きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

夢のあと先。無名人にもドラマがある。そして大きな流れに導かれ。

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

私がブログを書く理由、それは、大きな流れが来たから。

 

1990年代に、日本テレビ系列で「いつみても波瀾万丈」というテレビ番組があった。

輝くスターたちの、知られざる人生秘話を、再現VTRと、ゲストとして登場した本人の話で振り返るトークバラエティ番組だった。

華やかな世界で活躍する憧れの人たちが、どんな子供時代を送り、苦労しながら、どうやって現在のようなステージに立つようになったのか、その物語を何の関係も会ったこともない私が、テレビの前に座っているだけで生い立ちから知ることのできるその番組が、私はとても好きで、よく楽しみにして見ていたものだった。

スターはいいなあ。普通なら、誰にも知られるはずのない生い立ちや苦労、そして面白いエピソードを、こんな風に国民に知ってもらえることができて・・・。

楽しく番組を見ながら、いつしかそんなことが頭を横切るようになっていた。

 

私は子供の頃に何度も転校を経験し、両親の別居、離婚を巡って、生活も一変。先行きの不安を常に抱える子供〜青春時代を過ごした。父と母の諍いが始まると、怯えてドキドキしたり、引越しや転校をする悲しさに胸が押しつぶされそうになっても、同情はされたくなくて、素直な気持ちを誰にも言えず、次第に心を麻痺させていった。

深刻な問題を抱えているほど、口から言葉は出ないものだ。そう子どもの頃は感じていた。

心は麻痺させていないと、周りで起こるショッキングな出来事に、いちいち動揺しては身が持たないと感じたからだと思う。防衛本能の一つかもしれない。もし、横で爆弾がドカン!!と爆発しても、「だから?」とゆっくり振り向くだけの反応しかしないだろう、というくらい、その頃は冷めていた。

当時は親が離婚する家庭というものは、周りに今ほど無い時代。だから余計に珍しく目立ったと思う。

大人になってから友達にも言われたが、そういう周りの環境の中では、私もまた「波瀾万丈」だったのである。

 

だけど、不思議とグレたりはしなかった。

今なら物議を醸すことかもしれないけれど、当時は「下を見て生きる」というような言葉がよく言われていた。これは最近言われているような悪い意味では聞かされておらず、終戦からまだ30年余しか経っていなかった当時はまだまだ戦争中の兵隊さんのことが世の中の話題に上がっていて、その兵隊さんたちの苦労に比べれば、こんな苦労は比べ物にならない、とか、食糧不足が深刻な国の子供達のことを考えたら文句ばかり言っていたらバチが当るね、というような、「不平不満を言わない」という意味で言われていたと記憶している。

こういったことを母からも懇々と言われて育ったので、とにかく不平不満を言わず、ただただ自分ができることを淡々と、でも一歩でも前に進めるように匍匐前進で辛抱強く最善を尽くす、といった感じで暮らしていたからだと思う。

苦悩の中を歩いていても、ずっと先に、きっと一筋の光が差しているはず。と、その光を見失なわないように生きていた。つもり。

 

日々の暮らしの中で、不平不満の気持ちや、怒りの気持ちが沸くと、それは自分が未熟だから・・・とも思った。

自分でいうのもおかしいけれど、あの頃は精神世界の中にいたなぁ、と思う。

「自分を律する」と言えばいいのだろうか。

実際、「この世は修行だ」と修行僧の様に10代20代の頃は思っていた。

 

私にも、人知れず胸にしまってきたドラマがある。スターの場合は、周りの人がそれを細かく調べ、世に出してくれるから、国民に広く知ってもらうことが出来る。どんな家に生まれ、どんな風に育ち、なにを思って生きてきたから今があるのか、理解してもらうことができる。自分で説明しなくても、皆んなが知っている。

私のドラマは、誰が見つめていてくれただろう?言わなくても分かってくれている人がいるだろうか?この、「言わなくても分かってもらえる」というところが、より強く憧れたところだろうと思う。

 

