした。全くの荒れた神社ではないのかもしれません。

この神社の小さな敷地もまた、神聖な空気感というのでしょうか、独特の厳かさのある空気感が漂い、心落ち着く場所になっていました。


花曇りのこの日、近辺で他に二ヶ所場所を移して、満開の桜も見てきましたけれど、一番心に残ったのは、この小さな森のひっそりとさく桜たちでした。

本来の桜の持つ美しさを見せてくれた、そんな気がしました。

きらめき療育論:全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ②

前回の「全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ」では、

①全幅の信頼を置ける人とはどういう人か?

②学校がどうして危険地帯なのか?

③どう対処してあげるといいか?

について、書きました。

②では、「不安の強さ」という不登校になりやすい子どもたちの多くが持っている特徴によって、

・その時の状態や不安になる原因

・子どものSOSを見逃さないための観察ポイント

・対応する上での重要なポイント

についても詳しく書いています。

 

ところで、皆さんは、不安が強い時の子どもたちはどんな様子になると思いますか?

 

前回の記事を読んで下さった方ならお気づきでしょう。

不安が強い状態のお子さんの多くは、SOSを出すことも出来ず、じっと我慢していることが多いです。

その為、気づかれにくく配慮がもらえないまま、限界を迎えて不登校傾向になっていってしまうのです。

分かりやすく、「不安だ!」と言ってくれればすぐに対処できていいのですが、本当に些細なSOSしか現れないのがこの問題を難しくしているところです。

 

ところが、更に、もっと、「不安が強い」時の現れ方として分かりにくい表現をする子どもたちがいます。

ご存知の方、いらっしゃいますか?

 

 

それは「怒る」なんです。

さっきのじっと我慢してSOSも出せない、というのとは真逆ですね。

 

例えば、普段からどちらかというと荒々しい感じのお子さんがいたとします。

働きかけても「あっちいけ」とか「ああん?」とか「わからん」といった短い返事が多いかもしれません。自分の気持ちや状況を言葉にして説明することがとにかく苦手で、そんな短い言葉を出すのがやっとなのです。

それは、どこから話していいか分からない、そもそも言っていいのか分からない、なんでこの人僕を気にするのか分からない、といった感じで、思案をするのでかなり脳に負荷がかかるといわれているためです。

 

そんなタイプのお子さんにありがちな、次のような場面を想定してみました。

 

小学3年生のお子さんです。ある体育の時間、初めての平均台に挑戦です。周りの子供たちはきゃっきゃとはしゃぎながら順番に平均台に上り渡っていきます。

そろそろこのお子さんの番が近づいてきました。

だけど、なぜだかその子はそわそわし出します。

キュッと口を結び、手も硬く握っています。

側にいる支援員の方へお尻や背中を当て、佇んでいます。

支援員の先生が、

「さあ、あなたの番が来たよ」と声をかけました。

「あんなしょうもないもん、誰がするか!!」

突然、怒り出しました。

「え?どうしたん?順番やで、さあ行くよ」

「いやや言うてるやろ!離せ!」「俺は絶対せ〜へんからな!」

「え〜、なんで?みんなやるんよ」

「あんなんやらんでも俺はできる!!!」

という具合でかなりのご立腹です。

 

この男の子は、どうして初めてでまだやったこともない平均台に上がるのを怒って拒否するのでしょうか?

 

この場合、男の子は声をかけてくれている人に対して、キツイ口調で反発し、授業の活動への不参加を表明しているわけですから、当然担任の先生に怒られることになってしまいがちです。

側にいる支援員の先生が慌てて促します。

「さあ、やるよ!」

「やめろや!」

火に油です。

担任の先生がやってきて、

「おい!支援員の先生になんて口の聞き方するんや。謝れ!」

注意しました

怒られて、注意されたら、反省して大人しく平均台に乗るかというと、そのです。余計に怒り、必死の形相で暴れて抵抗します。

 

小学3年生。みんな楽しい平均台。どうしてこのお子さんだけ怒っているのか先生方には分かりません。

「どうしたんや?」「なんでなん?」

いくら聞いても答えません。

お子さんは、怒りすぎて泣いています。怒り顔で目に涙を浮かべて。

下手をすると、関わってくれた先生や友達にパンチ!キック!ひっかき攻撃!してしまうこともあるでしょう。

 

こういう場合、「どうしたん?」「何があったん?」「なんでなん?」という声かけをいくらしても無意味です。

 

なぜなら、本人にだってうまく説明できないか、または言いたくないからです。

 

 

