いつも、このきらめき綴りをお読みくださりありがとうございます。
先日から書いている一連の記事について、お読み下さった方々は、様々な思い、感想をお持ちになられたことと思います。
賛否両論色々あることと思います。
「不登校」という、社会現象とも言われるこの問題については、私たち大人がこれからも真剣に考えていかなければならない問題だろうと思います。
身の回りに、困っている親子さんがおられない時は、あまり身近なこととして捉えにくいかもしれません。
また、ご自身が、実際にいじめにあってこられたり、学校に対して良い思いがなく、苦しんでこられた方も多いかもしれません。
反対に、学校が大好きで良い思いしかなかったという方もおられるかもしれません。
この不登校という問題は、本当に深い問題で、みんなで一緒に真剣に考えていかなければいけないことだと思うのですが、最近色々な人と話していて痛切に感じることは、それぞれが、自分の感情や体験を主体にして考えがちだったり、他人事だったりで、これから将来のある子どもたちや真っ暗闇のトンネルの中で悩む保護者の方の立場に立ち、客観的に考えて、意見を交換し建設的に話し合うことができる人がなかなかいない。難しい、ということでした。
学校が好きでいい思い出があるから、学校には通ったほうがいい。学校には嫌な思いしかもてなかった、本当に大変な目に合ったから、通わなくていい。と、主張をぶつけ合うのではなくて、その当事者の方にとって、本当に大切なニーズはなんだろう?リアルニーズはなんなんだろう?という視点で、みんなで考えて行かなくては、まとまっていけないのではないかと思うのです。また、そういう視点からのアドバイスでなければ、当事者の方は困り、苦しくなってしまうだろうと思うのです。
ニーズとは、その人の意向のことです。
子どもが「学校に行きたくない」といえば、それがニーズです。
しかし一方で、子どもたちはまだ幼く、成熟した存在ではないため、自分が大人になった時のことまでは想像し考えることは難しいです。本人の意向(ニーズ)はあるけれども、これから続く長い将来への道のりを考えた時、それが本当にそのお子さんやご家族の最善の利益、幸福になり得るのかどうか、ご本人たちとじっくり向き合い、話し合い、心の奥底の願いを聞き、受け取り、考えながら、模索し熟考して、本当に大切なニーズを探して見極めていかなければなりません。これを療育の世界では、リアルニーズと言います。
リアルニーズは様々な観点から、物事を多角的にそして俯瞰的に考えて導き出さなくてはならないので、それ相応に勉強する必要があります。
それぞれの親子さんが置かれた状況は違い、命を守るために学校から距離を置く決断をせざるを得ないケースもたくさんあると思います。学校から離れた場合、それでも傷ついた心を癒やし、治癒に向けて行く中で、他者との交流や学びを受ける権利、自分らしく生きる自由、安心できる居場所の確保が大切です。
でも、そうではないケースもあるのです。背景に発達障がいが絡んでいると、見えない難しさがたくさんあって、その世界に慣れていないと、なかなかに理解がしてもらいにくいのが現状です。
なので、知らない方にもこれを機に知っていただけたらと思います。少し知っている方には、もっと知っていただきたいと思います。
私が「不登校の子どもたち、日本の未来を考える⑴」に書いた内容は、私が学校が大好きで、学校が第1主義で、何が何でも登校優先と考え、書いたものではありません。
長年の間、この問題を見つめ、学校に入って、その内から問題を考え、療育の世界で色々な関係者と話し、更に深く当事者のお子さんや保護者の方々と膝を突き合わせて話して頭を悩ませ、この子が我が子だったら、という気持ちを忘れずに、学校や関係機関とやり取りしてきたことから見えてきたこと、発達の問題や家庭の問題に取り組んできたこと、などなどから考えた内容です。
ここに来て、急速に不登校のお子さんを取り巻く環境が変わろうとしています。
ある意味、混乱期に入るだろうと思います。
私立に行きたいと願った親子さんではないのに、高いお金を払わなければお子さんに合った教育を受けられないとか、近くに学校があるのに遠くに通わなければならないとか、そこに友だちがいるのに離れなければいけないとか、みんなと一緒に通えることなら通いたいのに、断念しなければならないとか、ただ理解してほしいだけなのに、こんなに揉めるのかとか。
どうしてそんな思いをしないといけない親子さんが出てくるのか。
どうして、外部の機関に任せるのか。
特例校やフリースクールは、本当に理解があるのか。
認可外のフリースクールは、国がちゃんと把握してくれるのか。それとも放ったらかしになるのか。
適切な教育を受けられなかった子どもたちはどうなるのか。
そんな新たな課題に直面するのかなとひしひしと感じるのです。
だから、本当にその方向性しかないのか、みんなで自分事として、勉強しながら考えていけたらいいなと思うのです。
私の文章は、時にやや圧が強いことがあるかもしれません。嫌な感じを受ける方がおられるかもしれません。
ただ、言っていることって、どう言うことなんだろう?と考えてみていただけたら、有り難いのです。
嫌だな、なんでそんな考え方なの?という気持ちの動きからでもいいので、色んな角度から考え初めて欲しいのです。
では、前回からの続きを始めます。
⑴は、様々な問題が絡んでいるから複雑で難しいように感じるけど、よく見れば問題はシンプルなんだよ、タイプ別の解決策ってあるんだよ、戻れる子たちもいるんだよって話を書きました。
⑵では特例校やフリースクールに触れ現時点での私の疑問や心配、問題提起について書いていきたいと思います。
文部科学省は、「学校に登校する」という結果のみを目標にするのではなく、、、ということで、フリースクールの活用も積極的に視野に入れるようにもなりました。
不登校の特例校というものも現れました。不登校のお子さんの実態に合わせたカリキュラムで教育を実施してくれる学校だそうです。
でも、例えば関西圏なら大阪、兵庫、岡山、広島、それに九州の半分といった広い範囲にその学校は今のところなさそうです。
特例校の無い地域の不登校のお子さんは、どうしたらいいのでしょうか?