そうして誰かに知ってもらいたい、という気持ちは膨らんで、いつか自伝が書けたらいいなと思い出していた。

偉人でもなければスターでもない。ただの一般人の自伝なんて、誰が読むだろう。考えるとそれは現実的でない気がした。しかも私は自分の思いを言葉に表すことに抵抗があったし。綺麗な物を見て感動した気持ちでも、言葉に表すと途端に色あせた気がするし、悲しい出来事があっても、どんなにどれほど悲しい思いか、他者に自分のことのように共感してもらえるほど上手に言葉で表すことなど、到底できないと感じていたからだ。そいう意味で、私は子供の頃は、本当に読書感想文が嫌いだった。

やっぱり一般人とは、こうしてひっそり生きて消えていくのだな、、、。と、気づくと夢の様になっていた自伝を出したいという想いは大人になるにつれ、自然と目立たないようにひっそりと、陰を潜めていった。

 

20代後半になって、私は結婚し、子供を出産した。

生まれた子はとても元気で、元気で元気で、目が離せなかった。泣いて、寝ないで、抱っこもままならなかった。園も学校も行きしぶり、先生からもよくお電話をいただいた。幸い体が大きかったことと、物知り博士だったこともあり、存在意義は認められ、いじめにあうことはなかったけれど、やっぱり怒られることは多かった。

まだ発達障害のことが公に理解されていない15年ほど前のこと。学校の先生だってどう接したらいいか分からず困っておられた。専門家など、どこにいるのかも分からない。とにかく先生と連携を取り、家庭と学校の様子を密に情報交換するところから始めた。子供のことを理解してもらい、良い方に導いていただくにはそれしかなかった。ツールは連絡帳。高学年にもなると、書かれた内容も読み、理解することもできる。本人の目に触れることが少ないように、別の連絡帳を作った。今なら当たり前の支援の先生との連絡帳みたいなものだ。

毎日毎日、先生とあ〜でもない、こうでもないと考えあった。お互いに攻撃をするのではなく、相手を労い、敬って、尚且つ気づいたこと、考えたことは、例え相手の主張と違っても変に屈せず、きちんと書いた。先生側も懐深く、それを受け入れ、咀嚼してまた見解を返事として返してくださった。時に教育論であったり、文学や自然のことなど多岐に渡り教えていただき、それらが私の血となり肉となって今の私がある。

先生と連絡帳で、自分の子育てを振り返っていると、やがて自分の子供時代に想いを馳せるようになっていった。我が子に対して向き合う時、自分の子供時代に受けた禁止令が障壁となっていることに気付いていった。子供時代を辿っていく中で、今の私はあの時のあの出来事があって、こういう状態になったのだな、と分かっただけで、今の自分を認め、許すことが出来ていった。

我が子が寝静まった深夜に一人、ノートと向き合い鉛筆を走らせていると、どんどん胸の中に封印していた子供時代の辛かったこと、嬉しかったこと、嫌いだったはずの父との思い出などが蘇り、泣きながら毎晩書き続けていた。これがあったから、私は生まれ変われたのだと思う。麻痺させていた感情を取り戻したのだと思う。その後は我が子への接し方を変え、「〜〜しなさい」ではなく「〜〜しようか」と言えるようになった。自然体の自分で接することができるようになった。

先生とやりとりした連絡帳は7冊になっていた。このノートのおかげで、しょっちゅう顔を合わすわけではない担任の先生と、連携をとることができて、理解を深めていただき、その影響が回り回って子供に還元され、なんとか小学校を良い形で卒業することができたのだと思う。

そして、この連絡帳が、私の、考えや思いを言葉に変えて、文章にして相手に伝えるという力を養ってくれた。

その後、程なくして、私は困っているお子さんや困っている保護者、困っている先生の、少しでも橋渡しが出来、役に立つことができたらと考え、学校で介助員として働くこととなった。そこでは、お母さんに向けて連絡帳を書く機会に恵まれ、担任の先生が忙しくて見きれない所や分からないところを代わって書く毎日がやってきた。これについては紆余曲折があるけれど、保護者の方からは当時の連絡帳は宝物だと言っていただいた。私が我が子のことでやりとりした連絡帳の様に、お母さんにそう思ってもらえたことが何より嬉しかった。

