きらめき 綴り

困難を抱えた子どもたちと、日々格闘しています。その中での心の煌めきを大切にしています。

ジャニーズ問題と同じ轍を踏んでいるゲーム問題。

ジャニーズ問題(旧というべきか)が、にわかに噴出してから、日本には、いろいろな功罪があるもんだなぁ、と今更ながら実感した。

 

日本の問題の傾向が色濃く出たし、「その時」が来てしまえば、覆すことなど絶対に無い、出来ない、と思うようなことでも、どんなに断腸の思いでも、あっという間にひっくり返り、長く続いた歴史でさえも消え去ってしまうということが分かった学び多い問題だったと思っている。

ここで、「日本の問題の傾向」と書いたのは、こういったことがジャニーズだけに収まらないよね、と思っているからである。

それに今、私たちは気がつかないといけないのではないか?気がつかないと、同じ轍を踏んでしまうのではないか?いや、もう踏んでいるのかも、と危惧していることがある。

 

その同じ轍を既に踏んでいるのでは?というのは何かというと、ゲーム問題だ。

「ゲーム問題」というだけで、ムクムクと反発の気持ちが湧き上がる方達もおられるのではないかと予測する。

冷静にこの記事を読むことは難しいと思う。

いや、自分は冷静に読むことくらいできる!という方や、この問題に強く関心を持っている!という方、殊更に子供たちを大切に思い、真剣に考えている方は、特に、是非最後まで読んでみていただきたい。考えるのはそれから。

 

 

ジャニーズが無くなると聞いた時、この問題が今の時代、決して許される問題ではないと重々承知していても、心はそれを受け入れがたく、なんともやるせない気持ちに私もなったし、恐らく大勢の人達も同じ思いだったのではないか?と思う。

SMAPは国民的アイドルだった。嵐、KinKi Kids関ジャニ∞SixTONES、、、挙げればキリがないほどたくさんのグループがいて、TV画面を華やかにし、長い年月私たち老若男女を楽しませてくれた。不景気でも、ジャニーズが明るく世の中を照らしてくれていた。ジャニーズの無い世の中なんて、クリープのない珈琲のようだ(この言い回しが分かる方は恐らく50歳以上)、と言っても過言ではなかっただろう。

 

もう皆さんがご存知の通り、この問題は昔からチラホラ世間で漂っていた。一般人にとっては風の噂の域を出なかったけれど、なんとなく「知っていた」ことになると思う。

芸能界なら尚更に、今ご意見番と言われる方達が次々「知っていた」と表明しているから、暗黙の了解だったのだろう。

 

なのに、今になって、世界ではタブーと言われる問題だと急展開を迎え、断罪されることになったのは何故なのか?考えてみると、それはご本人が亡くなったこと、そして声をあげる当事者の方々が出てきたということが大きい。

 

ご本人がいる時は、もはや明るみに出ているように、業界ジャニーズへの忖度が存在していた。その当時なら、当事者が声をあげたとしても、もみ消されていたということのようだ。

ならばそれは業界にとって利益が大きく絡む問題だった、ということになる。

そこで働くアイドルの方々も、自分にとって大変な不利益があっても、売れればそれを上回る事(夢が叶う)があると、ひたすらにその夢を追いかけた点で、利益があった、ということになるのだろうか(そんな風に言いたくないけれど)。

世の中の多くの人々も、自分たちの心に煌めき、ワクワク、時に生き甲斐をくれるジャニーズのアイドルたちは、生活に、人生に、無くてはならないものになっていた。その点で、やはり利益があったことは間違いない。

そして、その三者(企業、国民、当事者)を取り巻く巨額のお金

日本にとって、ジャニーズは大きな経済効果をもたらしていた。

 

長年その三者の均衡は保たれてきたけれど、ご本人が亡くなったことと、時代の流れによって、その均衡は崩れることになった。

沈黙を貫いてきた当事者の方達が、声をあげたことによって、まずは世界が注目し始め、この問題はもはやスルーすることも、寛容な態度を示すことも難しくなった。

昨日までは味方だったのに、今日は突然敵になったような変わり身の速さ。

そこから分かることは、今の日本の動きは決して倫理観からのものではないということ。では何のためか?保身の為ではなかろうか?