急に選択肢が広がって、保護者の方は焦りがでるかもしれません。
放課後等デイサービスの様に、サービスが受けられるとなると、受けなければ損してしまうのではないか?というような気持ちに駆られてしまうかもしれません。
ただでさえ、家でお子さんと煮詰まっているのですから、そうなると、他に方法はないか?と奔走されるかもしれません。そうすると、認可は受けていない認可外のフリースクールでもいいから頼らざるをえないと考える方が出てもおかしくはありません。
でも、これが、今回私がこの一連の記事を書く原動力となった、一番の心配事なのです。
困っているお子さんを抱えた困っている保護者の気持ちを上手く使って、「学校に行きたくなければ、行かなくていい」と言って、心を引き付け誘うところが出てきているからです。
表面上は、言葉巧みに優しい声と満面の笑みで、困っている方々がホッと安心して信頼してしまうような接し方で説明するところがあるかもしれません。
でも、お願いです。
大切なお子さんを預ける場所が、本当に適したところなのか、どうかじっくり吟味してから決めて欲しいのです。
そのフリースクール等や、そこの代表者が発信している内容を隅々までよく調べて欲しいのです。
学校と上手く折り合いがつかなかったとき、あんな学校よりも全然良いと、思わず大事なことを見落として、パッと目を引いたフリースクール等などに移ってしまうこともあるかもしれません。
でも、人格形成において大切な学童期の子どもたちの教育はとても重要です。
新しく通う先の先生方は、障がいや不登校のお子さんへの理解がしっかりされていますか?対応方法を知っていますか?きちんと目が行き届いていますか?
人間性は信頼できますか?
中には良く知らないで、参入しているところもあります。
パッと目を引くものでなくていい。環境だけに目を奪われないで。巧みな言葉には気をつけて。取り巻きの多さは関係ない。有名人とかも関係ない。
地味でもしっかりとした教育観、倫理観、社会通念を持ち、そして経験を持っている人のところを選んで下さい。
認可外ということは、何かあっても国は責任を取ってくれないのではないでしょうか。責任なんて、はなから取れないのですが、何かあってから調査が入っても仕方がないのです。
同じ日本の大切な子どもたちなのに、認可外のフリースクールを選ぶと、なんだか放り出されたような気がしてしまいます。困っているのに、高いお金を出して通わなければいけないとか。遠くに行かないといけないとか。
なんだかな、、、と腑に落ちません。
さっきも書いた様に、学校なんて行かなくていいとか、勉強なんてしなくていいと、子どもたちが喜びそうな魅力的な誘い文句で呼び込むところには注意してくださいね。
自立の為だといって、学習する機会を奪って働かせるところもあるかもしれません。
自分が学校を好きでなかったからとか、勉強する意味が分からないからとか、気持ちが分かるという理由で開設している所もあるかもしれません。
自分がそうだったからといって、これから可能性が多いにある他人のお子さんたちに、自分と同じ道を歩まそうだなんて、よく考えるとおかしいですよね?高い知性を持っているけれど、今はまだ開花していないだけというお子さんたちもたくさんいます。どこまで伸び代があり、能力が眠っているか、じっくり観察しながら慎重に見極めて、力があるならゆっくりとでも伸ばしてあげる必要があります。なぜなら、子どもたちは発達途上だからです。
だから、子どもたちのことを本当に考えていたら、「もし学校に行きたくなったらいつでも行っていいんだよ。その時はちゃんと学校の先生と相談して、〇〇ちゃんが安心して通えるように頑張るからね」「勉強したくなったら、いつだって言ってね。できる限り教えてあげるからね。」と言ってくれるはずなんです。
なんなら、いつでも戻りたくなったら戻れるように、その時の為に必要なコミュニケーションスキル、衝動を抑制しコントロールする抑制力、忍耐力、共同注視の力や適応力などを身に付けられるように取り組んでくれるはずなんです。認知の穴を塞ぎ、概念形成が進むように教えてくれるはずなんです。
文部科学省は、「児童生徒によっては、不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で、学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。」とも言っています。
認可外のフリースクールでは、卒業資格はもらえないところがあるのでは?それって進路選択上の不利益に繋がりませんか?
