きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

願えば叶う。

かれこれ3年近くになる。

月に2度ほど、某市の障がいを持つ子どもたちと、その保護者の為の運動の会に、ボランティアとして参加させていただいてから。

園児から小学生。

中学生から大人まで。と、年齢層は幅広く、

クラスは2つに分かれ、開かれている。

もう、何十年も続いている会で、小さな頃から通い、すでに40歳手前になる方たちもおられる。

保護者の願いを受けて、当時の学校の先生3人が有志として開かれてから、大勢の親子さんたちが、この会に参加し、体を動かし、動くことの楽しさを覚え、人と関わる喜びを見つけていかれたことだろう。

その時の先生方が、そのまま今でも指導者として、この会を支えてこられた。

教員としての激務を熟しながら、週末にボランティア同然でこの会を続けてこられたなんてことは並大抵のことではない。

そんな、大御所の先生たちも、みなさんすでに御年60歳を大きく越え、そろそろしんどいと仰るようになられた。

 

私は、この会が開かれている同じ市で療育施設の管理者と計画の責任者をしていた流れで、退職後、ボランティアとして後方支援として参加していた。

できれば、これから年齢を重ねるしかないこの先の為にも、体力を使わなくても良い方向へと舵は切りたかったが、神経の連携を促進させて発達を促すには運動は必須。アドバイスだけでなく、どうしても、運動の場にも身を置きたい、という思いも強かった。

私に出来ることといえば、やはり療育だと思うし、これまで身につけたことをこのまま埋もらせるしまうのも忍びなかった。

何より障がいを持った子どもたちが大好きだ、と、退職したことで、更に認識を強くした。

ところが個人で大きな体育館のような場所を借りるというのは、色々と制約があり難しさがある。

運動するには器具も必要だが、高額だ。

大人数でないとできないこともある。

そう考えると、この親と子の為の会というものは、貴重な場だと分かる。

何より私は体育館が大好きだ。

 

だから、そういう環境的に恵まれた場に参加できることは私にとって喜びでしかない。

やってくる様々なタイプの子どもたちに、率先してつき、補助したり、誘導したり、動きの個別指導をしたり、アドバイスしたり、安全基地になったりしながら一人一人に丁寧に関わっていると、それまでできていなかったことが、みるみるできるようになっていった。

それを先生方も、親御さんたちも、見て知って下さっていた。

ただ、この会は親子と学校の先生との交流の場でもある。保護者にとっては学校の先生に見てもらえるというところが大きな魅力でもあり、運営を継続していく上でも、市と連携していく為には重要で切っても切れない存在だ。なので、「指導者」には、これまで園を含めて教員免許を持って実際に市内の学校園に所属されている方しか入ることができなかった。

 

私は学校所属の教員ではないので、民間出として後方支援に徹していて、また、それが私の本分でもあるのだけれど、持っている運動のプログラムを活かすことができない点では残念に思っていた。

毎年総会の名簿を見るたび、複雑な想いが胸を過っていたが、それでも私はどうしても諦めることができないでいた。

私は今では、その会が開かれている市には住んでいない。

今住んでいる市町村で、教室を開いたりすることもできるだろうし、場所を借りる料金は今の場所の方がずっと低料金で、ニーズもあるだろう。

それならそれで、拠点を今住む土地に移してもいいのかもしれない。と思いかけていた。

なぜそれほどまでに、今まで前の土地に思い入れがあったかというと、それは、自分が子育てをしてきた場所であり、受けてきた恩恵を還元したいという思いで、これまで10数年活動してきた場所だからだ。

その土地にすむ子ども、保護者、学校の先生方に還元したいと強く思ったからこそ、今の仕事にたどり着いたのだから当然といえば当然。

私の奥底では、やはり今でもずっと、その会のある市が本拠地なのだ。

自分の教室(広い場所で)を持つことは難しいから諦めた方がいいか、、、と思う反面、心のどこかでは、

いつか、叶えばいいな。

いや、叶えてみせる。

そんな風に、心の中では遠い先を見つめながら信じることを諦めていなかった。

 