 

本当にこの問題はスルーしてはいけない問題だと認識し、実態を知り、当事者のことを思っていれば、もっともっと早くジャニーズは断罪されて、今日と同じ流れを辿っていたはずだろう。

 

皆んな知っていたのに、不利益は全て当事者だけに背負わせて、自分たちの利益の為に黙っていたということになる。

 

日本は、そういう国だったのか、、、。と、愕然とする。

 

では、他にこれと同じような問題はないだろうか?

 

考えてみれば、女性の立場からすると、目を背けたい様ないかがわしい雑誌が公然とコンビニで売られている。子供たちの目にも入るのに。

街では風俗店もオープンにあることや、路上でお酒を飲むことも咎められないことを海外から来た人たちが驚いていた。

 

それによって不利益を被る人がいるにも関わらず、それらは大きく規制を受けていない。

何故なのか?

企業は勿論、私たち国民の一部にとっても利益があるからだろうと思う。不利益の部分は女性や子供に多く影響を与えているのに。

不利益を受ける人があると分かっていても、利益のある人たちの圧によって、そして企業への忖度によって、言ってみれば問題はスルーされているのではないだろうか?

 

この構図をゲームで考えてみるとどうだろう?

私は療育を仕事としていることから、子どもたちと多く接してきている。子どもたちの生活の中での困り事について、保護者と子どもの両方から悩みを聞く機会も多い。私自身の子育ての経験も絡めて、最低でもここ25年ほどの移り変わりを見てきている。

某ゲーム会社から初めてゲームが発売されたのは1983年だったそうだ。

TVとケーブルで繋がっていたものから持ち運びができるようになったのは1989年頃だろうか。

1996年には、さらに小型軽量化を果たした。私の子どもたちが誕生したのはちょうどこの頃と重なる。

私たちが子供だった頃もゲームは存在していたことになるが、家庭用ゲームは今のようなものとは違い、もっと単純なものだった。持っていた家庭はまだ少なかったと思うし、持っていても、まだまだ大人の娯楽程度のものだったと記憶している。

徐々にゲームは家庭に浸透しだし、私が20歳になる頃には、長時間ロールプレイングに嵌っている友達もちらほら見受けられ、休みの日は長時間取り組む人もいるにはいた。が、それによって学校にいけないとか、仕事にいけないという例は、まだ多くなかった。

それはなぜなのか?

 

それは、私たちの脳が、既に大人脳になり成熟していたからではないかと思う。

子供の頃の、脳は脆弱だ。大人になるまでに、私たちは散々外を駆けずり回って遊び、友達と喧嘩しては仲直りしたり、歌を歌って帰ったり、一緒に笑いあったり、虫をつかまえたり、ボールを追いかけたりとゲーム以外の楽しさを、いやというほど経験したし、詰め込み教育時代だったが、ある意味学習をすることによって、脳は絶えず刺激を受けていて、難しい問題を考え続けた後に解けた時の快感を知っていた。

そして、子ども同士の中で揉まれ、親から教えられ、我慢することや待つことといった忍耐力や行動抑制力を養う。分からない問題をう〜んと唸りながら考えたり、イライラしながらも待つといったことは、脳にかなりの負荷がかかるだろうと思う。(この、負荷がかかった状態がADHDの特性を持つ子どもたちは極端に苦手だ。)が、その経験を通して耐性というものを身につけていたのではないかと考えることができる。

ゲーム以外に楽しいことややり甲斐によってもっと楽しく満足できた時の快感があるということを既に脳も知っていたからこそ、ゲームしかない生活にはなりにくかったし、行動抑制力やコントロール力がついていたからこそ、しなければならないことがあるのにゲームに没頭してできないとか、疲れ切って体力が無くなるということがあると良い方に切り替えようとする理性を働かし、その状態から自ら脱出することができたのではないだろうか?

