先日、私の元へ、勤めていた療育施設の指導員の先生たちがやって来た。
先生たちは日々子どもたちへの対応を自分たちで考え、試行錯誤している様子。
私の元で切磋琢磨してきた先生たちは、まだまだ荒削りだけれども、しっかりと療育者としての倫理観や人権感覚を身につけ、「療育がしたい、ちゃんとした療育を学びたい」と、いつの間にか志高く成長している。
それでもやはり、療育というものは奥が深く、少し慣れたからといってできるようなことでは全くないのが実情。
障がいを持ったお子さんたちと接する毎日は、アウトプットの連続だし、とにかくその展開の速さに更に一歩先をいく判断や動きをしなければならないので困難を極める。毎日精神的にも肉体的にも極限に追い詰められ、すり減るばかりだから、常に勉強してインプットしておかなければ後手に回り、あっという間に室内は無秩序で荒れ放題となってしまう。
それがどんな状態かは障がいを持つお子さんを育てておられるお母さん、お父さん方なら、容易に想像されるに違いない。
お母さん、お父さんに至っては、お子さんがお生まれになってからずっと、1日中片時も目を離さずに大事に守って育ててこられ、いつも頭が下がる思いでいる。
私たち療育に携わる者は、そんなご両親の少しでもお役に立ちご負担を軽減できるよう、そして困難さを持ち困っているお子さんたちが自分が思ったように体を動かすことができ、他者と意志の疎通を計る楽しみを知り、将来自分の意思で少しでも選択しながら生活することができるよう、たゆまず研鑽をしていく必要がある。
そこで、やはり研修が必要か!ということで、大抵の人は会社の研修をあてにするだろう。昨今は、療育施設にも「月に何回」と研修をすることが国から課せられている。私から見れば、この頃の研修動画などは良くできているし、どこかの大学教授のお話を聞かせていただく機会などもあり、至れり尽くせりのように思う。私が療育を目指していた時は、まだ障がい特性や対応方法に詳しい人など、周りにはほぼいなかった。情報がなく、少ない本を頼りに自分の行動を精査しやってきた。
ところが、この研修というものは、「考え方」は教えてくれても、個人にあった「具体的、効果的で即効性のある方法」というものは教えてくれない。
療育というものは、一人一人にあった言わばオーダーメードのようなもの。関わる人みんながチームの一員として、知恵を出し合いより良い方法を作り出していかなければならないからだ。
と、いうのは簡単だが、実際は豊富な知識と経験、高度なスキル、強靭な精神力、そして障がいを持った人やそのご家族を思う心と熱意を持った人はそうそういない。
いくら話し合っても、次の一手が決まらない、といったことの方が多い。
私は兼ねてから、指導員の先生方に「勉強してください」「勉強が必要だ」と伝えてきた。定期的にどんなふうに行動に移したか皆んなで発信し合う機会を作ってきたけれど、それでもほぼ「していない」に近い状態が続いていた。疲れて帰宅するのだから、無理もない。
その代わり、申し送りと振り返りの時間を使い、プチ研修として毎日大切なことを伝えてきていたので、本気なら、既にかなり高スキルの療育者が一人は出現していても良い頃のはず・・・。が、どうしても、人は受け身になりがち。
崖っぷち、本当に窮地に立たないと、お尻に火が点かないものなのかもしれない。
ところが、私が管理職を退いたことで切羽詰まった人が出て来た。
ここに来て、私から学んだことが頭の中をぐるぐる回り出している様子。
子どもたちへの対応が上手くいかない時は、私がいたらどうするだろう?私だったら何というだろう?とみんなで相談しているという。
だったら、勉強会に来ませんか?と声をかけておいた。費用は格安にしておきますよと。本当なら無料にしてあげたいところだったが、考えがあって最低限の金額だけれどもわざと費用を提示しておいた。
私だったら、喜んでお願いするだろう。声をかけてくれなくても、こちらからガンガン教えてもらいに行くだろう。実際、そうして来ている。そして、一度聞いたことは忘れない。
さあ、指導員の先生たちはどうするかな?と暫く返事を待つことにした。
