きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

ロック好きの原点はもしや?

今日、仕事に向かう車内で、珍しくTHE ALFEEを聴いた。メリーアンと星空のディスタンスだ。

 

年末大晦日。紅白にTHE ALFEEが出ていて、超久しぶりに星空のディスタンスを聴いたからだ。

高見沢さんは堂本兄弟にも出ていたし、ところどころテレビで見かけるけれど、3人揃っての出演、演奏、歌唱を観るのはとても久しぶりだった。

桜井さんは少ししゃがれてはいたけれど、圧巻のええ声〜の歌声〜だった。キレがあるしね。

B’zの稲葉さんだって60歳、松本さんは63歳になってもあのパワーでびっくりするけど、桜井さんは69歳、坂崎さんと高見沢さんは70歳だって?それであのド派手なエレキを弾いてるんだよ?高見沢さん。凄すぎない?

それで、1つ気づいたんだけど、昔は高見沢さんってもしかして音痴?(ごめんなさい)と思うほどに声質がキンキンしていて3人のハモリから飛び出しているように聴こえることがあったけど、年月を越えて、なんだか他のお二人の声に丁度良く調和するようになったんじゃない?ややマイルドになったのかしら?

 

メリーアンと星空のディスタンスが流行ったのは、私が6年生か中学1年生の頃だった。

どうしてだか、星空のディスタンスを聴くと中1の時に通っていた中学校がセットで今でも思い出される。

別にTHE ALFEEのファンでもないけど、あの2曲はとてもいい曲だから、いつ聴いても褪せない。

メリーアンは不思議な世界観の曲だよね。

星空のディスタンスはあの頃の曲にしてはロックでしょう。イントロからしてテンション上がる。ところで中1の私が疑問に思っていたことがある。

 

どうして、あの星空のディスタンスでは、500マイルと言うのだろう?

500マイルって何キロだよ?

どうして804.672キロメートル、とは言わなかったのか?

どうせなら500キロメートルとか?

どうしてマイルにしたんだろうなぁ?

って。

 

そんなことを思い出していたら、急に久々に聴いてみたくなったのだけれど、聴いて驚いたことがある。

それは演奏。

これ本当に40年前の?というくらい、とても凝っていて、カッコ良い!

こんな風にフルでしっかり聴いたことがなかったからかもしれないが、こんなに凄かったっけ?と新鮮な驚きを感じた。

高見沢さん、やるなぁと密かに株急上昇。

そして桜井さんの発音の仕方がこの歌に凄くマッチしてるのだけど、お若いころの方がダントツ声に奥行きがあっていい!

なんだか見直しちゃったなぁ、、、と新発見をした気分でいい気持ちになって仕事についたのだった。

 

帰り道、ちょっと待てよ?そういえば、それ以外の曲ってあまり聴いたことなくない?なんて思い、ちょっと調べてたまたま出た曲。

Justice For True Love。

高見沢さんがメインボーカルだね。そんなの私は初めて聴いたなぁ。意外といいよ。いい。

(と、昨日は思ったんだけど、あれ?やっぱり桜井さんなのかな?)

そこでまた思ったんだけも、なんかね世界観が良いの。ファンタジーっぽさ?上手く表現できないけれど、おとぎ話っぽさがあるというか。

でもよく記憶を辿ってみれば、恋人たちのペイヴメントもテレビでよく聴いた覚えがあった。

 

私のよく聴く音楽は、ロック系が多いけど、もしかしたら原点は、高見沢さんのエレキ?THE ALFEEの演奏なんだったりして?

 

えええ?

 

 

 

あの日の幸運。

今の家に引っ越してもうすぐ2年が来ようとしている。

私はこの家に決まった時、

「2年だな」

とまた予感のような確信のようなものがピン!と脳内を過っていた。

それはこの家が私たちにとってはやや家賃が高いことから来ていた。

阪神大震災経験者の私としては、ハザードマップの地盤と津波浸水域は常に気にかかるところで、仕事場を決める時も、ある一線から南には決めないと決めているくらい気にしている。

でもその家はハザードマップ上でも真っ赤な地域の中に立っていた。もし、津波がきたら5メートルの浸水が予想される場所だ。ただ、割と高層階というところが唯一の安心材料(いや、それは気休めですって)。

 

そういった家賃と立地の不安材料があり、私は反対していたが、反面、息子や娘、そして母と同居する可能性もあったので、広い家が必要だった。

そして川が近くにあることが大いに夫の気に入るところとなり、結局この家に決まった。

 