ある意味、刺激に強い脳になっていたのではないか?と思われる。だからこそ、ゲームを長時間したとしても、ダメージが少なかったのかもしれない。

 

ところが、それ以降の子どもたちというのは、生まれた時からゲームがある環境に置かれている。誰に?私たち大人にだ。

 

私の子どもたちが小学校に上がる頃には、ちょうどニンテンドーDSが発売されていた。どうしても、男の人たちは目新しいもの、機械物には目がない。あちこちの祖父や父親が、母親の反対を押し切って、孫に、子どもに、買い与えるといったことが周りを見渡しても、あちらこちらで行われていた。

まだ、やっと字が書けるようになったかどうかという年齢。体を目一杯動かして外を走り回って遊んだり、友達と直に話したり、議論を交わしたりといった意思の疎通を図る過程で得る楽しみを知るよりも早く、ゲームを手にした子どもたちが、この頃から急速に増えていった。子どもたちは、公園にもゲームを持っていった。母親が、外で遊んでいると安心しているのを他所に、寒い冬空の下でも、一所に集まり、じっと座って小さな画面を見つめている。体を動かして遊んでなどいないのだ。ゲームを持っていなければ、その仲間にすら入ることはできない。すなわち、遊び相手がいなくなるのだ。

このまま子ども達はゲームをしていて大丈夫なのだろうか?

そこから、私はゲームと子どもたちの関係というものについて考えるということに長年向き合ってきた。我が子が発達障害ということもあり、この問題は、決して他人事にはできない問題だったからでもある。

何らかの要因によって、過集中を起こす子どもたちと、そうではない子どもたちがいるということに気付いたのは、息子が中学生になった頃だった。同じようにゲームで遊んでいても、のめり方や、切り替えにくさに個人差が激しいと感じだしたのだ。

家庭によって、勿論、約束の仕方には幅があり、全く同じ条件のもとで比べることはできないが、それでもその背景を考慮しながら具に観察していると、親が普段から決してゲームで遊び放題にさせてはいないし、逆に厳しすぎてもいないのに、ゲームへの執着の仕方に大きな違いが出る子どもたちがいることが分かった。

今でいう、いわゆる視覚優位や聴覚過敏、衝動性が強いタイプ、そして過集中を起こしやすい、こだわりの強いタイプの子どもたちだ。

このタイプの子どもたちは、自分で自分の行動をコントロールしようと思っても、普段の生活の中での行動も、行動トレーニングなどを積まないことには難しい。なのに、そこに視覚的にも聴覚的にも強い刺激を与えるゲームが与えられると制御不能になってしまうのは考えれば当然のことだとお分かりだろう。

ではゲームを止めれば問題ないかというと、そう簡単ではない。

例えば、私たち大人でも、テトリスのようなゲームでも、サーキット系でも、ロールプレイング系でもいいから長時間した後、パッと止めて寝ようとしても、頭の中ではその画面や音がぐるぐる回り、しばらく再生されて寝られないといった経験をしたことがあるのではないだろうか?

それと同じようなことが、定形発達と言われる子どもたちにも当然起こるし、上に挙げたような特性を持つ子どもたちなら、もっと強く長くその刺激的な映像と音が脳内で再生されている。

これは、私の元にやってくる子どもたちへの聞き取りや観察からも分かる。

ゲーム依存を心配して保護者が相談しに来られ、預けられた子どもは、下校時間になると早く帰ってゲームをしないと!と言って泣き叫び、暴れ、壁や人を叩き椅子などを投げ飛ばしながらその衝動に耐えている。ルーティンのように、その時間になると、頭の中をゲームの画面が再生され出すのかもしれない。イライラし、暴れている時、私たちのことは見ていない。頭の中に流れる画像を見ているかのように目はあちこち空に動いている。

ゲームは、刺激が強いからこそ面白い。その面白さが脳を興奮させ、逆に疲弊させる。

疲弊していることに気がつかず、学校に行こうとか、勉強しようと思っても、すでにエネルギーは切れているから元気も集中力もないからできない。それに気がついていない大人は、なんでダラダラするの!なんでやる気がないの?と怒って叱る。

 

現在、ゲームを取り巻く問題で、各ご家庭で困っているのはこういった状態ではないかと思う。

 

ここで私たち大人は気がつかなければいけないのではないだろうか?