実は、この男の子は、平均台の高さでも、地面より高くなっている足元が不安定なところは恐怖感が出るのです。小さい頃に落ちたとか、失敗経験があるのかもしれません。または、怖さがあって失敗したらどうしよう、みんなに見られたくない!と心配しているのかもしれません。極度の不安に押しつぶされそうになっているのです。

普段の様子から、まさか平均台くらいの高さが怖いなんて、きっと周りの人は想像もつかないことでしょう。

ストレートに、「僕、平均台は怖いから嫌だ。」とか「怖いから手を貸してほしい」と言えたなら、周りからも理解され、怒られなくて済むなずなのに、このお子さんはどうしてもそれが言えなかったのです。

なのに、強く注意され、怒られ、無理強いされそうになり、大騒ぎになって人が集まり・・・とますます焦り、なんと可哀想な状況でしょうか。

学校が嫌になってしまいます。学校は怖いところです・・・。

 

「言ってくれればいいのに」

そう思われそうですが、では、このような場面では、このお子さんからSOSは出ていなかったのでしょうか?

 

いえ、出ていました。

まず、順番が近づいてきたときの「そわそわ」。

キュッと口を結んでいた

手も硬く握っていた

側にいる支援員の方へお尻や背中を当て、佇んでいた

これらは全てこのお子さんの最大のSOSのサインです。

恐らく、睨むような目で、またはチラチラと、平均台の方を見てもいることでしょう。

 

もし、この段階で、側にいた先生が気づき、次のような働きかけをしたらどうでしょう?

そっと肩に手を当て落ち着いたトーンその子にだけ聞こえる声

大丈夫だよ

と伝える。

一緒に行こうか?

手を持っててあげるよ

いかがですか?

 

躊躇いはするでしょうが、何回か優しく促せば、恐る恐る足を向け、トライしようとするかもしれません。もしその時出来なくても、さっきのような大立ち回りを演じなくても済みます。

次の体育の時間も手を貸してあげるから大丈夫だよ」

そう去り際にしっかり次への安心を渡してあげることができれば、このお子さんは次の体育の時間までずっと恐怖を引きずらなくて済みます。

あの先生がそう言ってくれたから)

と、次までに、「ようし、少しはチャレンジしてみてもいいな」なんて心の準備をしていてくれることも大いにあります。

ただし、この約束は必ず守らなくてはいけません。

もし、次の体育に側にいけないことが分かったら、速やかに代わりの支援員の先生か、担任の先生に申し送りをして、必ずそのお子さんの順番がくる前に、そっと側に行き「〇〇先生、お仕事でどうしても来れなくなったから、きちんと代わりに先生に伝えに来てくれたからね。今日は先生がいるから大丈夫だよ」と言ってもらうように重々お願いをしておくことが大切です。更にこのお子さんに、そのことを伝えておくのを忘れてはいけません。最初の先生と、代わりの先生と、両方が同じことを言うというのが大切です。

ここまでして初めて、先生たちを信頼してもいいかもと思ってくれるようになるはずです。

その後、

なんて言えばいいか分からないという場合はSSTとして「怖いんですけど」などと実際に使えるセリフを教えます。

プライドがあってみんなの前では取り組みたくない場合は、個別でこっそり練習の時間を取るといいです。

高低差への不安を軽減してあげるには、低いところから段々と高くなるとか、また低くなるといった遊具や道具を使って慣らしてあげると徐々に安心して克服することができます。

 

言葉にできない不安や恐怖気持ちなどの感情を、素早く察知し、怒りだす前にサッと対処してあげることができたら。

このお子さんはトラブルを起こすことも、恐怖に震えることもせずにすみ、安心して学校にくることができます。

 

極度に怒りっぽいお子さんの中には、このように極度に過敏で、そのために苦しんでいるお子さんが圧倒的に多いということを関係者の皆さんには知っておいていただきたいです。

 

では、このことを踏まえて、次の例です。

 

A君がブロックで遊んでいると、つい、手が隣で遊んでいたB君の目に当たってしまいました。

「あ、ごめ・・・」

と言いかけた瞬間、

「痛いやろ!!!」

急にB君が激怒して、手に持っていたブロックでガツン!とA君の頭を殴りました。

とっさにそばにいた先生が「今のわざとじゃないでしょ!、わざとじゃないのに殴ったらB君の方が悪いでしょ!謝りなさい」

注意しました。

 

さあ、このB君、あまりの激怒っぷりです。

A君は被害者。悪いのはB君です・・・か?

この場面に、強い不安を感じさせる要素は見当たりません・・・か?