人は、想いが他者によって遂げられなかった時、後悔し未練が残る。

でも1度達成した後、自分自身で振り返り、違う道を選ぶ決断が出来た時には納得がいくものだ。

だから、私は不安材料があったけれど、一旦この決定にのって、行方を黙って見守ろうと決め引っ越してきたのだった。

 

それが運命なのかどうかは分からないけれど、そろそろ2年が来るな、と思っていたところ、あれよあれよと流れが「転居」の方面へと動きだした。

息子と世帯を分ける可能性が出てきて、それならこの広い家の必要性が無くなることが大きかった。

娘も自立した。母も今すぐどうなるということでもなさそうだ。

夫の気持ちも踏ん切りがつき、「引っ越しを考える」と言い出した。

そこで初めて「実は元々2年だと思っていた」と打ち明けたのだった。

 

 

息子の引っ越し先もまだ決まっていないので今すぐという訳にはいかないけれど、もう、夫の気持ちはまだ見ぬ未来の新しい家へと動いている。

まずは住みやすい地域を探そうと、候補地をウロウロしてみることにして、この(日)(月)とあっちこっちと行ってきた。

今日は宝塚方面へ。

逆瀬川から甲山の方面へと上っていくエリアは魅力的だ。私は低学年〜23歳までずっとこの宝塚、西宮界隈で育っているから、このエリアに来ただけでホッとする。

夫は自然が大好きなので、そうなると山に近づき、必然的に見晴らしは絶景になる。

絶景は、私の中でも優先順位が高いけど、それだとどうしても駅から遠く不便にはなるなぁとか何とか言いながら、もう夕暮れで、暗くなってきたので帰ろうか、ということになった時、ふと、以前住んでいた小林の家が近いことを思い出した。

23の頃。母は再婚相手の元へ行き、その家には私と妹たちだけが住んでいる状態だった。

長く住んだ門戸厄神から引っ越す時に、母からは家賃の安さから塚口方面の二戸一の住宅に行きたいと言われていたが、猛烈に反対して小林のその家を強硬に選択したのだった。

母にとってはギリギリの選択だったかもしれず、後になって母の立場も理解できるようになり、わがままを言ったものだと気にしていたこともあった。

 

そうこうして小林に移ってやく2年。

1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こった。

 

揺れが収まり慌てて外に出て驚いた。

周りの一戸建てが全て斜めに将棋倒しになり、玄関が菱形になっていたのだ。

私が住んでいたハイツが潰れているならわかるけれど、逆にしっかり立っていて一部損壊に留まっていた。

引っ越してくる時に母が「ここのオーナーしっかりしてる人みたい。建物は鉄筋やな」と言っていたことを覚えている。

2階建ての1階に住んでいたので、もしこのハイツが木造だったら、崩れた2階に押し潰されていたことだろう。

門戸厄神で住んでいた家は、周囲の家々と同様に跡形も無く潰れ、みんな生き埋めになり大変な思いをされたと聞く。実際、その後に見に行った時にはきれいさっぱり更地になっていた。

恐らく塚口の二戸一も無事ではなかっただろうと思う。

母から言われたあの日、白い壁で二戸一よりはしっかりしていそうな建物に惹かれ、小林の家を選んだことが幸運だったと今でも思っている。

 

 

今日は結局、30年前に住んでいた、その家に辿りつくことは出来なかった。

夜ご飯を食べながら、それでも気になり、グーグルマップで、消えかけている記憶を遡り、探してみた。

震災で建物は軒並み変わり、なかなか見つけることが出来ない。住所も分からない。

ところが、マップを大きくしたり小さくしたりしている内に、何だか気になる地点が現れだした。

心当たりのある地名も出てきた。

誘導されるように道を辿っていく。

 

その時、辿る指が止まった。

遠い記憶が、

「これだ!」

といっている。

 

見覚えのある壁。

マップは丁度正面で止まってくれず、どうしても先に進むと行き過ぎてしまうのでよく見えないが間違いない。

あの日、私たちが住んでいた建物だ。

内壁は、向こうの部屋が透けて見えるほど柱と土壁の間が空いてしまい、外壁の角は亀裂が入り、住み続けることは不安で離れたその建物は、30年経った今も震災なんてなかったかのようにそこに建ち、綺麗に外壁も手入れされているようだ。

 

染み染み、あの日、私たちはこの家に守られたんだなぁと思い、スマホのマップの中で立っているその家に感謝のような気持ちが沸いた。

 

災害に合う時、軽い家がいいのかどっしりした家がいいのか、鉄筋が良いのか鉄骨がいいのか、海辺がいいのか山側がいいのか、1階や2階がいいのかもっと上層階がいいのか、本当にどこを選ぶかで生死が分かれる。

 

ただ、私は阪神淡路大震災の経験から、例え賃貸でも、几帳面でしっかりした家主さんが建てた建物かどうかが明暗を分けるな、と感じている。

 

 

きたぁ〜!