すると、転機は訪れた。

祈る気持ちが通じたのか。

この春から、指導者の一員となったのだ。

ここは、言ってみれば金銭的なことは別として、私にとっては本命だ。

だからこそ、売り込むのではなく、要望される形を望んで待っていた。

その願い通り、保護者の方々の方から「指導者に」と声をかけていただいたのだ。

ここ一番、という時にはじっくり準備だけしておいて、後は「時期」が来るのを待つ、ということを大切にしている。

ご縁というものは、あちらからやって来るもの。

その流れに乗り遅れないように、流れを読むことと、準備を怠らないこと、そして焦らず待つこと。それをしていれば、願いは叶うことが多い。

 

昨日は私が指導に立つ初日だった。

それまでも取り入れられていた動きに、視覚支援としてのプラカードを加えて、子どもたちに提示、説明したところ、発語のない園児から小学校高学年の子どもたちまで、はち切れんばかりの笑顔で応え、躍動感たっぷりで動いてくれた。

何十年も続いてきたこの会の歴史を大切に、少しでも長く、指導者の一員として、この市の障がいを持つ子どもとその親と一緒に活動し、発達の底上げに力を注いでいきたい。

 

 

 

 

 

帰国子女の悩み②

同時期にもう一人、帰国子女のお子さんがおられました。

活発で利発なお子さんでした。

良くも悪くもクラスを引っ張るリーダー性の強いお子さんでした。

初めは非常に落ち着かなくて、揉め事が頻繁に起きました。

その都度、両者の言い分を聞き、かみ砕いて双方に伝え、仲裁に入りました。

とても大変な時期がありましたが、個人的に話をすると、脆く可愛らしいところのあるお子さんでした。

落ち着かなくなると先生方の集まる職員室前に行き、廊下に置いてあるソファにどっかり座り、偉そうな態勢で寛ぐようになりました。

時には大きな声で騒ぎます。

おやおや、誰ですか?こんなところで寛いでるのは?

と、ついてきていた私は声をかけ、隣にやっぱりどっかりと座ります。

なんやねん!あっち行けよ〜。

まあそう言わんと。いいやんちょっと一緒に座ろうよ。

などと言いながら、しばらく時間を過ごします。なんだかんだと話をします。

なんでこんなところ来るんかな?先生方のお部屋やで?大きな声は迷惑よ。

一応、そこは職員室であり、マナーが必要であることを伝えます。

もう、うるさいなぁ、と言いつつも、目には涙が浮かびました。

もう辛い。慣れない。おもんない(面白くない)。学校辞めたい。毎日嫌や。

そう堰を切ったように、思いを打ち明けてくれました。

そうか、そうか、辛いんか。慣れないんやな。おもろなかったんか。学校辞めたいか。毎日嫌なんやな。

とその子の思いを繰り返して言いました。

何が慣れない?と分かっているけど聞きました。

日本が慣れない。と教えてくれました。けれどそれまでいた国がいいわけではないとも教えてくれました。

言葉は巧みに話せますが、やはり自分が思うようには理解がスムーズでなく、負荷がかかっていたようでした。特に同じクラスの友達たちとのやり取りで、取り間違いがあったり、上手くいかないことが多かったのでしょう。前の国と日本とで、言葉の解釈の違いも影響しているようでした。まさに混乱が生じていたのです。

傍若無人に見えて、実は繊細な心を持っているお子さんでした。

どうして職員室前に来るのか?

それはソファがあるから。

そんな風に答えますが、その目は不思議そうに見ながら出入りする先生たちを人懐こい目で見上げ観察しています。

わざと職員室前で騒いで、先生方の注意を引いているのです。

おう、どうした〇〇。

と声をかけてもらえるのを待っているのです。

教室には、身の置きどころがなかったのでしょう。同い年の友達の中よりも、大人たちの中にいるほうが安心なのでしょう。

実は困ってるんだよね〜。

と、前に来てくれた先生に、さりげなく代弁しました。

なんや、困ってるんか、何に困ってるねん?

