きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

国立民族学博物館に行ってきたよ。②

小学生の頃、小学校にはトーテムポールが立っているのをよく見ました。私は親が転勤族だったので、小学生時代に2度転校し、計3校に通っていたことになります。そのどの小学校にもトーテムポールがあった・・・と子ども心に思っていた記憶があります。だから、トーテムポールは私にとって今でも身近かな物だし、子ども時代を呼び起こす物でもあります。

そんなトーテムポールが、国立民俗学博物館(以下 みんぱく)の入り口に立っています。

なぜ、トーテムポールがみんぱくのゲート的役割になっているのか。その時にはなんとなく感じていたことが、帰ってから頭の中を過り、考えていました。

疑問は大きく分けて2つ。

①なぜ、多くの小学校にもあったのか?

②なぜ、みんぱくのゲート的役割として立っているのか?

です。

私はその時点で、その頃の日本に流行っていたのかも。

そして、みんぱく民族学だけに、今でもそこに何かしらの「歴史」を重んじているのではないか。と感じていました。

まずは①トーテムポールがなぜ、小学校にあったのか?ですが、1960年代に日本の電柱は木製からコンクリート製に変わっていきます。その中で、使われていた木材が不要となって何か活かす方法はないかということで、背の高いトーテムポールに注目が集まった、という背景があるようです。小学校でも6年生の卒業製作としてトーテムポール作りが丁度良かったのでしょうね。木材の再利用や、長く飾ることができるものとして流行ったようです。だから、あちこちの小学校にトーテムポールが立っていたのですね。

そして、②のみんぱくもまた、1974年に創立されて、1977年に大阪・千里の1970年に開催された万博跡地に開館したとあります。

調べる内に、開催するにあたってトーテムポールをみんぱくに採用した大給 近達(おぎゅう ちかさと)さんの記した記事を見つけました。

昭和51年(1976)にアメリカ展示の担当となった大給 近達さんは、民族の文化を語る上で誰もが印象に残る標本としてトーテムポールが欲しいと考えたそうです。カナダにその伝統文化の違いから、大変ご苦労されて成功にこぎ着けた経緯が書かれてあり、大変興味深い内容でした。

このお話はみんぱくのHPで読むことができます。

(月刊みんぱく 2007年12月号の⑱)

こうして日本に持ち帰られたトーテムポールの一部はみんぱくの顔として長くその玄関先を飾った訳ですが、その材料は木材の為、長年の風雨によって傷みが生じます。でもその伝統的文化として古くなったものは朽ちて自然に帰していくのが習わしですから、補修という概念はないわけで、その習わしに準じて新しいものを作ることにしたそうです。

https://older.minpaku.ac.jp/research/letter/17567

昨日私がみたトーテムポールは、大給さんが持ち帰った初代と新しく作られた物と両方が並んだ物だったようです。

さすが、みんぱく。民族の歴史を扱う学問を研究している場所だけあって、トーテムポール1つとってもそこには「歴史」あり、でした。

 

さてさて、館内には外からは想像できないスケールで世界各国の民族の伝統的文化が分かる展示物が並んでいます。私はこれまでに4回訪れました。小学生の時、我が子と、仕事として、そして今回。

展示物はその時々によって内容が変わっているのだと思います。今回、私には他に目的がありました。それは人形です。バリ島かインドネシアの人形で、仕事として行った時に見たのですがよく観察する時間がなく、もう一度見たかったのです。

それは、昔NHKで放送されていた人形劇「プリンプリン物語」に出てくる人形たちの顔立ちや体つき、衣装が、このバリ島やインドネシアの人形の雰囲気にどことなく似ていたので、プリンプリンたちのルーツだったのだろうか?という疑問を持っていたからでした。

残念ながら見ることは叶いませんでしたが、いつかまた人形やインドネシアがテーマになった時に出逢えるといいなと思います。

国立民族学博物館は、入り口や人形だけでこれくらい掘り下げられてしまうので、私たちが全部を納得いくまで見ようと思えば、1コーナーにつき一日くらいかかるのかもしれません・・・。それくらい面白いところです。

現代は、「民族」感というものが薄れつつある時代。だからこそ貴重でこれからも残っていくのか、それとも廃れてしまうのか、このみんぱくの歴史も興味深いところです。