きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

感性を研ぎ澄ます。

昔、「霊感 ヤマカン 第六感」というテレビ番組がありました。クイズ番組だったような気がします。番組の詳細は覚えていませんが、音感が面白く子どもにとっては関心の高い言葉とあって、とても印象深く、子ども心に霊感やヤマカンや第六感の違いについてなどよく考えていました。

このブログにも「目に見えない力」とか「他力」とか書いているくらいですからその子どもの頃に考えたことというのは、かなり現在の自分に影響を及ぼしているものです。

前置きとしてお伝えしておきますが、私は霊的なものは見たことがほぼないし、何か宗教的なものに入っているということはありません。祖母のお葬式は真言宗のようでしたから、恐らく家はそうなのでしょうけれど。

だけど、不思議と昔から感が良く、今日友だちに電話しようかなと思って受話器を取ると、すでにその相手と繋がっていた(同時に相手もかけていた)とか、長らく音信不通の相手からもうすぐかかってくる気がする、と思った次の日にかかったきたとか、今日は家族が自転車やバイクで転びそう、と思ったら転んだとか、スピード違反で捕まるだろうなと思うと捕まったとか、そういったことが良くありました。

10年後、今あまり仲良くない人同士が、きっととても良い関係の友人になっているだろうと思ったら実際にそうなったとか、そういったことも良くあるわけです。

だけどそれは予言とか、予知とか、そういったことではなくて、ただただ「そんな気がした」「していた」という類いのものに他なりません。

誰にでも恐らく、なんかイヤな感じがしたとか、胸騒ぎがしたとか、気が進まなかったとかっていう経験があると思います。そういった類いのものなのですけれど、じゃあ、なんでイヤな感じがしたのか、胸騒ぎがしたのか、気が進まなかったのか、ということに神経を向けていくか、いかないか、それによってどんな違いが生まれるか?ということなんかを長きに渡って折に触れ、考えてきたのだろうと思います。

動物は嵐や地震がくることを本能でいち速くキャッチして行動に移すのに、人間はその能力が薄らいでしまったと「台風一過な子どもたち」で書きましたが、今の人間にもこの第六感的な「イヤな感じ」「胸騒ぎ」「気が進まない」といった不思議な感覚は残っているということですよね。

でも、それは「気のせい」とか「勘違い」とかいう言葉で打ち消して、無かったことにしていくことが多いわけです。

本当に気のせい、勘違いということも勿論往々にしてあるのだけれど、じゃあ一体どうして気のせいかと思うようなことを感じたのだろうか?何か私の頭や胸の中を通ったのか?または触れたのか?と考えた時、「何か」が感覚的なアンテナに触れた、かすったのではないか?ということになるのではないかと考えてみます。

じゃあ今度は一体「何」が触れたのか?

それは、どれくらいそれまで経験してきた出来事を1つ1つ丁寧に振り返りをして、反省するところ、改善するところ、その出来事にどんな意味があったのか、どんなメッセージがあるのかなどと考え、他のよく似た系統の出来事でまとめて分類してきているかによって変わります。咄嗟の出来事に対して過去の似た出来事の傾向がフッと記憶から呼び起こされて、それが私たちの感覚に触れるのではないかと思うのです。

この感覚とは、人間の持つ五感。触覚、聴覚、嗅覚、視覚、味覚です。過去の体験をした時に記憶に強く残された感覚が、新しい出来事を経験した時に刺激されるのかもしれません。そして危険な条件が揃っているときには、シグナルとして私たちの感覚に触れ、抑止力となるのでイヤな感じ、胸騒ぎ、気が進まないとなるのではないでしょうか?