新しいお仕事は、色んな意味で大変疲れた。

1つは運動療育だということ。週一で、市の幼児(2、3〜4歳児)親子体操教室の講師をしていて、これがめちゃくちゃハードなのだけれど、この疲れと、運動療育の疲れとはまた別で、療育の場合、年少〜年長の未就学児とはいえ、動きが速く右往左往するのでケンカやトラブルの仲介や、ケガを防ぐ為に動くことが大幅に増えることが主な理由。その上一人一人の動きに合わせて指示、誘導、プロンプト(介入)を入れるので大忙しだ。でもそれが醍醐味。

だから慣れているのだけれど、自分の教室ではないというところが神経を大きくすり減らす要因だろう。

運動療育は危険と隣合わせ。器具を使う時には注意事項がたくさんある。慣れていても気は抜けないが、慣れていない方が今後子どもたちを指導していくことを思えば、中途半端なことは言えない。だから、しっかり人員配置と環境調整、そして動き方を伝えるが、出来て間がない教室、これまで運動療育の経験がない教室の方々だから、なぜそこまで手厚くするのか理解していただくまでに時間がかかる。精神的な摩擦も起きる。

ま、そういうものなのだ。療育、支援の世界というものは。

先方の理念や思いに添いながら、やがて来るであろう試練を見越して、根気強くお伝えしていこう。そして子どもたちにどのようにして掛け合っていくか、身を持って知らせていこう。と、まだ始まったばかりの案件に、そして久しぶりの主導に少し疲れたのだった。

でもでも、やっぱりここでも嬉しいことがあった。

何度も書くように、私は今親子体操教室の他に、市内で長年開催されている障がい児を持つ親子が主体の運動の会にもボランティアとして介助で参観している。

そこに、まだ未就学の可愛い男の子が来ていた。

何度か一緒になり、みんなが踊っている間をコロコロと転がるように駆け回るその子をホールドし、見るべき先生の方へと視線を移せるよう誘導した。そして後ろから軽く手を持ち一緒に踊る。他の方が同じようにしようとした時にはすり抜けて行ってしまったが、私との時には逃げずに留まり最後まで誘導され続けていた。決して運動が嫌いではないお子さんだな、と感じた。皆がみている指示者の方を見ることができない、共同注視の力が弱い為に、今何をすべきか、どんな風に踊るのかなどに気付くことができないだけなのだ。だから、優しくホールドし、視線を定めてあげると、何となくやることが分かり、その後は身を委ねてくれる。それをせずにいきなり捕まえて手を握り一緒に踊ろうとしても、びっくりして反発するだけで上手くいかないということを知っている人は意外と少ない。

その子は私が関わってきた意図を感じたのだろう。一緒に踊ると上手くいった!という実感も得たようだ。

踊りが終わってまたどこかへと走り去っていったが、暫くしてどこからともなく駆け寄り、私の手前をカーブして去り際に、こちらをチラリと振り返って見ていった。

視線が合いにくいお子さんだが、その瞬間彼の目はバチリ!と私の目と合った。それは意識して私を見たことを物語っていた。

「あ、今、私は認識されたな」

と分かった瞬間だった。

関わりが上手くハマり、普段はコンタクトを取るのが難しいとされるお子さんの中に認識される瞬間。

この瞬間もまた私の心に煌めきをもたらしてくれた。

この一ヶ月ほど、その煌めきで私はほくほくとした気分で過ごした。

 

新しいお仕事で行かせていただく教室には、何度か打ち合わせで足を運んでいるが、子どもたちがいたのは1度だけ。他にどんなお子さんがおられるのかは情報をいただいていなかった。

段々日にちが近づいてくる中、ある日他愛もないことをしていて急にピン!と予感が横切っていった。

「来る」

そっか、同じ市内だもんな。そしてあの子は恐らく未就学児。先日の男の子について私は何の情報も持ち合わせていなかったけど、その時不思議と

「あの子、来るな、きっと」

と思ったのだ。

答え合わせはしない方が面白い。当日まで誰にも聞かないで、楽しみに置いておいた。

当日は運動の時間の直前に伺うことになっていた。

ピンポ〜ン。チャイムを鳴らして入る。

まだおやつの時間みたいだ。辺りを見渡す。

ほら!いた!!!

