きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

人に伝えるということ。

人に何かを伝えるということほど、難しいことはない、と、つくづく半世紀生きてきて実感している。

 

仕事柄、人と接し、深く相手の心にコンタクトする機会は多い。

きっとそういう人は、世の中にたくさんおられるだろう。

だから、それは多くの人に共通の悩み事の1つだと思う。

 

大切なことを人に伝える時、どんな風に工夫するかは、これまたたくさんの方法があると思う。

誰もが、自分の想いを余すところなく伝えたいし、出来ればみんなにそれを理解して欲しいと願って、試行錯誤をしているだろう。

 

私も、同じように、試行錯誤してきている。その中で、長年葛藤してきたことの1つに、「難しいことを優しく」というものがあった。

「難しいことを優しく」とは、ある著名な作家さんの言葉であると伺っている。

この言葉を教えていただいてから、ずっと、事ある毎に、この言葉は私の頭の中に浮かんできていた。

 

教育や、療育に限らず、人を育成するということは、時間と労力がかかるもの。

人の成長には、ゆっくりとした時間の中で涵養することが大切なのだ。

だけれども、教育や療育といったものは、子ども達の人格形成の一番大切な時期に私たち大人は関わる為に、あまり適当なことはしていられないという現状がある。

先生や指導員は、一刻も早く、子ども達の成長に必要な知識と経験とスキルを身につけてもらわなければならない。

ただ、そのスキルを身につけるには膨大な知識と経験が必要となる。

 

だから、指導者は、初任者や、まだ経験の浅い者たちに、少しでも早く成長してもらいたいと願って、自分たちが習得してきた知識や経験を一生懸命伝授しようとするだろう。

 

一生懸命、伝授しようとすればするほど、実はそれを受ける者には負担がかかり、反発を呼ぶ。

 

反発を起こしてしまったら、もうその耳は閉じられてしまい、聞く耳は持たない。馬の耳に念仏。馬耳東風。

 

でも子どもたちは待ってはくれない。

でも先生たちは、今日耳日曜状態。

ベテランの域の者が言うことは、経験の浅い者にとっては難しすぎて、例え聞いていても、理解にはなかなか入りにくいものだから、困った指導者は、この「難しいことを優しく」ということを模索する。

 

初めての人が聞いても分かるくらいに、噛み砕いた内容で、それを選りすぐりの少ない語彙で、簡潔にまとめなければならない。

一発で、「あ〜ぁ、なるほど。そういうことかぁ」「わかったぞ」と、思わせられたら、こんなに両者にとって良いことはないだろうと思う。

 

ところが。

私はこの「難しいことを優しく」もまた、これほど難しいことはないのでは?と思うのだ。いや、長年思ってきた。

なぜなら、「難しいことは優しく」するには、本当は伝えたい大切な情報を、殆どカットし、削ぎ落とさなければならないから。

そして、こちらにもかなりの語彙力が要求されるから。

更に、その削ぎ落とした部分は、本来なら、どうしてそういう考えに至ったか、という説明であり、そここそ、伝えなければならない部分だからだ。

 

 

私が携わっていた療育は、大きな困難を抱えて、生きていく希望さえ見失いかけたご両親や子どもたちに関わる仕事で、本来は未経験の人が軽い気持ちで入ってはいけない世界だと思っている。

私たちの対応が不味かったせいで、本当なら療育に来たことで、穏やかに過ごせるようにならなければならないのに、逆に、子どもがパニックを起こした影響で、自宅に帰ってからご両親に大変な苦労をかけてしまうことになり迷惑をかけてしまっては元も子もない。

だが現実には、経験者は少なく、未経験から入る指導員の方が実際は多い。

覚えておかなければならない情報は日々山ほどあるし、特性の理解やその日の様子などから即座に適した対応を選べるようになるには、恐らく10年はかかると私は考えている。

人一人が10年かけて習得するものを、仕事に就いたその日から、求められるのが療育の世界。

 

だから、本当なら、その削ぎ落としたところこそが大切な情報で、眼の前の子どもにどの方法で接するかの判断材料となる部分だから、私としては、そこを削り落として「優しく」することに、ずっと葛藤をしつづけていた。

 

「優しく」してみたことも勿論あった。

涵養することを心に決め、指導者の先生達が自分で気づき、自分で考えるのを忍忍で待っていた時期。最低限の言葉に要約し、あとは我慢。

 

情報が急に減り、先生たちは楽になっただろう。要約された端的な言葉を聞き、「そういうことか!わかった!」と、ある意味モチベーションも上がる。

 

なのに、結果には繋がらなかった。

どうしてか?

 

「わかった!」と各々が思っていたことが、正しい理解に繋がっていなかったからだった。

人それぞれ、理解する力には違いがあるからだった。

少ない情報から、発信者の意図を見つけ出して、理解するには、それ相応の力がいる。理解できたつもりでも、全然的外れだったり、チームのメンバーそれぞれが違った理解で動いてまとまりがなくなることも出てきた。

 

これでは、余計にトラブルが多発してしまう。

 

だから、私はやっぱり、どうしてそういう考え方をするのか、なぜ、その方法に至ったか、という思考の道筋を詳しく伝えるという方法に戻り、そのスタイルを貫くこととなった。

 

馬の耳になっている人には、個別で再度しっかり伝える。

反発を受けるのは管理職の宿命だから、そんなことには囚われない。

きっといつか理解されると指導員の先生方の人間性を信じ続けた。

 

結果から言うと、くる日もくる日も、思考の道筋を聞き続けた指導員の先生たちは、私の話が体に染み渡り、一人一人が療育者として目覚め、独り立ちし始めた。

訳あって、違う場所へ移っていった者も、「コンコンと教わったことが今になり役立っていると実感している」と、次々と報告しにきてくれるようになった。

 

5年で、巻いた種が実ったのだった。

 

今になって思うのは、まずは難しいことを優しく話すことは、話を聞いてもらうためにはいいけれど、選びぬかれた精鋭の言葉に込められた、発信者の意図や想い、その言葉の意味を、その短い言葉だけで理解するには、かなりの思考力と読解力が必要だということだ。

 

発信者も強者なら、読み解く者も、強者でなければ、難しいことを優しく書いた一文から、正しく理解することはできない。