「何のために勉強するのか?」
そう聞かれたら、皆さんは何と答えますか?
賢くなる為?
良い大学に行く為?
高いお給料をもらう為?
それとも、なりたい職業に就く為に?
子どもの頃は、なぜ、勉強していたのですか?
みんなしてるから。
お母さんがうるさいから。
なぜだかわからないけど。
いやいや。
大人になった皆さんは、勉強をしてみてどうでしたか?
してよかった。
したから今の自分がある。
世界が広がった。
問題が起こった時、解決する方法を考える力がついた。
就職してお給料をもらい、自己実現できている。
家族を養えている。
人の役に立つことができている。
意味がなかった。
勉強なんかするんじゃなかった。
未だに何のために勉強するのか分からないでいる。
おやおや。
勉強をしてみてどうだったか、「感想」は人それぞれ。色んな意見がありそうですね。
「感想」は、人それぞれで良いけれど、何のためにするのか?という問いは、1つの概念に対する問いですから、「感想」とはまた別の答えが必要になるんじゃないかと思うのですが、、、。
得てして人は、自分が通ってきた道を肯定し、人に勧めがちです。
余談ですが、私が13年程前に、離婚すべきかどうか悩んでいた時、周りの人が心配して色々とアドバイスをくれていました。
幸せだろうが幸せでなかろうが、現在進行形で婚姻関係を続けている人は「離婚しない方がいい」「してはいけない」
離婚の経験がある人は「離婚した方がいい」「時間の無駄」「早く次の出逢いへ」
と、見事きれいに分かれました。
勉強は必要か?という問いにも、ご自身が勉強が好きだった、好きではなくても一生懸命がんばってきた、と、いう方は「した方がいい」
勉強がキライだった、真面目にしてこなかった、という方は、「する必要ない」「しなくても困らない」と分かれるでしょうか。
私の息子は幼稚園の頃は「なんで行かないといけないのか」、小学生では「なんのために勉強するのか」と毎日毎日ごね、朝はそんな彼とよく膠着状態になりました。
親が当たり前だと思って通ってきた道を、「なんのために?」と子どもに真っ直ぐ問いを突きつけられると、うぐぐ、、、と答えに詰まりますよね。
こういう問いを発する子どもたちは、納得しないとテコでも動かないという傾向がありますし。
なんとかこの朝の膠着状態を何とかしたい・・・。
と、図書館に行き、この問いの答えとなる文章を探したり、メンターたちに聞いてみたり。
それからというもの、私は20年近くもこの問いを考えてきました。
冒頭の、3つの質問に対する答えの例は、そんな中で、実際に私がこれまで色んな人に問いかけて、返ってきた返事たちです。
「何のために勉強するのか」と考える時、では「学ぶ」ってどういうことだろう、という問いも頭をもたげます。「学ぶ」ということについても、合わせて考えていく必要ありますが、これについてはまた次の機会に私の考えを書きたいと思います。
さて、皆さんは、勉強が好きな人も嫌いな人も、大方の人が子ども時代にぶつぶつ文句を言いながらでも、例えみんなが行っているからという理由でも、なんとか学校に行き、勉強をしてきたと思います。
みんなが行くし、やってるし、親がうるさいし、それでもなんとなくでも、学校って、行くもんなんだな、と思ってきたということは、概念形成ができていたということ。ただ、概念形成はできていても、それを説明するとなると案外難しいものです。しかも、子どもたちに納得してもらおうとなると尚更。
私は、このブログで何度か学校の介助員をしていた話を書いています。大勢のこどもたちのサポートをしてきましたが、その中でも私のメインの担当は重度の自閉症を持つこどもたちでした。
その担当するお子さんたちに、年間ざっと見積もっても800時間は側についている計算です。私のつき方次第で、その800時間が有意義となるか、無意味となるか分かれることに気づきました。とはいえ、みんなとの一斉授業の中で、このお子さんたちにどれくらいのものを手渡してあげることができるだろうか?と考えると悩みはますます深くなります。
一斉授業の中では、みんなと同じように内容を理解することは大変に難しく、座っているだけでも困難なお子さんたちです。何をどんな風に、どれくらい伝え、取り組んでもらうかも私次第です。
その責任の重さをひしひしと感じました。
どの科目でも、私たちが「無理」だと思えば、ただ横でじっと座っているだけで45分は過ぎていきます。私たちがリアクションを起こさなければ、お子さんもただ座っているだけです。
でも、みんながその時取り組んでいる内容の中で、そのお子さんたちが出来そうなことを些細なことでもいいから見つけて工夫して伝えてあげると、お子さんたちは一生懸命それに取り組みました。