 

私の勘はよく当たる。どんな勘かというと、私とご縁のある予感がするお子さんとの出逢いをキャッチする勘だ。

 

これまでに深いご縁をいただいたお子さんたちもそうして出逢ってきた。

メンターとして私を導いてくれた2人とは12年の付き合いだった。そこへこのブログでも登場した「愛され王子」が加わった。奇遇にもこの愛され王子は先のメンターの2人と支援学校に通う通学バスの乗り込む場所が同じだった。その事実を知った時も「きたぁ!」と思った。そして6年目になる今もその王子とは家族ぐるみの深いご縁で繋がり毎月私の持つ会でお会いしている。

さあ、今回の男の子とは今後どんな関係性に発展するだろうか。

きたぁ〜!というのは、その子がその教室にきたという意味だけではなく、

ご縁が

「きたぁ〜!」

である。

 

楽しみがまた1つ増えた。

 

 

 

何事も準備が9割。

さてと。

昨日7日は夕方近くから美容院へ行ってきました。

明日から、新しいお仕事が開始なんです。

新しいお仕事も、未就学児たちがいっぱいなので、色々綺麗にしておかないとね。

若いお姉ちゃんがいい!って泣かれてもいけませんから(笑)

 

といっても、そんな風に泣かれたことは今まで無く、懐かれますが、これからは分かりませんよね〜(怖)

ということで、こちらの準備は万端。本日の出逢いが楽しみです。

 

何事も大切なのは準備だそうです。

成功する要因の9割は準備だということ。

準備さえ、しっかり出来ていれば、あとは当日の流れに乗って、自在に柔軟にアレンジすればいいだけ。

この教えを結構忠実に守ってきました。

 

 

ところで、先方の事業所さんの先生方に、運動療育に使う小物を製作して欲しいとお願いしたのですが、まだ出来上がっていないと連絡が来ました。

 

まずは、入らせていただく事業所さんが、どの様な仕事の進め方、連携力を持っておられるか、初めは様子を見ています。

そうやって課題を抽出しながら、職員の皆さんが力をつけていけるようにアドバイスしていきます。

 

期日に間に合うように、依頼者の意向を考えたり聞いたりしながらどう連携して、スケジュールを組んで製作するか、担当者同士で進行状況をすり合わせ協力するために横の関係も大事なことなどなど、集団療育をする為に必要なことの諸々の指導•育成もこれから取り組んでいきますよ〜。

 

準備が9割。

この言葉も次の後継者の方々に、伝授していこう。

 

 

(生瀬の皇太神社)

 

※未就園児ではなく未就学児童でした。

訂正しております。

 

 

 

 

 

歩く歩く歩く②

4日は少し足を伸ばしてどこか正月休みらしいことができたらいいなぁと考えていた。

 

「いつも忙しくしている夫が行きたいところ」

それが、出かけることにかけては欲の無い私の今回の行きたいところなのだけれど、夫が見つけた行先は、JR福知山線廃線敷をハイキングがてら歩く、というものだった。

 

夫は東海地方出身で関西に来て約7年なのに、私が知らないところもよく知っていて、この廃線敷にはすでに2回ほど行ったことがあるらしい。

私はというと、実は小学生のころの数年、出発点の駅から歩いてすぐの学校に通っていたことがある。が、廃線敷を歩いたことは無い。

なぜ無いか?

