7月を目前にしたある朝、我が家の玄関にある飼育ケース内が、俄に活気づいた。
我も我もと、ケースの上部にかかる不織布を乗り越えて、蓋のすぐ下に迫る黒い物体たち。
なんとか外に出る穴はないかと、必死に探している。少しでも蓋を開けようものなら、すぐさま気づいて隙間に突進。
この、黒い物体の目は、想像以上に良く見えているらしい。
朝、出勤したはずの夫から連絡が入った。
「〇〇ちゃんたち、誕生して、元気に動き回ってるよ〜。」
「は?」
「え?」
「ええええー!?」
寝坊した私は、まだ虚ろな足取りで玄関に駆け込んだ。
ここで、冒頭の状態に陥る。
私はこの瞬間を、293日前の9月11日から首を長くして待っていた。
そう、この黒い物体は、カブトムシ。
去年の夏の初めに、療育施設に通ってくる、あるお子さんから譲り受けたメスと、私が家の玄関前で拾ったオスとの子供たちだ。
2022年の9月11日に卵から孵化して幼虫になった。
長い冬を越して、春になり、私たち夫婦と共に転居してきた、この子供たち。
その数は総勢19匹。カブトムシが、産む卵の数は20匹だというから、ごく標準的な数だろう。
その幼虫達が、5月終わりに蛹になり、そして羽化して成虫になったのだ。カブトムシは1年で成虫になる、ということは、何度も調べて確認していたが、本当に、本当に成虫になった!
感動だ!
私はこのカブトムシたちに、特別な感情を抱いている。
それは、この子達の母親であるメスのカブトムシを譲ってくれた、ある1人の男の子に対する感情と言ってもいいかもしれない。
その子とは、このブログに度々出場し、重要な役割を果たしている、カマキリの君であり、カリフラワーの仲間、ロマネスコがきれいだと言って、私にフラクタルやフィボナッチ数列を教えてくれた彼だ。
彼がいなければ、私の長年の謎は溶けなかった。(詳しくは下記の記事をご覧ください)
彼が私の元にやってきたのは、その小さい体で、学校に抗い、不登校になっていたからだった。とても繊細で、根が真面目な彼は、繰り返し繰り返し課される漢字のやり直しに疲労困憊し、友だちとのトラブルでは「ごめんなさい」と言えるまで、長時間叱責され、学校が怖くなって、行けなくなってしまった。
「学校の漢字ドリル」「学校の計算ドリル」「学校のプリント」「学校の先生」「学校の友だち」
「学校の」とつくものは、全て拒否した。
学校への早期復活を目指し、その為に、なるべく早めに家を出るという習慣をキープできるよう、特別に受け入れ時間を早め、学習の遅れを最小限にするため、初めは私の手書きのプリントで、雑学形式で問題を出して少しずつ慣れてもらった。
慣れて来た頃、「学校の」漢字や計算のドリルを出し、遠目に「見る」というところから、始めた。初めは暴れて興奮していたけれど、「これは、《学校の》ドリルではない。《あなたの》ドリルだ。だから、《あなたが》自分のために勉強すればいい」と話した。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、彼は驚いたようだった。
それからは、徐々に、日数をかけて距離を詰め、中を見ることができるようになり、少しずつ漢字を書き入れるようになっていった。
几帳面な彼は、とても丁寧に書き順を守り書いている。暴れて荒々しい姿とは対照的に。
もちろん、彼が生まれ持った性格と特徴だろう。が、それだけではない。
「これだけ丁寧に綺麗に書けるのは、厳しかったけど、前の先生のおかげかもしれないね」と静かに声をかけた。
書きながら、「うんまぁ。そうかもしれんな」と彼は認め呟いた。
物事は、どの角度から見るかによって、見え方が変わってくる。過去は変えられないというが、捉え方は変わる。無理にではなく、自然と受け入れられるタイミングを探し、逃さずキャッチする。そうすれば、案外素直なこども達は、スッと今までのことが嘘のように受け入れる。
彼は低学年でありながら、頭の回転が速く、独学ながら博識で、理解力、思考力に優れていた。そして私もびっくりなことを時々言う。
きっと、このまま学習を続けていければ、将来東大にもいけるだけの力があるだろうと私は見ていた。
そんな彼は大の生き物好き。特に昆虫が大好きだった。落ち着いているときは、私とカブトムシやクワガタ、カマキリの話で大いに盛り上がった。
彼が譲ってくれたメスのカブトムシが残してくれた子供たちを、無事に成虫にすることが私の任務で、責任重大だった。
もし、無事に成虫にすることができたら、彼にも報告しよう。19匹ものカブトムシを、この先も飼うことはできないから、教室の子どもたちにプレゼントしようか。きっと子どもたちは大喜びしてくれるだろう。
そんなことを考えていたが、いざ成虫になってみると、なりたてホヤホヤのカブトムシたちは元気が有り余りすぎているし、オスがメスを追いかけ回してしまい、てんやわんやだ。
ケースを分けてはいるが、それでも狭い。
可愛そうだな。
動物愛護精神の強い夫は、森に還してやって欲しいと希望していた。
隙あらば逃げ出そうとするメスを見ていて、私もそれがいいかもな、と思えた。
娘と一緒に、森に出かけ、ケースを地面に置いて、カブトムシ発掘大作戦をした。
出るわ、出るわ。次々と土の中から現れた。せめて、オスとメスの数を数えたかったが、綺麗に並んでいてくれるわけもなく、すぐに飛び立つ者もいた。
ケースの蓋の上に出してやると、植込みの切れ目目指して、みんな歩き出した。
親に教えられてもいないのに、みんな森が分かるんだな、なんて、妙に感傷に浸ったりして、森に還っていくカブトムシたちを見送った。
意外と、歩いて還るんだなぁ。
彼から授かったも同然の、愛しいカブトムシの子どもたち。
さようなら。
今まで楽しませてくれてありがとう。
不登校だった彼も、学校に帰って10ヶ月経つ。4月からは自分の教室にも入ることが出来、毎日そこで授業を受けている。
おまけ。
幼虫たち19兄妹。
蛹。