その時の取り組みは些細なことでも、繰り返し経験すると、要領を覚えてくれます。少しづつ違うバージョンで取り組んでもらっていると、徐々に要領を得て、求められていることを理解し出します。知性と理性が芽生え出す瞬間です。
私は、どんなお子さんであっても、経験に勝るものはないな、と実感していました。
授業では、闇雲に無理やり意味もなく時間潰しでさせているわけではなく、将来、このお子さんたちが、大人になった時、生活で少しでも役に立ちそうなことを重点的に伝え、学んでもらいました。
例えば、算数は生活の中で物の個数、買い物、時間、形、といったことはある程度覚えていると他者とコミュニケーションが取りやすいですし、買い物ではお店で欲しいものがあればお金を払う必要があり、お金が足りなければ、買うことができないとか、お釣りというものがある、ということが分かります。どれが100円で、どれが500円か?と知っていれば、分かるところまで自分で出すことができて、その人にとって主体的な生活を送る一端になるでしょう。
理科では、地面の温度を計るという授業もあります。
暑い日に、日向の土を直に手で触ってもらい、これが「熱い」ということ、日陰の土を触ってもらい、これが「冷たい」ということ、と繰り返し伝えます。「暑い時は日向は暑い、冷たい日陰を歩きます。涼しいよ」と実際に日向と日陰を出たり入ったりして伝えました。将来、炎天下なのに、日陰を歩くことを知らず、疲れても陽にじりじりと照らされたところで休んだり、寒いのに日陰でブルブル震えていたりするそのお子さんの姿が想像され、なんとか一人でも、難を逃れる知恵を身に付けさせてあげたいという一心でした。
電気の回路の授業では、豆電球の線が乾電池の+とマイナスに接触した時だけ電気がつくところを何度も見てもらいます。片方外れているとつかないところも合わせて見ることで、電気がつく仕組みを伝えました。もし、将来部屋の電気がつかなくて困ったら、真っ暗な部屋で一人座っているんじゃなくて、誰かに「壊れてる」「故障してる」と言って伝えることができるかもしれません。なぜ、つかないのか、なんとなく自分でも理解できるかもしれません。この、なんとなくでも、理解することができる、というのは、安心して暮らすためにとても大切なことです。
社会なら、自分が今住んでいるところは何という街で、何という国で、その国のどの辺りに位置しているかが分かります。そして周りには他の沢山の国があり、それぞれ取れる食べ物や、できる物が違うし、言葉が違い、歴史が違う、ということを伝えることができますよね。テレビやお店で目にしていた物に関連づけて、「これ、習ったなあ!」と関心を持って生活することができるかもしれません。
英語だって、<ねこ>のこと、いつもは「ねこ」って言ってるけど、「キャット」っていう言い方もあってね、みんなが言っているのはそのことだよ、と話し、社会で習ったこのアメリカって国だよと地図を見せてあげると、「なんだ、そうなのか」となんとなく腑に落ちることもできるでしょう。
体育は、1本のロープすら、他者からの声かけに合わせてピョンと飛び越ことができない状態から、他者の声かけに合わせて動け、自分の思った通りに体を動かすことができる力(協調運動能力)を身につけることができます。この力を身につけることで、団体の中で一斉指示により動くことができる力を養ったり、困難な状況に陥った時、そこから脱出するだけの実行力と筋力が身についたり、何より、自分がしたいと頭で思い描いた通りの行動を取る力と体を得ることができます。そして、そんな思い通りに滑らかに動く体は日常生活の基本的動作、姿勢保持、手を使った作業、といった生きていく上で重要な力に繋がっているのです。
音楽は、疲れてしんどい時、リラックスする方法を得られます。リズム感は他者とのリズムを合わせる力としても大切です。友達と声を合わせる楽しさや、自分の体や楽器を使って音を奏でる喜びを知ることができます。
さて、では国語にはどんな力があるでしょうか。
知的障害を持つお子さんたちは、物に名前があることを初めは知りません。私たちも幼い頃は同じです。物に名前があり、動作に名前があり、人に名前がある・・・といったことを学べば、簡単な自分の欲求を他者に伝えることができます。
ところが、他者にもっと分かりやすく自分の欲求を伝えるには、言葉が必要です。相手が何を言っているのか理解するためにも、言葉の獲得は必要度が高いです。そして、それをどんな風に使えば、より相手に伝わりやすいのか言葉の使い方を学ばなければ、他者とコミュニケーションを取ることに繋がりません。