 

子どもは、自分でゲームを買うことはできない。

大人が、ゲームを買い与えてしまっている。

大人は、自分が買い与えたゲームによって、子どもを疲弊させている。

もっとゆったりとした時間の中で、体を存分に動かしたり友達と遊んだり喧嘩したり、自然の中で様々な経験を積むといった機会を奪い、子どもの健全な発達を阻害しながら、思うように動いてくれない育ってくれないと言って悩み怒っている。その怒りがまた、親子関係を複雑なものに変化させていく。

幼少期や児童期に、躾の一環としての行動トレーニングもまだできていないうちにゲームを渡し、制御不能になることによって生活サイクルが崩れ、それによって朝も起きにくくなり、食事も取れず、学校にも行きにくくなる。

 

不登校の何割かはゲームが関与している。

これが、悪循環の極みだということに気付いていない。

いや、知っている、「知っていた」大人は実は大勢いるのかもしれない。

 

ただ、世の中には、ゲームをする子は賢くなるなどと、保護者たちを翻弄する学者がいたり、不登校の子供たちが心の拠り所としているから、ゲームは必要だというニュースが流されたり、youtuberやゲームのライブ配信で収益を得る人などを見ていると、何が良くて何がいけないのか分からなくなっているのかもしれない。楽しんでいる子どもたちを見ていると、取り上げるのは可哀想な気持ちにもなるのかもしれない。

「可哀想」という気持ちは、大人自身の感情であって、子どもたちのものではないから、この「可哀想」という気持ちによって適切な対応ができないという人は、子どもが大切なのではなくてこの「可哀想」という痛みを伴う自分自身を大切にする行動を取ってしまっていることにも気がつかれた方がいい。

 

そして、今一番厄介なのは、子どもたちにとってゲームが良くないと、勇気を出して問題提起をする人が現れた時、必ず「科学的根拠」に乏しいといって反論する人々が出てきて、総出で声を揉み消してしまうことだ。

それは誰か?

自分たちにとって大きな利益が絡む企業大人たちではないだろうか。

科学的根拠、エビデンスが必要で大切な事柄であることは勿論分かるが、子どもたちが今、上記のような大変な状況になっていて、その様子を見れば一目瞭然であるにも関わらず、それを何とかスルーしようと、利益のある人々がその言葉を振りかざして世の中を撹乱する。「科学的根拠」がなければ、子どもたちを守ることは出来ないのだろうか?

科学的根拠を出すにはそれだけのデータを出す為の時間を要する。

それまでの間に、子どもたちがゲームによる不利益を被ることになったとしても、利益を得ている大人たちは時間を稼げさえすればいいのだろうか?子どもを犠牲にしても、自分たちが利益を受け取れる期間を引き伸ばしたいのだろうか?

 

既に、WHO(世界保健機関)によって、2019年5月にゲーム障害は国際疾病に正式認定されている。これは、私がゲームには依存性があるし、脆弱な脳の子どもたちには悪影響があり、特に快楽に弱い(依存体質)ADHDの子たちは特に問題となりやすいと、我が子や周りの人に発信した頃から10年も経ってのことだった。

 

2020年に香川県が施行させた日本初の「ネット・ゲーム依存症対策条例」は日本でゲーム依存症対策に特化した条例としては初で、未成年者がインターネットやコンピューターゲームを利用する時間を制限することを推奨する内容なのだそうだ。

では、推奨される利用時間はどれくらいか?というと、、、

一日60分。

さあ、これを、皆さんは短いと思うか、長いと思うか?