何せ、先生たちは常勤や非常勤、主婦もいる。忙しい中時間を合わせることだけでも難しい。これ以上ないと言うほど格安の費用でも、主婦ならご主人の許可がいるかもしれないし、給料をもらうために働きに行っているのに、なぜ逆に仕事のためにお金を払わなければならないのか?と引っかかる人もいるだろう。会社がもっと自分たちが望む内容を教えてくれる研修をしてくれればお金を払わなくてもいいのに。などなど、人それぞれ、沸く気持ちがあるかもしれない。
その気持ちも理解できる。
ただ、会社が研修をしてくれるのを、またもや受け身で待っていても、思うような効果は得られない。会社が人材育成にどんどん投資してくれるようなところならいいけれど、実際は「仕事をしてもらうにあたって、最低限これくらいは知っておいてくださいよ」という程度の研修しかしてくれないところの方が多いのではないだろうか。
最近は、お給料ももらうし、それに必要な情報や知識までも会社からもらって当たり前と思っている人がいるが、そもそもは、お給料をもらえるだけの働きをするからこそ、それに見合った対価を給料としてもらえるのだ、というところを理解していない人が多いなあと感じている。
ましてや、療育という世界では下手をすると可愛い子どものお世話をするだけ、と思ってこの世界に入る人もいたり、ただ決められたスケジュールをこなし、子どもたちを帰すことの繰り返しになっているところもあるようで、それで満足している人も多く、自分でどんどん本を読んだり、外部の研修やセミナーを受けに行く、といった土壌にないように思っていた。
だからこそ、なんとか私の元で働いてくれていた先生たちに、最低限の金額でもいいから、自分でお金を払い勉強に行く、という「学びの姿勢」に入って欲しかったのだ。
紆余曲折していたが、少し私からもアドバイスを入れて、やっと「勉強会に行こう」と重い腰を上げてくれることとなった。
当日、目覚めた先生が数人、私のところにやってきて、午後13時から18時まで、5時間ぶっ通しで日々子どもたちと向き合う中での悩みや上手くいかないところについて質問が飛び、私のアドバイスを聞き漏らすまいと熱心に耳を傾け、ノートに記録していった。途中、しんどい〜というので、休憩しようと言ったが、時間がもったいなかったようで、休憩する人はいなかった。
まだまだ話は尽きなかったが、もう外が暗くなりお開きとなった。
参加者は、高揚した表情で、満足いった様子だった。思い悩んでいたことに解決策が分かると、一筋の光が差したように気持ちが晴れるのだろう。しかし、学んだことを忘れずに持ち帰り、明日から即実践だ!と、引き締まった表情にもなっていた。
更に私がこれまで出逢い、読んで学んできた本が並ぶ本棚を公開し、どれでも借りて読んでいいとしたところ、何冊か借りていた。
本屋で大量の本を前にどれから読んでいいか分からず、結局何も買わずに時が過ぎるよりも、実際に指導者が選び読んできたものを読んでみた方が早道なこともある。それに、いつも聞かされている内容がどこから来たものなのか探すこともでき、宝探しをするようなものだ。私は、人の歴史を知ることが大好きだから、「この人はどうやって今この立ち位置に立っているのだろう?」と強い関心が出たメンターたちの読んだ本や辿ってきた歴史を聞くのが好きだから、今こうやって、私が読んできたものを他の人が関心を持って読んでくれることは無上の喜びだ。
そして「これでその料金でいいのか!という充実すぎる内容だった」と喜んで帰っていってくれた。
本来、療育は、話しても話しても話し足りないほど、奥深く面白いものだ。苦労して関わったことにより、子どもたちの言葉が増えた!ジャンプできなかったのができた!友達と喧嘩せずに遊べるようになった!と子どもたちの姿に変化が起き、成長に繋がることほど嬉しいことはない。それまでの過酷なまでの日々の苦労が報われ、それが本来唯一の私たちへのご褒美となる。そういう仲間が増えてくれるのはとても嬉しいことだ。
次の日の夕方、勉強会に来た先生からメッセージが入った。
早速、習った通りに実践したところ、あるお子さんと膠着状態だったのが解け、良い方向へ動き出した、という嬉しい報告だった。手応えを感じた出来事になっただろう。
「また、勉強会に行かせてください!」とのことだった。
ようこそ。「自主的な学びの世界」へ。