と、先生も関心を持って聞いてくれました。

そのお子さんが落ち着かないでいることは、他の先生方も知っていることでした。

その本人が困ってる、と言うのです。これはチャンスとばかりに先生たちも相談に乗るぞムードになるわけです。

そこで私はそっとソファを空けました。

代わりにその先生が座りました。

 

私たちは身近で子どもたちの話を聞き、気持ちを掴み、顔色や言動を見て、ちょっとした変化も逃さずキャッチして先生と共有します。学校はチームです。支援は人と人を繋ぐ仕事でもあります。一人の子どもの情報を、適切な人に渡し、適切な働きかけができるよう、アシストすることも大切な仕事です。

このお子さんは、2人になると途端に心開き弱音を吐けるようになっていました。本当は人懐こくて可愛いところのあるお子さんなのです。他の子どもたちと変わらない可愛いお子さんです。

色んな出来事がありましたが、その都度繰り返し仲裁したり、どう行動すればいいか伝えたり、対峙したり、濃い2年間を過ごしました。

こういうお子さんたちと接する場合、一目置かれる、ということが必要になります。

休み時間には追いかけっこをして、全力で逃げたり追いかけたり。

先生速いなぁ!

そう目を丸くしながら、喜んでくれたらしめたものです。

男の子はより強い相手に従う、という傾向があります。一緒に遊びながら気がつけば、すごいなぁ、やるやん、とまだまだ自分を上回る相手がいるんだ、と向上心を刺激される。そして嘘は言わない、約束は守る、弱い者の立場になって全力で守る、正しいことを教えてくれる。そういう行動に触れた時、子どもの心には勇気が湧いてきます。

そんな風に、この人は、と認めた相手のことは自然と模倣しようとし、素直になれるのです。だから、悪い方向の力を持った人ではいけません、善良な方向性の力を持った人が牽引するということが大切になります。

対峙する、というのは、日々クラスで起こる出来事に対して、心と心で話し合うということです。

ちょうどギャングエイジと言われる年齢になっていましたから、規範やルールを獲得できるかどうかの瀬戸際でもありました。

ここでしっかり獲得することは、その後の安定した高学年になれるかどうかを左右します。

海外から戻ってきた子どもたちにとってもそれは同じでした。より大きく揺れる心とがっつり組み合い、過ごしました。

徐々にそのお子さんは立ち直っていかれ、元々持っていた利発さを発揮できるようになっていかれました。

ちょうど変わった担任もお山の大将のように良い方向性の力をもった方で、子どもたちをグイっと引きつけ、牽引していかれました。私はいつもその先生と情報交換し合いながら、そのお子さんを含め、クラスの子どもたち一人一人に目と心を配り、子ども同士良い関係が築けるように働きかけました。

高学年になると、そのお子さんの新しいクラスには支援の必要なお子さんがおられなかった為、入ることが減り、たまに家庭科などにみんなの助っ人で入る程度になりました。

私を見つけると、しまった。きらめきが来た!と照れたようなイタズラっ子のような瞳を輝かせます。

遠くから見守っていると、まだ時折落ち着かない様子は残っていましたが、ずいぶん自分をコントロールできるようになっておられました。

それでも気になる素振りがあった時、トントンと肩をタッチすると、あ!そうだった!と気づきまた立て直すこともできていました。

授業が終わり去ろうとする私に、

おれ、がんばってるで♪

と声をかけ横をすり抜けていった時には、それまでの関わりをしっかり覚えていてくれてるんだなと嬉しくなりました。

言ってみれば、転校しただけでも子どもは慣れるのに苦労し心彷徨うのに、国が違うということが子どもの内部で混乱を起こし、どれだけ大きな影響を与えるか、ということを私に教えてくれたお子さんでした。

しかし、その頃にはぽっかり空いた心の穴は徐々に小さくなり、すっかり満たされているのを感じました。

 

私はその年度を最後に小学校での仕事を辞め、療育の世界へと進みました。

そのお子さんは、中学校へと進みました。

中学1年生の頃、町でそのお子さんとすれ違いました。

私はこちらからは声をあまりかけないようにしています。が、

「あ!あ!!きらめき先生!きらめき先生がいる!お母さん!きらめき先生だよ!」

と、そのお子さんは私に手を振りながら慌ててお母さんを呼びとめています。

一番私に叱られ、やいやい言われて嫌っていてもおかしくないお子さんが、大きく手を振り再会を喜んでいる。

それは、関わった月日の積み重ねがお子さんの心の中でまだ生きている、そう確認させてもらえた一瞬でした。

 