私は、妥当だ、と思う。

このニュースを聞いた時、よくそこまでこの問題に切り込み、目安まで決めてくれたものだと思った。

なぜか?その理由は後ほど書きたいと思う。

 

さて、この条例、施行されてからは不満の声が噴出したそうだ。

この、不満の声、どんな人から出されているのか?それが問題だと思う。

香川県議会の発表では、県外の約70の企業や団体で賛成は0%、県民は約2600人のうち約87%が賛成だったとか。この、県民の賛成意見については、いろいろ物議が醸されているので、どこまで信憑性があるか分からないが、疑問点は、どうして県外の70もの企業や団体が0パーセントなのか?

そして、ゲーム業界からは「専門的知見の調査及び専門家の意見を聴取したものではなく検討が不十分」といった反発の声もあったそうだ。

そして、この条約に反対した保護者がおられたとしたら、それは子どもを「可哀想」に思う人か、子どもがゲームを1時間以上利用できないと、出かけたり家事ができずに困るという人、またはご自身もゲームが好きで自分は大丈夫だから、なぜゲームに制限が必要か理解し難いと思う人、などではないかと予想する。

 

これらから、ゲーム問題を取り巻く現在の状況をジャニーズ問題と照らし合わせた時、

直接被害を受けたアイドルたち=子どもたち、

ジャニーズ事務所=ゲーム会社、ゲーム業界、通信業界

ファン=ゲームを楽しむ人たち(保護者、子ども本人を含む)、

そして、ゲームには依存性があることを薄々認識しながらも、反発を恐れて意見を言うことができない人、科学的根拠がなければ動くことが出来ない人、子どもたちが今、大変な現状にあるのに傍観している人たち、「知っているけど暗黙の了解で黙っている人は皆んな、ジャニーズ問題を黙認していた国民と=イコールなのではないだろうか?

 

ゲーム(スマホ、オンラインゲームを含む)の取り扱いに困っている保護者の皆さんは心当りがおありだろうが、家庭内で、ゲームに固執する子どもに時間制限を約束し守らせようと、どんなに掛け合い、話あっても上手くいかないということがあることと思う。親子の間であっても、一度決めた約束を簡単に破ってしまうとか、親との約束は、単に親が勝手に意地悪で押し付けているものだという認識の仕方を頑なにしているタイプの子どもたちには、療育の世界では、絶対的なもの(法律、警察、決まり事など)があることを伝えるという方法がある。例えば、法律で決まっている、迷惑防止条例で決まっている、学校で決まっている、といったことを話してあげることで、それまでの反発が嘘のように消え、素直に納得して応じてくれやすくなる。

香川県の条例が、周りの反発、バッシングを受けてでも、県内の子どもたちを守りたい、と思って制定されていることや、利用時間は「60分」と目安を打ち出してくれていることは、困っている保護者や、子どもたちにとってある意味救いになるのではないかと思う。

子どもを育てていると、60分が子どもにとって妥当な利用時間だということが分かるはず。それ以上になると、大人でも疲れるし、子どもなら尚更で、60分を超えるあたりから途端に執着が増すし、親もイライラし始める。何より生活も回らなくなってしまう。

 

この国は、企業の利益を最優先させているし、私たち国民もまた、見て見ぬふりばかり、自分たちの権利を主張するばかりで、困っている国民、子どもたちを犠牲にしていないだろうか?国全体で、ゲーム会社企業に忖度していないだろうか?

 

 

いつも明るく、楽しませてくれたジャニーズのアイドル達が、もう見れないかもしれない残念な気持ち、大好きなジャニーズが崩壊したことにショックを受け、信じられず心にポッカリ穴が開いたような何とも言えない気持ち。それと、

もし、ゲームに制限がかかったら、できなくなったら、ジャニーズの時と同じように、日本の経済も、ゲーム業界も、そして私たち国民も、大打撃を受けるかもしれない。今やゲームはなくてはならないものになっているかもしれない。

 

 

それでも、今、冷静に考えればどうすればいいのか?

皆さんにはもうお分かりなのではないだろうか?

 

スティーブ・ジョブズも、ビル・ゲイツも、自分が開発したIpadスマホを我が子にある年齢まで持たせなかったというのは有名な話。

 

今度は、海外から指摘を受ける前に日本も行動に移したいものだ。