ではこの感覚はいつでもどこでもスイッチが入っているかというとそうでもありません。例えば、聴覚では、耳には届いているけれど認識されていないということがあります。定型発達の人はある程度、この音はあまり聞きたくない(例えば交通量の多い車道の音)と思えば、その音が気にならなくなって学習に集中できるということができます。音の取捨選択が可能なわけです。また、チクチクお小言を言われていると、聞こえているけど聞かないふりをしてスルーすることもできます。どちらも実際は耳に音が届いているけど、反応しないように心がけていると実際に意識に上がらなくなるという例です。視覚でも、実際は目に映っているけど意識してみないと見えてないということが起こります。目に映っているのと、意識して見るのとでは大きな違いがあるのです。

感覚も、人間が普段から物事をあまり意識しないようにしていると、それに脳が慣れてきて、機能をセーブしてしまうのだろうなと思っています。いわゆる鈍感になる、麻痺するという状態です。現代社会を生きていく上でこの鈍感力は必要にも思えます。

 

ただ、この鈍感で麻痺した状態が続いてしまったら、本来聞かなければいけないことが聞こえない、見なければならないものが見えない、という少々困った現象も起こってきます。他者のSOSの声が耳に届いているのに意識に上がらない、困っている人が見えているのに意識に上がらない、耳や目には届いているのに意識に上がらなければ当然助けにいくことはできません。そんなSOSがあったこと事態に気づけなくなってしまうのです。

こんな状態になってしまってから、やっぱりどんな些細なSOSの音も映像も見逃さないぞ!と気持ちを新たにしても、一旦麻痺して鈍感になってしまって感覚は急には戻りません。脳が一旦作ってしまった入力ルートを変えるには、脳の可塑性を利用して、それ相応の行動の組み換えをするようにトレーニングし、別ルートを作っていかなければならなくなります。

普段から、他者がどんな状態でいるか、何を考え、どんな気持ちでいるか、何か困っていないか、ということに心を砕き、人の話をよく聞いたり、気持ちを想像したり、相手の心を理解しようと努め、自分の思いも丁寧に伝えようとする、こういうことに気をつけていると自然と感覚は些細なことにも敏感にキャッチできるようになっていきます。ある意味こういう人はコミュニケーション能力が高い人ということになるのでしょうね。自分の五感が感じていることに敏感であるというのは、自分を大切にしているということにもなります。

自分の体の声、心の声、そういった内なる声に耳を傾ける聞いている。自分の内面と対話している人は、周りの人のことも大切にします。

そうなると、自分を大切にしてくれた人、家族、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの思いといったことも受け取れるようになります。実際に今そばで声をかけられていないけど、よくかけられていたシチュエーションになると、耳や心が覚えていて、自然と思い出され声となって聞こえてくるような気がしてくることもあるでしょう。心の第三者がいるということなのでしょうね。実際には話していないけど、心で対話しているのでしょう。

そうやって、感覚を研ぎ澄ましていると今まで気づけなかったことに気づくようになります。キャッチしていなかったことをキャッチできるようになります。これまでの経験から、「これ、危険なんじゃない?」「イヤな感じがする」「胸騒ぎがする」「気が進まないなあ」と感が働くようになるのです。

こういう状態を「第六感が働く」と呼ぶのでしょうね。

ただ、「経験上」という理屈では説明がつかない場合、繰り返し同じシチュエーションでトラブルが起こるなど、気のせいや思いぐせではなく、暗示にかかっているわけでもなく何かそこに1つの法則が絡んでいると感じざるをえない時、それはもしかしたら、天の声、自分を大事にしてくれた今は亡き人の声、何かメッセージが来ているのかも!?と、これも感覚で捉えていきながら、本気で信じるでもなく、でも無視できない、このパターンの時は気を付けるようにしよう、回避しよう、などと自分の内なる声と対話しながら進むことができ、気がつけばトラブルにあまり巻き込まれない、回避できる力を身につけることができるかもしれません。

私は長くこういったことを考えてきたからかもしれないし、言葉を持たないお子さんたちに接する仕事の中で、そのお子さんたちの内なる声をその人の身になって想像するよう努力してきたからかもしれませんが、些細な行動や声や出来事もキャッチしやすいように思います。事故やトラブルなどのリスクをキャッチして、咄嗟に回避する判断ができるように、今日も内なる声を聞きながら感性を研ぎ澄まし、第六感を働かせて過ごします。