更に数年後。同じ町で、私は療育施設の子どもたちを引率し、多くの人が行き交う歩道を進んでいました。前から高校生の集団がワイワイやってきます。私の横には小学生から見ている自閉症のお子さんがいました。

高校生の集団とすれ違いざま、一人の人と目が合いました。一瞬、私と隣の自閉症のお子さんに目をやり、大きく目を見開きました。

お互いに、ほんの一瞬でしたが目の奥をキラッと光らせたことが分かりました。

 

その口元は綻び、その後キュッと口角が引き上がったのが見えました。

帰国子女の悩み。

ずいぶん前のお話になりますが、、、。

小学校で介助員(支援員)をしていた時のこと。

中学年(3〜4年生)に可愛いお子さんが転入してこられました。

礼儀正しくて、大人しいお子さんです。

私はその頃、支援学級に在籍しながらも原学級で何時間かを過ごせるようになってきていた重度の自閉症のお子さんと常に一緒にいましたので、原学級にいる時には、この可愛い転入生さんのことも気にかけていました。

日本語もしっかり話せますし、礼儀正しいそのお子さんは、周りから見て何ら問題がなく過ごせているように思えました。

ところが、転入したクラスが、その後、学級崩壊を起こします。

ちょうどその過渡期だったこともあったのでしょう。

ワイワイガヤガヤ不穏な空気の中、そのお子さんの元気が段々なくなっていくようでした。

そこの新任の担任の心が折れる頃、そのお子さんの心も折れてしまったのです。

クラスに入りにくくなった。

という連絡が入りました。

無理もありません。喧々囂々とした男の子たち、水筒を振り回してケンカするような、そんな殺伐とした雰囲気の中、きっと怖かったに違いありません。

言葉の壁もあったことでしょう。日本語は綺麗に話せていましたが、読み書き話す全てを日本語で、となると、まだ中学年ですし、分かりにくい面もあり、負担が大きかったのではないかと思います。

しかし問題はそれだけではありませんでした。

そのお子さんは、オーストラリアから帰ってきたのですが、オーストラリアの小学校と日本の小学校ではずいぶん違うところがあったのです。

住んでいたオーストラリアの地域は、学校にはスクールバスで通うことになっていました。低学年の間は授業も緩やかで、恐らく床がカーペットなのか、寝転びながら学習してもOKだったそうです。休み時間には芝生の上で転がりゆっくりリラックスすることができる。

そうそのお子さんからは聞いていました。

そんな風におおらかで、ゆっくりスタートな小学校で過ごしていたお子さんが日本の学校に入ったら、さぞかし窮屈で、しんどい思いをしたことでしょう。その上クラスが落ち着かなかったのですから。

しんどくなって当然。通いにくくなったのも、そのお子さんが悪いわけではありませんでした。

フリースクールに行きたい。

親御さんとその子が相談して、そんな希望を出して来られました。

驚きました。

他にもそういった希望を出されるお子さんたちはおられはしましたが、身近なお子さんが、という驚きでした。

でももっと驚いたのは、新任の後に来られたベテラン先生のひと言でした。

「仕方がない」

フリースクールに行きたいなら仕方がない。そういう意味でした。

いやいや、ちょっと待って。と私は慌てました。

そんなすぐ、仕方がない、でフリースクールに送り出していいのだろうか?と思ったのです。

そのベテランの先生とは、支援学級のお子さんや、支援学級には在籍していないけどサポートを必要とするお子さんのことでよくお話をしていましたので、すぐに

まずは校内に別室登校できる場所を設けてはいかがでしょうか、とお声をかけました。

やはり、段階を追って、対処してあげるのが先ではないかと思ったのです。

クラスに入りずらくても、他の部屋なら入れるか、担任の先生がダメなら、他の先生ではダメか。ずっと1時間勉強がしんどいなら、課題が終われば他のことをしても良い時間を設けてはどうか。そうやって、クラスがダメでも他の場所があるよ、他の手立てがあるよ、と、学校としての意向をしっかりと打ち出し、熱意を伝えてあげることが傷ついた保護者やお子さんには必要で大切なのではないかと直談判したのです。

