きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

人生の荒波を乗り越える力、他力本願。〜再掲、感性を研ぎ澄ます。

春の嵐は例年よりも激しく、吹き荒れてサッと去っていきました。

 

今朝の関西は、何事もなかったかのように穏やかに晴れています。

昨日は目まぐるしく空模様が変わり、晴れたと思ったら雨が降り、また晴れたかと思ったら、雪が降り、の繰り返しで、翻弄されました。

春分の日でもあり、お出かけの予定があった方たちは、大変苦労されたことでしょうね。私は幸いに予定がなかったのと、あまりの空の移り変わりに、これはあまり出ない方が得策と、最小限の買い物に車で出るだけに留めました。

 

夕刻、お出かけから帰ってこられた方達なのか、それとも今まで家で待機していた方達が一斉に出られたのか分かりませんが、周辺道路はショッピングモールに入ろうとする車で大渋滞でした。

天候によって、人々が翻弄され右往左往する姿を見ていて、これって人生に似てるなと思いました。

 

私たちの頭上には、私たちの力では抗うことの出来ない大きな力が流れている、と私は考えています。

ちっぽけな存在の私たちは、日々の生活を送ることに一生懸命で、ともすれば手元ばかりに気を取られ、身の周りをコントロールすることに注力しがちですが、そんな頑張りも、頭上を流れる大きな力に吹き飛ばされれば、ひとたまりもありません。

少しでも予測して備えることができれば、それは不測の事態とはならずに、甘んじてその流れに乗っかり、軽い痛手で済んだ、もしくはその流れを最大限に活かして、上手く着地することだってできるかもしれません。

 

そんな風なお話を、ついさきほど、はてなブロガーの なおさんと、コメント上でお話した際に、どうすればその大きな流れ、変化の兆しをキャッチできるようになるか?というご質問をいただいたので、この場を借りて、お返事できたらなと思いますが、丁度、過去に、そのことについて書いた記事がありましたので、そちらを参考までに再掲させていただきます。

 

 

kiramekituzuri.hatenablog.jp

 

親鸞の教えに「他力本願」という言葉があるそうです。これは「人任せ」という意味ではありません。他力というのは阿弥陀仏が一切の人を救おうとして立てた願い、本願の力のことで、昔の人々はこの阿弥陀仏の本願に縋って極楽往生しようとしたのでしょう。他力とは自力と正反対の一番遠いものになります。

作家の五木寛之さんは、その著書「他力」や「他力と自力」の中で、この親鸞の「他力本願」という言葉を、自分で考え、決めて生きているように思っても、それすら大きな流れの中で動かされている、というように解釈され言っておられます。大きな流れの中で生きるということは、自分だけの利益、自分だけの功績というような内側だけに囚われるのではなく、自分の外側の一切に向けて働きかけ、その幸せを願う、といった何か大きな役割の中に置かれた自分を感じながら生きる、ということではないかと思うのです。

 

私のこれまでの人生は、穏やかだったかというと、逆に大波小波の波乱万丈だったと周りの友人たちも口を揃えていうくらいで、その中で私に余裕があったから上手く対処をしてきたのかというと、全くそういう訳でもなかったなあと振り返れば思うのです。

どちらかというと成長と共にますます流れが速くなる激流の中で、余裕がないからこそ、どう自分を変化させ、対応するか?ということに焦点を当て、動いてきたのだろうと思います。そして、それすら、私が私の力だけでそうしてきたかというとそうではなかった、というように感じています。

 

子どもの頃から、私は、

一体私は何の力によって、どこに運ばれていくのか?

一体どういう意味があってこういう経験をするのか?

 

と考えながら過ごしてきました。

 

人生の荒波を、如何に生きるか。

これはおそらく皆んなが問い続けているテーマではないでしょうか。

 

大きな波に抗わず、逆にその波に上手く乗ることでより良く生きていくには、

一旦胸の中の感情の嵐を脇に置き、「やるべき事」に意識を向けて、如何に行動に移るかがコツなのかもしれません。

 

 

足元を見ていた視線を上げて、遠く上空からやってくる大きな雲を眺める。

そこから始めてみませんか?

 

 

これからやってくる流れは果たして暗雲か?それとも晴朗か?

 

「これは来るな」と思えたら、シメたもの。