 

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きらめき療育論: 全幅の信頼を置ける人が学校には必要なのだ。

全幅の信頼を置ける人が一人学校にいてくれたら、きっと、それだけである一定数の不登校児は学校に行けるようになるだろう。

なぜなら、不適応を起こしている子供にとって、学校は危険地帯としか思えていないからだ。

だけど、たった一人でも全幅の信頼を置ける人がいて、待っていてくれる、玄関にいてくれる、困った時そばにいてくれる、そう思えたら・・・・・、「学校休みたいな」という気持ちに押しつぶされそうになった時、その人の顔が思い浮かんだら、その人がいるから安心、やっぱり行ってみよう、そう思ってまた学校に行けるのではないだろうか。

どの学校でも、先生方は努力している。なんとか不登校の子どもたちがまた通えるように、新たな不登校児を出さないように、頭を捻って考えていると思う。

だけど、上手く行かないところがあるとすれば、それはどこかで大切なポイントを落としてしまっているのだ。

落としてしまっているから、学校が危険地帯に見える子どもたちは、やっぱり怖い!!と不安と恐怖を感じて行けなくなってしまうのだろう。

 

では、

①全幅の信頼を置ける人とはどういう人だろう?

 

②どうして危険地帯なのか?

 

③学校ではどう対処してあげればいいのだろうか?

 

そこを理解していないと、子供たちから全幅の信頼を置いてもらえる存在にはなれない。

 

このことを知っていれば、不登校の子供たちと一緒に親御さんが必死に家から出て、学校にやっとの思いで登校させて繋いでいるのに、みすみす、すぐまた不登校に戻してしまうということにはならない。

 

まず、①の、『全幅の信頼を置ける人』とはどういう人か?

について触れておくと、それは

『その子供の心のSOSを誰よりも速くキャッチし、傍にいてくれる人』

ということになる。いわゆる安全基地だ。

ではその心のSOSとはどういう時に発せられるか?というと、それは②の学校が危険地帯にしか見えない理由と絡んでいくことになる。

SOSをキャッチする、とはこうして読むと以外に「ふむふむ、それなら簡単に出来そうだ」と思う人がいるかもしれない。「後から思い返せばあれはSOSだったな」というのだって、ある意味キャッチしたことにはなるだろうと思う。大きな声でギャーと子供が言えばハッと気づいて対処する、というのなら、わりあいに出来ている先生方も見かけてきた。

だけれども、

それは大きなサインがあってこそ。

例え『小さなサイン』でもキャッチする。

そして『誰よりも速く』となると、私は、今までにそれが出来ている人と出逢ったことがない。

なぜならば、子供たちが何を恐れているかが、定型発達側だろうと思われる先生方には分からないからだ。だって自分たちは感じないから。

その、子供たちがどんな言動を取るか知らない、ということが対処できない原因となっている。

自分たちの物差しで考えている間は、子供たちの痛みには気付けない。子供たちの目線で、感性で、世界で、考える練習をすれば、徐々に分かるようになるだろう。

 

どんな言動、サインが出るかを知ったら、明日から、そのお子さんをずっと視界の片隅に入れ、観察しよう。そうすれば、今から書く内容に当てはまる行動が見つかるはず。後は側に速やかに付き、そっと肩に手をやるか、「大丈夫だよ」と言ってあげよう。ただ、間違っても大げさにヒステリックに「大丈夫よ!!私がいるからね!!」とやってはいけない。あくまでもさりげなく、冷静に、目立たないように。空気のようにそっと。

 

このスキルは、何も学校の先生だけでなく、療育施設の指導員や、保護者の方にも学んでもらい、子供たちの内面を理解してあげて欲しい。そうすれば、なぜ子供達が不登校になるのか、少しはご理解いただけるかもしれない。

この先には、本などにもなかなか書かれていない対応方法などを詳しく書いているので、その内容を読んでいただき、一人でも多く、不安に怯える子どもたちにとっての「全幅の信頼を置いてもらえる大人」になってあげてもらいたい。

 

 

 

不登校の原因は人それぞれ色々あるが、私はその根底には多くのお子さんが少なからず発達障害の方が持っている特性に近い困難さというものを持っておられるのではないかと思っている。

 

感覚過敏、不安症、起立性調整障害、などなど、それ単独で生まれ持っている子供たちもいるだろうけれど、濃淡の差はあれ、ベースに何らかの生きにくさ、困難さを持っていると考えられるからだ。

 

不登校児が急速に増えたからといって、今なお、学校に行くのが楽しい、友達と会えると嬉しい、学校で勉強したい、と、何の疑問も持たずに自然と登校できている子供たちも大勢いることを考えた時、通常なら気にならないようなこと、刺激にならないようなこと、流せること、が、不登校児には耐えられない大きな壁となっているのだから、そこには診断のあるなしに関わらず、そのお子さんの反応の仕方に応じた、それ相応の配慮とケア、そして適応に向けた細かなアプローチが不可欠だというのは理解していただけると思う。

 

そして、その、それ相応の配慮とケア、適応に向けた細かなアプローチ、というものは、ASDADHDの子供たちに対するものが有効だということも、付け加えておきたい。

 

まず、、、

最近の不登校児の傾向として多く見られるものとして、不安の強さが挙げられる。

一体何がそんなに不安なのだろうか?

