きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

「学ぶ」とはどういうことか?

今日、書くお話は、8月31日にアップした「何のために勉強するのか」と、これから書く予定をしている「不登校」のお子さんに関する記事との3部作になっています。

できれば、有料記事にするまでに3つとも書きたかったのですが、何せ頭の中から、絡み合った多くの考えを統合しなければならなくて、時間を要してしまいました。

有料ではありますが、不登校のお子さんをお持ちの保護者の方々、そして、不登校の問題に関心をお持ちの方々、療育関係の方、学校の先生方にもお目通しいただき、一緒に考えていただけると嬉しいです。

 

 

 

「聞いてません!」

「教えてもらってません!」

「言ってもらわないとわかりません!」

 

この言葉を、若い方たちが言っているのを耳に挟むことが多くなりました。

大人の皆さんも、覚えがありますか?

 

私、この言葉を若い人から語尾強めで発せられるのを聞く度に、「ほぉ〜」「おぉ」と、思わずにはいられないのです。

 

私、若い頃、そんなこと、口が裂けても言えなかったなあ〜。

言えない理由は2通り。

1つは、そんな勇気はなかったこと。

もう1つは、プライド、かもしれません。

 

プライドって、気位が高いという意味のプライドではないんです。

もし私が聞き落としていたとしたら?それを確かめもせず、「私は聞いてません!」って言うと恥ずかしいことになりますよね。

それとか、「私、教えてもらわないと分からないんです」、「言ってもらわないと分からない力しか持ってないんです」と、自分で言ってしまうのと同じな気がして、そんなこと、社会人として言えないぞ、、、(汗)と、そこは社会人の端くれとして、言ってしまったが最後。そんなことは意地でも言えない、と言った最低限での意味のプライドです。

反対に、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざもあり、分からないままでいると、返って大きな失敗をするかもしれないぞ、、、と、どうしたらいいか思案に暮れるのも事実。

そこで、私が取る方法は、

聞いてないなら「あの、すいません。もしかしたら私が忘れてしまっているのかもしれないのですが、思い出したいので、いつ頃そのことについて連絡されたか教えていただけますか?」と相手に打診する、です。

そうすることで、実際は自分が聞いていたのに忘れているのか、本当に聞いていないのかを判断する情報をもらえますから。

もしかしたら自分が休みなど不在の時に連絡がされた内容かもしれません。確かめたことで、そういう状況がわかったら、「たまたま、その日はお休みいただいていまして、連絡を受けていないようです。お手数おかけしますが、教えていただけますか?」と返せば、お互いの間に何の問題も蟠りも、溝も生じませんよね。

でも、もし聞いていたのに忘れていたなら、そのことを詫び、再度教えてもらうことをお願いすればいいのです。

でも、最初に語尾強めで啖呵を切ってしまうと、「教えてください」とはなかなか言いにくくなりますね。

 

「教えてもらってません!」とは、いつまでも学生気分の抜けない言葉のように思えます。教えてもらって当然、当たり前だと言わんばかりです。社会人になったのだから、直接教えてもらっていなくても、先輩が日頃どのように行動しているかをつぶさに見て学び、それでも分からないところは、教えを請うという姿勢があれば、まず、こういった強気な発言にはならないものです。

強気な発言をすることで、自分の未熟さが露呈してしまっていることに気付いていない人たちが増えたなあ、違った意味で、プライドが高いなあ、いや、低いのか?と頭を捻ってしまいます。

 

今や、こういったことは社会現象の一つとして捉え、仕方がないので先輩たちは、なんとか自分たちの方の物の捉え方を変えて、若い人たちと円滑にコミュニケーションを取っていこうと努力しています。

若い方たちは、昭和な人たちのことを、頭の硬い時代遅れな人たち、と軽蔑しているでしょうが、自分たちの培ってきたやり方考え方まで投げ打って、若い人たちの考え方を取り入れ、理解しようとするこの大人たちは、逆に柔軟な頭を持ち、相手の育った背景から理解して受け入れようとする懐の深さを持つ、コミュニケーション上手なのではないか?とこの頃思うようになりました。

 

さて、こういった現象は、どうして起こっているのかについてですが、確か、昔に読んだ内田樹さんの著書の中で、内田さんは、これらは学校教育への市場原理の侵入による結果だと言っておられました。

高度経済成長を得て、物質的に豊かで便利な世の中になった日本は、学業に於いても、できるだけ少ない学習努力で、できるだけ価値の高い大学の学位を手に入れた方がいいという風潮になり、どれだけ少ない学習努力で「学位」という目標を達成するか、という考え方になったとか。やがてそういった風潮に合わせてシラバスというものが出だし、大学は4年間で修められる授業数や内容がいつ行われるかといった授業計画を学生に約束という形で渡すようになった。それはまるで契約のようだと。だから学生は、約束通り授業が行われないと契約不履行としてクレームをつけることができる立場として振る舞うように変化していったというのです。

これは、入学の時点で、4年間で私たちがどれくらいの学びができるかを、あらかじめ知った状態で入るということになり、まるで、工業製品につけた「仕様書」のようだとも表現しておられます。

「わかった状態」でないと、僕たち動かないよ?「教わって当然」だよね?という若者が増えた背景がここにある、ということのようです。

 

現在、大学に行くということは、、、

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