また、他者が、どんな思いで、どんな意図を持って、自分に対して関わりを持とうとしているのか理解したり、予測を立てたりする力が必要で、自分はそれに対してどんな気持ちで、どんな考えがあって反応を返しているのか、自分の気持ちを理解し、言語化して相手に伝えていかなくては、コミュニケーションは出来ても、より良い関係を築いていくことが難しいです。
そして、他者が書いた文章を読んで、なるべく正しく理解することができなければ、たちまち読み間違えが起こって、喧嘩やトラブルになってしまいます。だから、名詞の後にくる助詞が、「が」なのか「に」なのか、はたまた「は」なのかという、たった一文字の使い方まで細かく授業では取り扱われ、テストに出題されたりするのです。他者が書いた文章には、なんと書いてあるか、正しく読み取る力を養うために読解力が必要で、読み取りという作業を国語の中では時間を割いて行われているのです(の、はずです)。
ところが、正しく書かれた文字通りに読むことができ、その内容を理解することができても、字義通りの解釈では、上手く行かないというのが世の常です。
正しく書かれた文面を読んだ上で、〇〇さん「は」でもいいのに、なぜ「が」にしたのか?というような細かいポイントについて熟考したり、行間から滲み出るものを読み取っていくには、書いた人の人物理解といったことまで情報として知っておく必要が出てくるのです
国語はまさに、私たちが生きていく上で、一番重要な科目ではないのかな・・・と思えます。
トラブルの少ない、幸せな人生を歩むには、他者とより良いコミュニケーションを計り、より良い関係性を作る力を育むための勉強が必要です。
私たちは、物心ついた時には既に話し言葉を獲得しているので、わざわざ教わっていないと思うかもしれませんが、それはある程度の言語能力が備わっていたからです。両親との関わりの中から自然と言葉の持つ体系だった原則を学んでいるのです。そして生活習慣の基本的な動作も学んできています。
では、その力があるからと言って、その後もわざわざ学ばなくても、生きていく上で十分なだけの知識やスキルを私たちは自然と習得していくことができるでしょうか?
独学で、または自然の成り行きで出会った人々との関わりの中だけで、学校に通って学習したものと同じだけの力を身につけることが果たしてできるだろうか、と考えると、私はなかなかそれは難しいのでは・・・と感じます。
障がいを持つお子さんたちなら尚更、この言葉の持つ体系だった原則を自然と身に付ける力が遅れていたり、体が思い取りに動かなかったりと困難なことが多い状況です。
もし、こういったお子さんたちに私が一人で手探りで、必死に生きていく上で必要と思われることを教えてあげることが果たしてできるだろうか?と考えた時、どんなに精一杯努力したとしても、学校で学ぶように満遍なく教えてあげることは不可能だなと実感しました。
学校に通っていれば、小学校なら6年間の中で系統だって学べるように単元ごとにまとめられていますから、次々やってくるその単元の中で、目の前のお子さんにとって将来役に立つであろう事柄をチョイスし、手段を考えて提供するだけでかなりの範囲をカバーすることができるんだ、ということに気付きました。
幅広く、色々なタイプのお子さんたちに置き換えて考えた時、何のために勉強するのか?と言えば、それは「より良く生きていく為」だ、と私は答えます。
決してテストで良い点を取るためでも、良い大学に入るためでもありません。
ところが、学校の若い先生方や、周りの人に聞いても、まずこういうことを答える人には出逢えませんでした。
みんな、知らないのです。
いえ、本当は、なんとなく分かってはいるのでしょうが、なんとなく考えているために、きっちりと言語化しないまま来てしまっているのかもしれません。
そして、不登校を起こしているお子さんや、発達障がいを持つお子さんの多くは、「何のために勉強するのか」を知らずにいます。
だから、私は、「勉強は、周りの人と、良いコミュニケーションを取ることができて、自分の気持ちも言葉に変えて相手に上手に伝えることができるし、相手の気持ちも理解することで、より良い関係を築くための力を身につけるためだよ。生きていく上で必要なお金を得ることができ、家族が増えたり、世の中や人の役に立つような仕事を見つけて自分に自信を持って生活を送ることができる。そうして、みんなが幸せに生きていく上で必要なことを学ぶために、勉強をするんだよ、自分のためなんだよ」と、私の元に集まった大切なお子さんたちに伝えています。
聞いたお子さんは、みんな、「そうだったのか、知らなかった、だから自分のためだったのか」と、目を輝かせて勉強に取り組みだします。
一人でも多く、「何のために勉強するのか」を理解して、豊かな人生を歩んで行って欲しいです。
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