これは、周りの人とのコミュニケーションでもそうですし、障がいを持つ子どもたちに対する考え方でもそうですし、物事全般に置いて感じることです。
何か1つのことについて考えようとする時、対象とするものについて、考えても分からないことは調べ、調べても分からないことは誰かに聞き、それでも分からないことについては、じっくりと思考を深め、必要となる情報や材料を集めたり、コツコツとデータを集めたりして、そのサンプルたちからどういったことが見えてくるのか自分なりの統計を取ったりして、できるだけ解像度を上げていく努力が必要だろうと思います。
そして、そこから分かってきたことを丁寧に言語化する作業に移るのですが、言語化するにあたっては、自分の中だけで完結するのではなくて、一旦、第三者に話してみるというアウトプットが大切になります。
アウトプットしてみたら、なんだか言葉がおかしかったとか、矛盾が生じたとか、思考が甘かったなど、何か指摘してもらえることで、一人では気が付かなかったことに気がつくことができるからです。
「人間は自分ひとりでは存在を規定できず、他者という存在があって初めて自分の輪郭がはっきりする」と説いているのは、「聴くことの力」の著者、鷲田清一さんです。
他者と話したり、ブログのコメントのやり取りをしたり、ラインを交わしたり、そうした些細なやり取りの中で、私たちは自己像というものを掴み、そこから自分の希望する姿へと修正を加えたりしながら、段々と時間をかけて成熟し、自分というものが見えてくるものなのでしょう。
他者とやり取りをすれば、自ずと摩擦も生まれます。誹謗中傷を除く、建設的な否定意見を含め、他者からの意見というものは、その時は受け入れがたくても、いったんポケットに入れておき、時々取り出して考えてみる、ということをしていくと、ある日、その時の意見を言った相手の状況や気持ちに気づくヒントが降りてくることがあります。
その時初めてに、前とは違った感覚、風景を得ることができるのでしょう。
他者の意見というものは、肯定的なものだけでなく、否定かと思えるようなものであっても、自分を成長させてくれるもの。
そう捉えると、気づきを与えてくれた相手というものは貴重であるとも言えるのではないでしょうか。私はそこに感謝しかありません。
一人で考え抜いて、ある結論が出たとします。
その後に、他者から違う意見や見解が出されるとします。
この時、自分が出した結論や、そこに至る過程に拘り、プライドを持つことは大切です。
ただ、他者の違う背景や、角度から見た意見や見解が、自分の出した結論と真っ向から違っていても、それを捨て去る必要はないのです。
違った意見や見解を捨て去り排除して固まったもの、というのは、偏りのあるもの、になる可能性が高くなると私は考えています。
その意見が極論だ、ということではなく、
適度に他の意見を入れることなく更新されず、死守してしまうことで固まる、という現象自体。
それが、
0か100。
右か左。
そういった、両極のどちらか片方に寄ってしまうという意味で、それは偏りが出たもの、になるのではないか。と、これは常に自分に言い聞かせていることでもあります。
その時は受け入れ難いものであっても、一旦取り込み、自分の意見や見解と、どこが同じでどこが違うのか。自分の考えは本当に合っているのか。見直すべきところはないか。もし見直すべきところが見つかった時、それを受け入れ、一つの問いとして検証することはできているか。
その様に、他者の意見と自分の意見との間で、常に行ったり来たりして揺れ、どんどんとより良いものに更新していく余地を残しているかどうか。
そこは非常に大切だなと感じています。
他者の意見を聞く度に揺れて、よく吟味せずにその人の意見に同化するのは、自分の意見や見解が消えてしまうのに近いかもしれません。
そうではなく、自分の意見や見解は持ちながらも、比較検討し、良いものは取り入れ常に更新されること。
「揺れる」ではなく、『揺らぎ』。
それが抜けている人が多いなぁと、窓の外の雨を見ながら思う今日この頃。
私たちも子どもたちと同様、いつも発展途上。
まだまだ意見や見解は変わっていいのです。