一つには、生瀬駅武田尾駅区間が現在の新線に切り替えられたのが1986年。私がその地域に住んでいたころはまだ国鉄時代で廃線されておらず、旧線を赤いディーゼル機関車が走っていたから。

私は生瀬大橋の麓、惣川地区に住んでいた。すぐ横に線路があり、生瀬に向かって宝塚から走る赤いディーゼル機関車が、長く連なる貨車を引いて走っていた。

物干し竿は、いつも拭かないと黒く煤けると母がよく言っていたのを思い出すのだが、この頃もまだこの機関車からは煙と煤が出ていたのだろうか。

私はその赤いディーゼル機関車を見ては後に続く貨車の数を数えて遊んでいた。

 

もう一つの理由としては、引っ越してからというもの、生瀬方面に行く機会が長くなかったからだろう。

 

無人生瀬駅自体、私は朧げにしか覚えていなかった。

が、生瀬は私の大好きな思い出がたくさんある場所でもある。わくわくした気持ちも大いにあった。

その反面、同じくらい大きな不安がよぎっていた。

なぜなら、廃線敷には計6つのトンネルがあるからだ。

319m、413m、149m、306m、147m、91m。

一つ一つが結構長い。そして、まったくの明かりなし。

懐中電灯が無いなら行かないほうがいい、と行った人の記事にも書いてある。

真夏ならまだしも、正月から肝試し?

私は怖いのが苦手だ。

それが私のテンションがだだ下がりの理由。

しかもすでに13時を過ぎている。

今から行ってもスタート地点から片道4、7㎞。時間にして3時間弱。下手をすれば夕暮れに差し掛かる。

夫は気軽にトンネルもスマホのライトできっと大丈夫だよ~♪と言っている。

 

そんな訳ないよっ!

私には悲壮感しかない。

夫を説得して生瀬駅前のミニコープで懐中電灯を一つ買った。

これでまず一安心。あとは野となれ山となれ。

 

さぁて。

どんより雲が近づいてくるけど、行くとするかっ(笑)

この地図が頼りです。

国道を外れ、寂しい道を行くのは勇気がいるけど、一歩足を踏み入れれば絶景で、すぐに来て良かった!!と思えた。

寒くて曇り空の正月4日目だけど、意外と若い女性同士や恋人同士も来ていて、そうなんだあと一安心。

 

ここで気づくのが、この辺りは岩山なんだな、ということ

白い肌の岩がやたらと転がっている。

 

岩、機関車、貨物列車、空き地、、、

ここで一つ、記憶にずっと残っていることに説明のつくことが分かった。

 

私がこの地域に住んでいたころ、英語に習字にそろばんにと習い事を掛け持ちしていた。そろばんなどは週に2日。今では珍しくもないことだろうが、あの頃の私は嫌で仕方がなかった。英語とそろばんが重なっている日などは、親に内緒でそろばんはサボって、その後の英語だけ行っていた時期があった。

その時決まって友達と二人遊んでいた場所がある。

前もって言っておきますが、私たちは昭和ガール。

遊んでいたのは今のJR宝塚駅から国道沿いに生瀬方面にやや進んだ辺り。今では建物がびっしり立っているが、昔は大きな空き地が広がっていて、フェンスに囲まれたその中にはたくさんの大きな大きな岩がごろごろと無造作に置かれ、積まれていて、私たちはそのフェンスの開いているところから入り、岩から岩へ、飛び回りながら遊んでいた。

時には人形なんかも持ち寄って、岩場の隙間を家にして人形ごっこまでしていた。

秋にはフェンスに蓑虫がたくさんぶら下がり、その蓑を剥いては中にいる可愛い黒い芋虫さんと戯れていた。

 

なぜあの場所に、あれだけ多くの岩が置かれていたのか。長年(42年)の謎だった。

 

これは帰ってから知ったことだが、生瀬大橋辺りには砕石場があり、奥の山を切り崩して、あの貨物車で運んでいたのだそうな。私が住んでいた辺りに今は無いが惣川駅という名の駅があり、それは貨物専用駅として設置された駅だったようだ。山陽新幹線工事にも大量の砕石が運び出されたらしい。

私が遊んでいた岩たちには、そんな謂れがあったのだ。

 

それにしても川ぎりぎり。

足元には、枕木が今でも並んで埋まり残っている。

 

竜宮城のような形の横穴があるよ。

 

さて、いよいよトンネル出現。

 

これはだいぶ進んだところ。

中は本当の真っ暗闇!

試しにスマホのライトも試してみたけれど、まったく光量が足りません!