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人生の荒波を乗り越える力、他力本願。〜再掲、感性を研ぎ澄ます。

春の嵐は例年よりも激しく、吹き荒れてサッと去っていきました。

 

今朝の関西は、何事もなかったかのように穏やかに晴れています。

昨日は目まぐるしく空模様が変わり、晴れたと思ったら雨が降り、また晴れたかと思ったら、雪が降り、の繰り返しで、翻弄されました。

春分の日でもあり、お出かけの予定があった方たちは、大変苦労されたことでしょうね。私は幸いに予定がなかったのと、あまりの空の移り変わりに、これはあまり出ない方が得策と、最小限の買い物に車で出るだけに留めました。

 

夕刻、お出かけから帰ってこられた方達なのか、それとも今まで家で待機していた方達が一斉に出られたのか分かりませんが、周辺道路はショッピングモールに入ろうとする車で大渋滞でした。

天候によって、人々が翻弄され右往左往する姿を見ていて、これって人生に似てるなと思いました。

 

私たちの頭上には、私たちの力では抗うことの出来ない大きな力が流れている、と私は考えています。

ちっぽけな存在の私たちは、日々の生活を送ることに一生懸命で、ともすれば手元ばかりに気を取られ、身の周りをコントロールすることに注力しがちですが、そんな頑張りも、頭上を流れる大きな力に吹き飛ばされれば、ひとたまりもありません。

少しでも予測して備えることができれば、それは不測の事態とはならずに、甘んじてその流れに乗っかり、軽い痛手で済んだ、もしくはその流れを最大限に活かして、上手く着地することだってできるかもしれません。

 

そんな風なお話を、ついさきほど、はてなブロガーの なおさんと、コメント上でお話した際に、どうすればその大きな流れ、変化の兆しをキャッチできるようになるか?というご質問をいただいたので、この場を借りて、お返事できたらなと思いますが、丁度、過去に、そのことについて書いた記事がありましたので、そちらを参考までに再掲させていただきます。

 

 

kiramekituzuri.hatenablog.jp

 

親鸞の教えに「他力本願」という言葉があるそうです。これは「人任せ」という意味ではありません。他力というのは阿弥陀仏が一切の人を救おうとして立てた願い、本願の力のことで、昔の人々はこの阿弥陀仏の本願に縋って極楽往生しようとしたのでしょう。他力とは自力と正反対の一番遠いものになります。

作家の五木寛之さんは、その著書「他力」や「他力と自力」の中で、この親鸞の「他力本願」という言葉を、自分で考え、決めて生きているように思っても、それすら大きな流れの中で動かされている、というように解釈され言っておられます。大きな流れの中で生きるということは、自分だけの利益、自分だけの功績というような内側だけに囚われるのではなく、自分の外側の一切に向けて働きかけ、その幸せを願う、といった何か大きな役割の中に置かれた自分を感じながら生きる、ということではないかと思うのです。

 

私のこれまでの人生は、穏やかだったかというと、逆に大波小波の波乱万丈だったと周りの友人たちも口を揃えていうくらいで、その中で私に余裕があったから上手く対処をしてきたのかというと、全くそういう訳でもなかったなあと振り返れば思うのです。

どちらかというと成長と共にますます流れが速くなる激流の中で、余裕がないからこそ、どう自分を変化させ、対応するか?ということに焦点を当て、動いてきたのだろうと思います。そして、それすら、私が私の力だけでそうしてきたかというとそうではなかった、というように感じています。

 

子どもの頃から、私は、

一体私は何の力によって、どこに運ばれていくのか?

一体どういう意味があってこういう経験をするのか?

 

と考えながら過ごしてきました。

 

人生の荒波を、如何に生きるか。

これはおそらく皆んなが問い続けているテーマではないでしょうか。

 

大きな波に抗わず、逆にその波に上手く乗ることでより良く生きていくには、

一旦胸の中の感情の嵐を脇に置き、「やるべき事」に意識を向けて、如何に行動に移るかがコツなのかもしれません。

 

 

足元を見ていた視線を上げて、遠く上空からやってくる大きな雲を眺める。

そこから始めてみませんか?

 

 

これからやってくる流れは果たして暗雲か?それとも晴朗か?

 

「これは来るな」と思えたら、シメたもの。