きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

不屈の人たち。

不屈の人かどうかは、目を見れば分かる。

不屈の人は、共通した目をしているから。

 

もう、これ以上は無理でしょう。限界じゃない?と、誰もが思うような状況にも関わらず、また朝になれば何事もなかったかのようにルーティンをこなし始める。

 

見ていて辛くなるような状況でも、当の本人はそう感じていない。

 

いや、本当は、辛く厳しい状況だと分かっているのだろうけども、まだ、どこか諦めたくないという気持ちの炎が、胸の中でブスブスと煙を立て燻っていて、認めていないのだろう。

例え暫く停滞せざるを得ない期間があったとしても、やがてゆっくりと立ち上がり、遠い前方を見据える目をする。

 

構想を立てたら、必ず動き出し、やがてちゃんと軌道に乗せ、また歩き出してしまう。

 

私の知り合いは、難病を抱え、歩くにも困難があり、体を動かすことにも大変な苦労をされている。

長年子どもたちの為に働き、勤め上げた仕事を退職された時、誰もが、もうこれからはゆっくり過ごして欲しい、これからは自分の体を第一に、少しでも長く、楽しく過ごして欲しい、と願い、声をかけたことと思う。

 

それでもきっと、ご本人は、さらさらそんな考えはなかったのではないかと思う。

やがて、ご友人の手を借りながら、小さな教室を開かれた。

徐々にそれは口コミで広がり、今では人気の教室となり、先日あるメディアで紹介されたと聞く。

 

真に力のある人には、必ずまた光が当たり、活躍の場が与えられるのだなと気付かされる。

情熱の生命の炎を燃やし続ける、その人は、不屈の人だなと思う。

 

そして、もう1人、私の隣にも不屈の人がいる。

大学時代に、困難に見舞われて、誰もが心配する中、一人で生計を立て、バイトと学業を両立させて、一度も留年することなく無事博士号を取り大学院を卒業した。

その背景を知る者としては、それは並大抵のことではなかっただろうと思う。

が、「出来てしまった」と本人は表現していた。

それから、数々の紆余曲折があり、現在は私と共に生活をしているが、何か問題が起こった時、じっくりと対応策を考え、計画を立て、見定まったらすかさず実行し、気がついたら必ず実現してしまっていて、その行動力に驚かされている。

2年前は自由人だったのに、今は立派な家庭人に成長している。

一見、儚げで、激しい炎は目の奥に見えない。どこまでも凪のような穏やかな海に浮かぶ小舟の様に見えるけれど、その目はしっかり前を向いている。

今思えば、大学時代にかなりの困難に見舞われながら、それでも淡々と学業を続け卒業したのも頷ける。「出来てしまった」と言った意味が、分かった気がした。

 

不屈の人たちは、決して折れない。

 

しなやかで強い。

 

 

類は友を呼ぶ、という。

私は、いつも不屈の人たちから、心にパワーをもらっている。