きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

「母」という永遠のテーマ。

赤ちゃんは、みんな、お母さんから産まれる。

泣けばお乳がもらえて、また泣けばオムツを替えてくれる。

柔らかくて温かくていい匂いがして、優しい声が聞こえる。

お母さんの体の温かみは、赤ちゃんにとっての全て。

守られているという幸せの記憶。

お母さんから産まれた赤ちゃんたちは、初め、自分とお母さんは一心同体だと思っているだろう。

 

そのうちハイハイしだし、一人座りも出来るようになりだす。この頃もずっとお母さんが見ていてくれていると思っている。

暫くすると、後追いが始まる。少し自分とお母さんとの間に距離があると感じだし、だから余計に常に一緒にいないと不安にかられ、姿が見えないと泣いてしまう。

伝い歩きし、よちよち歩き出せるようになると、それまでの床に近い生活から、一変して視点が高くなり視野が広がる。

お母さんの手から離れて、外の世界へ一歩踏み出す。冒険の始まり。

 

やがて足腰が随分しっかりしてきて、なんでもかんでも、いや!自分でしたい!の魔のイヤイヤ期が来る。自我の芽生え。お母さんと自分が、そろそろもしかして違う人間?と感じだす大切な時頃。

勝手に母の手を振りほどき、歩いて行ってしまうのに、お母さんはいつも自分を見ているだろうか?と母の方を時々振り向き確認している。

満足して顔を上げると、そこには見守っているお母さんがいる。その安心感が、愛情のバケツをいっぱいにすると、子どもは勇気が湧いて、また一歩、母子の世界から足を踏み出して行くのだろう。

 

園では初めて集団の中に入り、今まで一心同体だと思っていたお母さんと離れて過ごすことになる、子どもにとっては大冒険。

揉まれ揉みくちゃにされ、混沌とした時間の中で、やがて眼の前のベールが1枚、また1枚と剥がれていくように、周りのことが分かるようになってゆく。

自分中心だった世界に、他者がいたと気づき出す頃。

おもちゃを取ったり取られたりして相手にも気持ちがあると知る。

叩いたら叩き返されて、人を叩いたら相手も痛いし自分も痛い目に合うと理解する。

 

周りの物の名前やその働き、音や光がどこから来るか?といった様々なことが、もっとわかり出して、理解しだす頃。

世の中の事を凄いスピードで吸収しだしても、まだ心と体は幼くて、電池が切れるまで短期決戦。

お母さんは、相変わらず目まぐるしい生活を送る。子どもたちを迎えに行き、おやつを与え、一緒に遊び、夕方にはご飯を食べさせてお風呂に突入する。このタイミングが上手くいかなければ、床で、ソファで、待ったなしで眠られて、下手をすると途中で起きてしまい夜ふかしで一緒に過すなんてことに。

大変だけれど、母子共に、人生の中で一番幸福な時かもしれない。

 

 

小学生になると、せっかく園で出来上がったサイクルと世界が崩壊し、全く違う成り立ちの世界へとステップアップ。

母子共にわくわく、ドキドキ、緊張が走る。

さあ、ようやく小学生になり、手が離れるのか?と思いきや、帰って来たら、学校からのお手紙や、宿題に翻弄されるお母さん。

宿題の取り組み方、手紙の処理、寝るまでの生活の時間配分に加えて、お友達との放課後の約束の仕方、ママ友との関係作り、PTAのお仕事や習い事への送り迎えと、かえって大忙しとなる。

 

子どもは、2年生頃にやっとしっかりしだして、学校でのことを聞けば少し説明ができるようになる。

下に兄弟がいれば、ずいぶんお兄さん、お姉さんになったように見えるけれども、本人はまだまだ小さく幼い時期。

行動範囲が広がった分だけ、他者との関係の築き方について、一つ一つ教えてあげなければいけない。お母さんはまだまだ大変。

 

3年生になると、それまで屈託がなかった可愛い子たちも、そろそろ、複雑な他者との関係の中に突入する。

感情も枝分かれし始めて、より他者に興味関心を持ち、早い子は、自分と他者のどこが同じでどこが違うかという細かいところに気づき出す。仲間意識が芽生え、系統の違う友達を弾き出すのもこの頃から。

 

3、4年生はギャングエイジ。色んなトラブルを起こして帰ってくるお年ごろ。

 

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