そこから次は療育施設で働くことになり、その為のHPやチラシを作らなければならなくなった時、当事PCがほぼ全く使えなかった私だけれど、他人に案を考えられるのが嫌で、三日三晩徹夜してある程度の操作を身につけて、HPとチラシの原案を作成した。

そのHPとチラシには、私が大切に温めてきた大切な言葉たちを、溢れんばかりの想いと共に載せ、公開した。

それから1、2ヶ月経った頃、1本の電話が入った。もう会社名は忘れてしまったけれど、「本を出しませんか?」というお誘いだった。 

その溢れんばかりの想いを込めて載せた大切な言葉、フレーズが、その人たちの目に触れたらしい。

若かりし頃、夢みた「本を出す」という言葉に、びっくりしたけれど、素直に嬉しく興奮した。私にそういう機会が訪れるなんて!と。

 

ただ、自費出版にはお金がかかる。半分負担してもらえるという話だったが、その頃の私には別の夢(我が子たちを何とか大学に行かせてやりたい)があり、本にかけるだけのお金は手元になく、そのお話は丁重にお断りさせていただいた。

 

忘れかけていた夢がむくむくと顔を出し、またそんなことが出来たら良いなぁと考えていた頃、今度は子育てのお話を、市の教育フォーラムでお話してもらえませんか?というお話をいただいた。「え?私ですか?」と驚愕だった。

ところがこちらも、私には大きすぎる場だし、そこに裂ける余力もなかったので、即座に良いお返事はできなかった。

今考えれば、もったいなかったなぁと少し思うが、仕方がなかった。

そうして、大勢に向けて自分の思いを言葉に乗せ、発信するということには繋がらなかったけれど、療育という仕事をする中で、多くの親子さんに出逢い、自分の「考え」や「思い」を言語化して口にする機会が与えられたことで、しばらくの間、満足できていたんだと思う。

でも、それも束の間、やがて、今度は若い頃に積もっていた思いとは別のものが胸の中にいっぱい積もり出してしまった。

それは、療育の場で出逢った子どもたちへの思いや、療育に関する情熱、そして美しい自然への思い、などだった。

早く胸から出していかないと、次から次へと新しいきらめきや考え、思いが胸に入り、もうはち切れそうになっていた。

 

そんな時辿り着いたのが、このはてなブログだった。

 

私は苦悩に満ちた子供時代に、円満な家庭では育たなかったけれど、それでも不自由な想いをそこまで感じていなかったのは、ある意味幸運だったと思う。それを、勝手に「守られている」と感じていた。何に?それは分からないけど、ご先祖さまか何か。先に亡くなったおじいちゃんかもしれない。

私は石橋を叩いて叩いて渡らないタイプだった。でもじっと思案を重ねていると、その内、何か転機が訪れだしている気配は感じていた。行動力のなかった私はただひたすらその転機にひょいと乗って、次のステージに行くという感じで行動していた。

それがご先祖樣の働きかけだったのか、神様の采配なのかは分からない。ただ、「おじいちゃんが教えてくれてるのかもなあ」と思って「大きな流れ」に乗っていた。

はてなブログに辿り着いたのも、その大きな流れの一貫だったのだと思う。

 

苦労があったことには、何か意味があったのだろう。その意味とはなんなのか•••?と長年探し続けていた。苦労とは、した者でなければ、その立場に立った時のリアルな気持ちは分からないものだ。だとすれば、私がした苦労というものは、将来、困っている誰かの痛みを分け合い、軽くすることに役立てられるのかもしれない。と気づいた。

そして、それはきっと、私のアイデンティティ確立の為の旅だったんだろうと今では思っている。

 

読書感想文が嫌いだった私は、大きな流れに乗る内に、思いを言葉に載せて、文章にして書くということができるようになっていた。

流れ流れて辿り着いたこのはてなブログで、心に湧き起こるきらめきや、困っている誰かさんへのメッセージなどをこれからも書いていけるといいなと思う。

それによって、私も助かることができたら、、、。

 

夢が叶ったも同然なのかもしれない。