行かれる方は必ず懐中電灯を。

草木のアーチがまるでトンネル。

 

かなり、足元が悪い。枕木も朽ちているし、バラストがあるから。

しっかり足元見て歩かないとけつまづきそう。

靴底が厚い山歩き用がいいかも。

 

しかし、景色はこのとおり。

桜や紅葉の時期が最高でしょう。

夫の実家に向かう時、清流沿いを汽車が走り、その光景に目を奪われたことがあった。ここはどことなくその時の風景に似ている気がする。

 

いくつかトンネルを抜けながら感じたのだけれど、真っ暗で何も見えないトンネルの中から見える外の風景は、まるで切り取られた絵画の様に、何割も増して美しく見える。

はてなブロガーの有屋さんがよく載せておられる、ご自宅の部屋の窓からお庭を写している写真のようだなと。有屋さんは、何もほかに無い場所から景色を見る、ということを大変大切にされている。仰っていることってこういうことかも、なんて思いながら、自然の繊細な美しさにうっとり。

ここは、繊細さと豪快さが交互にやってくるなあ。

鉄橋もいいですね。

しっかりした橋なので安心。

 

おお。

うおお。

ほおおお。

なんともいえない。この風景。

おそらく、桜の季節は見事でしょう。

でもこの時期の、荒涼さもまた大好きなのです。

あれ?

1.3+5.5=、、、

4.7じゃないぞ?

トンネルの向こうに見える2人の影が素敵。

そうそう。

トンネルの中にはこうもりもいるとか(怖)

小さくゴール地点の食事処「畑熊商店」さんが見えてきました。

鹿肉や牡丹鍋もあるみたい。カレーや串カツも美味しそう。

だけど、お支払いは現金のみ。

用意してお出かけください。

 

武田尾駅からは電車に乗って生瀬駅まで帰ります。

この駅!なんか独特。

 

もうね。足が壊れました。

 

でも、今度は武田尾から下ってもいいかも♪

なんてね。

 

 

 

 

 

歩く歩く歩く①

今年の正月は遠出するのを取りやめていたので、特別な用事は何もないが、日頃忙しい夫は時間の余裕から気持ちの余裕も出て、普段出来ないことにせっせと取り組んでいる。

もともとお料理やお菓子作りが好きな人だ。

こぼれ梅という酒粕?を使ったトリュフや、ヨーグルトを作っていた。

本来好きなことを「しよう!」と思える余裕というのは大事だなと思う。

今年の正月は天気に恵まれた。

空いた時間はせっかくだから外出しよう!ということで、夫にリクエストはないかと聞いてみたところ、

「朝一の飛行機が見たい!」

とのことで、3日は早く起きて空港に見に行こうね、ということになった。

、、、が、

私が寝方した(笑)ので、朝一を叶えてあげることは出来なかったが、午前中から飛行機が大きく見えるスポットを探して周りの柵に張り付いて眺めた。

伊丹空港は、丁度真ん中を分断するように車道が地下を通っていて、両端を人が通れるようにも歩道がついている。

この日はその地下道を通って、丁度伊丹空港の半周をぐるりと歩きながら見て回った。

夫が言うには約10キロの道のりだったそうだ(怖)。

4時間ほどかかっただろうか。

帰ったら、遅がけのお昼を食べてから近くの美味しいCafeに行こうね、と話していたのに、疲れ果ててコタツで爆睡してしまった。

起きたら夕方16時。

いそいそと買い物がてら出かけ、お目当てのCafeに立ち寄って、頑張って歩いたご褒美に美味しいケーキを食べさせてもらった(笑)

節目の力。〜早速のご利益。

晦日

朝からお節を作る段取りを考えていた。

今年こそは紅白を始めから座ってみるぞ!と意気込んでいたからだった。

ところが、その後すぐに息子と夫が大喧嘩。

お節どころでは無くなってしまった。

取り敢えず、その日一緒にいることは出来ない。仕方が無いので息子は、どこか空いているホテルでも探して泊まることになった。

発端は前日30日の出来事だった。

 

時々息子を連れて認知症の母と、甲斐甲斐しく世話をしてくれている義父の元へ訪ねている。しかし、夏頃から色々あってずっと行けなくなっていた。

行った時には、引きこもっている無職の息子が少しでも働いて対価を得る喜びを知ってくれたらとの思いで、義父が庭掃除をアルバイトとして1時間幾らと決めてやり方も指導して面倒を見てくれていた。建築士1級を持ち、現場監督もしていた義父は、非常にきっちりした性格で、息子には申し送りから時間管理までして、成果を見てしっかり褒めてくれるなど、学ばせてもらっていた。

母の介護をしながら部屋の掃除にまで手が回らないので、年末には来て欲しいと連絡があり、タイミングを計っていたが、30日ギリギリになってようやくそのタイミングがやってきたのだった。