勉強しなかったら、やっぱり社会的自立へのリスクが増しませんか?
社会的自立は、手に職をつけても成り立つかもしれません。でも、学習って、いい学校やいい職に就くためだけではないんです。
「なんのために勉強するのか?」にも書いているように(購入下さった方はご存知のはず)他者とより良くコミュニケーションを取ったり、関係性を作ったりする為や問題解決の方法を導き出す為の思考力を養う為にも必要なんです。
それに、一個人の話なら、勉強しなくても収入を得ることさえできれば生きていけると考えるかもしれませんが、これだけ日本中で多くのお子さんが、学習する機会を奪われるとなると、将来日本はどうなっていくだろうか?と一抹の不安も感じるのです。
みんなで農業すれば自給自足で生きて行けそうに思えますが、国はどんどん衰退していくのかもしれません。
個人としては幸せになっていくはずが、国が衰退しては皆んなが窮地に立たされてしまうかもしれません。それってこの問題に関心がない人たちにだって関わってくる大問題です。
そして私の疑問としてもう一つ、特例校だって、「学校」には違いないのでは?というものがあります。
学校がキライな子が、特例「校」や、フリー「スクール」なら行けるのかな?
そこにも多分、大勢の人が通うと思うのに。
勉強するなら同じなのに。と。
それなら発想の転換をしてみては?
配慮が行き届き、環境調整がされ、少人数の生徒に手厚く先生がつき、個人に合わせた学習が提供されると、特例校やフリースクールには通えるんだとしたら、通常の学校も、クラスの人数を少なくして、特例校やフリースクールの先生を支援担当や、今募集中の先生の仕事を軽減する職員として配置して、先生に余裕が出たところで、個人にも合わせた学習にも対応して、子ども達が主体的に学びたいと意欲をもたらすような授業や声かけの仕方を工夫すれば?
人が増えて余裕が出来て、たくさんの目で子どもたちを見ることができれば、いじめにも気づくことができるんじゃないですか?
そうすれば、特例校やフリースクールと同じになるんじゃないですか?
特例校やフリースクールがなくっても、困るお子さんは減っていくんじゃないですか?
色々な角度から長年考えてきましたが、今は上手く回っていない面ばかりクローズアップされていますし、学校の先生方は、昔と少し違うかもしれませんが、それでも免許を取れるだけの学業を収めてきている人たちです。毎日毎日、会議を繰り返して子どもたちのことを考えています。質で考えると、確かに高いものを持っているはずなんです。
良い先生方もたくさんおられるはずなんです。
学校があまり急激に変わらないのは、大きく変わるとリスクが高いからだと思うんですよね。変化の影響は、何年も経ってからしか現れませんから、それだとその時小学生だった子たちは大人になってしまっているかもしれませんよね。失敗だった、と言われても取り返しがつきません
幼い間に刷り込まれたことは、その後の人格形成に影響が大きいです。だから、少しでもしっかりしたところで教育してもらう方がいいわけです。人の育成には時間がかかります。涵養でなければならないんです。急な変化には対応しにくいからこそ、国や学校は慎重なのだと思います。それでも国もやっと重い腰を上げて、改革に乗り出したのだと思いますが・・・。
でも、特例校やフリースクールというのは対処療法と同じではないのでしょうか。
特例校やフリースクールの先生が出来ることなら、学校の先生にだってできるはずです。もともと学習能力が高い方達なのですから。
学校は、本気で勉強してより良い方法を取り入れて、みんなで知恵を出し合い力を合せて柔軟に変わっていくことは、本当にできませんか?
難しければ、その分野に長けた人々を配置するのはどうですか?
そうすれば、学校が通いやすくなり「みんなが通う学校に、自分だけ行くことが出来なかった」と悔しい思いをする子どもたちが出ずに救われるはずです。
ハードが変わらなくても、ソフト面で変われることは、山ほどあるはず。
根本的に、何のために勉強するのか、学ぶとはどういうことなのか、私たち大人は、もう一度見つめ直してみませんか?
そして、お母さんたちは、幼少期は可能ならなるべく子どもさんのそばにいてあげてもらえませんか?それだけでも子どもたちは精神的に安定します。
たった1度、みんなで心のベクトルを変えるだけで、子どもたちの、そして日本の未来が変わるかもしれません。
元から不登校にならなくていい世の中作りを。