夫と3人の外出はかなり久しぶりだった。

誘った時は「無理」と言った息子も、今では本当の「おじいちゃん」と思うまでになった義父からのオファーに、「やっぱり行きます」と答えてから、彼なりに前日から段取りをして当日はかなりスッキリした様子で共に家を出ることができた。

高速で1時間半の車内でも機嫌よく落ち着いていた。

義父宅につき、義父から外の庭掃除をして欲しいと声がかかった時は本当に良い声で返事し、説明をしっかり聞いて「わかりました!」と返していた。

室内の掃除だと思っていたので、大丈夫かなと嫌な予感がし、心配したが、大丈夫だというので「そうか」とすっかり安心してしまった。

昨日書いた記事に出てきた「中山さんに参りなさいと勧めてくれた人」が、息子には職人の様な、マンツーで親身になって教えてくれる親方の様な人と仕事をするのがいいのではないか?と以前話してくれていたのが脳裏にあり、やはりこういう関係性のものもいいかもしれないな、などと考えてていた。

ところが、1時間ほど経った頃、中に入ってきたので義父が経過を聞いたところ、仕事をせずに「散歩していた」というのだ。

これには驚いて思わず「えっ!?」と言ってしまった。だって、掃除できる時間は限られていて、およそ2時間しかない中でどこまで綺麗にしてあげられるか、といった状況だったから。

でも彼は、普段なかなか行動スイッチが入らず低迷している中、久しぶりの遠出だ。小学6年の頃に妹や私の母、義父と一緒によく散歩した川辺りなどが懐かしくなり散歩して気分がよくなったなら、それはそれで良いかもしれない。そう気を取り直して、「じゃあ今から頑張って」と声をかけた。

彼は寒いので車に置いている上着を取りたいから車の鍵を貸して欲しいと言った。少し躊躇したが、それはそうだと鍵を渡した。義父も気を使い「ゆっくりしたらいいで」と伝えた。

上着を取ってから鍵を返しに再び入り、また外へと出ていった様子だったが、その時の姿は床掃除をしていて見ていなかった。

暫くして、、、

私は何か胸騒ぎがした。

車の鍵、上着、、、

さっきの嫌な予感が蘇り、慌てて外を見に行った。

が、いない。

車を見に行ったが、車内にもいない。車内に置いていたはずのリュックもない。

忽然と消えてしまった。

散歩に行ったのだろうか?それならリュックは必要ない。

呆然としながら、もう一度家の中に入り、車の鍵を探した。いつもつけている場所にない。鍵がないと帰ることが出来ない。焦り探し続けると車の鍵はポシェットのポケットから見つかった。

ところが、家の鍵が無い。無い。無い。

 

どういうことだろうか。辺りをどんなに探してもない。

連絡もつかない。

やられた。

と思った。

自分の鍵は持ってこなかったから、私の鍵をとっていったのだろう。

さっき、車に行った時すでにリュックも出してきっと準備していたのだ。でもその姿を見ていなかったから断定できない。悟られないよう、玄関前に置いてから入っていたかもしれないし。

 

気づいた義父と夫が心配しだしたので状況を話した。誰もが「警察に捜索願いを」と考えた。こういう時は良くないことが頭を過る。最悪のことを想定して動く必要がある。

しかし息子は二十代半ば。お金は持っていないがカードは持っている。

二十数年息子を育ててきた母親の勘として、分かることがあった。

恐らく家に帰ったのだ。そして寝ようと思っているのだろう。

やはり室内の掃除だと思っていたのに外だったこと、散歩に行ったことを騒がれたこと、などから、フェイドアウトしたのだろう。

それにしても電車だと3時間はかかる道のりだ。気に入らないからと言って黙って帰る距離じゃない。

途中で現金が無くて困ったり、事故にあったり、家に帰らないということも考えられる。

息子は私の家の鍵を持って行ってしまった為、もし息子が帰らなければ私たちも家に入ることは出来ない。

もし万が一息子がただ散歩していただけなら、置いて帰ってしまうことになる。

さあ、どうする?これは賭けだ。

ひとまず、警察には連絡せず自宅に戻ることにした。

道中気が気ではなかった。

 

彼が戻る時間を計算し、それより遅くなるように自宅についた。

ガチャ。ドアが開いた。

全身の力が抜けるようだった。

やはり家に戻り部屋で寝ていたのだ。

 

無事に戻っていたことに安堵したが、反面怒りがふつふつと湧いた。

 

そして問題の大晦日。朝、昨日の話になり、悪びれもなく悪態をつく息子に我慢出来なくなった夫に怒られ、ケンカになったのだった。

 

なんということだろう。この差し迫った大晦日に。明日はお正月だというのに。と、途方に暮れた。

 

ただ、違った感覚も同時に持っていた。ある意味、揉めるごとに息子の自立に向かって事態は動いている。息子が親への未練を断ち切り、1人で生きていこうと覚悟を決める為に、大きな力が働き押し出されていく、そんな感覚だった。

やがて息子はその晩の宿泊先を見つけ家を出ていった。

再び静けさを手に入れたのは4時近かっただろうか。

さてと。

紅白までに家事を終わらせて♪と思っていたのに、どうしようか。

和やかにお節を囲み新年の挨拶を交わす雰囲気では無くなった今、作る意味はあるだろうか?と自問自答した。

でも。

結論はすぐに出た。黙々と作ろう。残り時間3時間ほど。大した物は出来ないが、予定のお煮しめ、里芋の煮物、高野豆腐くらいは出来るはず。決めたら後はダッシュするのみ。

そうして奇跡的に紅白が始まるまでに作り終えたのだった。

2024の紅白は良かったなぁ(毎年良かったなぁと楽しんでいるが)。B’zは最高だったじゃないか。こんな風に焦らしに焦らして一番MAXのところで出場し、みんなの期待を裏切らないで大喜びされるって、本当に理想的。誰かがultra soulを国歌にしろってコメントしてたなぁ(笑)

と興奮の余韻を残しながら紅白の後、作ったお節をお重に詰めた。

 

次の朝。元旦。

息子はまだ戻っていないが夫と先に新年の挨拶を交わし、2025年の抱負を話し合った。

例年と代わり映えしない、どちらかというと既製品の多いお節だけれど、このお節があるのと無いのとでは、きっと大きな違いがあっただろう。

思いがけない出来事があったからと、慣習をやめ、ひっそりとした正月を過ごしたのでは、昨年の流れを今年に引き継いでしまうことになるのと同じ。

なぜ、節目というものがあるのかと考えたら、やはりどこかでけじめをつけるために一線を引く役割があるからなのだろう。

だから、意気消沈してお節も作らず火が消えた様な元旦を過ごすのは違う、と思った。

敢えて踏みとどまって、誰かがギュ!っと方向転換をして切り返しすことで、良いスパイラルに変えるのだ。

「その為にお節を作ったよ。」

と夫に話すと、「強靭な精神力」と笑っていた。

 

私たち2人はその後昨日の記事の様に初詣に出かけた。まだ戻らぬ息子にも新年の挨拶をラインし、初詣にでも行ってくれば?と送ったら、「とっくに行ってます」と憎たらしい返事が返ってきた。

息子は小さい頃から無神論者だった。だから余計に毎年嫌がっても初詣には連れて行った。習慣として身につけば、将来家庭を持った時、妻や子と一緒に初詣に行くことが出来るだろうと考えたからで、こうして1人ででも元旦に初詣に行くことが出来たのなら、それは長年苦労した甲斐があったというもの。

素直に嬉しく思った。

 

2日になり、やっとお節を食べに来た息子と暫く話し合った。自閉スペクトラム症ADHDを持つ息子は、やはり複雑な人間関係は苦手だ。なぜ怒られたのか、なぜケンカになったのか、説明したところ、頭を冷やしてきたところで理性が戻っていた様で、珍しく率直な自分の気持ちを吐露し、夫に、申し訳ありませんでしたと頭を下げた。そして、自立する為に家を探すことを受け入れたのだった。

息子には、私や夫、私方の義父、そして別れた父親やその母などは当然として、「中山さんに祈ってあげる」という全く彼が会ったことの無い人までもがみんな心配して祈ってくれているということを話した。みんなに愛されて育ってきたこと。でもそれをキャッチ出来ていないこと。足りないのは感謝の心であること、などを話した。

息子が初詣に行ったのは、地元のえべっさん氏神様だった。

向かう道中色々なことを考えたそうだ。

血縁者達や会ったことの無い人みんなの祈りがえべっさん氏神様、中山さんに届き、お力を早速頂いているような気がした。

「中山さんにお祈りすると、決まって良い方向に進むの」と教えてもらったことは、本当だったのかもしれない。

息子にも、「中山さんに行っておいで」と勧めておいた。