学年団の他の先生方にもそんな話をしました。

急遽、会議室が充てがわれ、別室登校が始まりました。他にも不登校になりかけているお子さんもここで一緒に学ぶことになりました。

ところが暫くすると、やはりフリースクールに行ってみる、という意向が出されました。

入れ替わり立ち替わり空いている先生が出入りして関わるというもの落ち着かないものだったのかもしれません。

別室登校の仕方にも、配慮が色々と必要だったことでしょう。でも一度、こういう居場所がある、と保護者や子ども本人に伝えてあげることができたのは良かったと思いました。

会えなくなるのは寂しいけれど、絶望したままでなく、段階を経て、フリースクールにも行ってみよう、とするのは良いのではないかと思えました。

でもそこで、学校は決して見放すのではないよ、ということを伝えたい、と思いました。

私は介助員ですから、出過ぎたマネをすることはできませんが、ひっそりとメッセージを出すことはできると思いました。

フリースクールに移るという時、一通の手紙を書いて手渡しました。

そこに書いたことは、

一緒に過ごした時間が楽しかったこと。

でもしんどい部分があったよね。

その中でも友達が出来て仲良くしていたね。

クラスのみんなも落ち着けるようにがんばってまた戻ってくるのを待ってるね。

というようなことでした。

そして、

初めて入った学校がオーストラリアの学校で、そこが伸び伸びしていたから、日本の学校に来て、全然違うから、すぐには慣れなくてしんどかったよね。

だけど、オーストラリアの学校も、学年的に今ならもう机と椅子に座って授業を受けているはずだし、これからもし日本で〇〇ちゃんが過ごしていくなら、ゆっくりでいいので、慣れていくことも大切かもしれないね、、、。

みんなで待ってるよ。

というようなことを書いたのです。

その手紙を読んで、そのお子さんがどう思ったかは分かりませんでした。

ただただ、待つしかありませんでした。

 

 

半年ほどしたでしょうか。

ひょっこりそのお子さんがお母さんに連れられてやってきました。

やはり学校に戻りたい。というご意向でした。

「フリースクールには友達がいない」

それが理由でした。

それは、フリースクールが登校しにくいお子さんたちがちらほら集まる形で、同学年がなかなか見つからない、他学年の集まり、という実情があるからでした。

集団や学習が苦手なお子さんが通われますから、学習も自分で好きなものを持ってくる自習スタイル。聞けば教えてもらえますが、マンツーマンで手厚いか、というとそうとも言い切れない面もありました。

そこに通う内に、やはり学校の方が良かった、と気持ちが変化したようです。

私はそれを待つしかないと思っていましたから、本当に気持ちが動いて戻ってこられ、再会したときは非常に嬉しかったことを覚えています。

そのお子さんは、「あの時手紙をありがとうございました」と、また丁寧に律儀に私に話し、お返事の手紙までくれました。

 

子どもにとって、「友達がいる」ということほど強い動機はありません。

仮に心が折れたとしても、

まずは学校はあなたを待っている。

通える場所を用意している。

あなたを見捨てたりしない。

友達が待っている。

ここはあなたの居場所なんだ。

と、離れる前に、先にメッセージを打ち出しておくことが大切です。

「仕方がない」

と言われた保護者や子どもたちは、ここに居場所はない、と失望しまうことでしょう。

例え、帰るという選択を取ることができなかったとしても、学校が、先生が、友達が、そういうメッセージを出してくれていた、ということは、後々その親子さんの心に響いていくことだろうと思うのです。

幸いにして、このお子さんは、フリースクールに行っても、友達がいないなら寂しい、自分の居場所は学校だった、と感じて戻ってきてくれることができました。

そこから、すぐにはクラスには入らず、暫く前の別室登校場所へと通って来られました。

先生方は、良かれと思ってのことですが、入れ替わり立ち替わり空いている先生が入り、元気すぎる声で、子どもを元気付けようとするのではなく、やんわりとした雰囲気で、押しが強すぎない慣れた先生が対応する、という方がいいと思う、と話したこともあってか改善していただき、落ち着いて過ごしていかれました。

その頃、その学校では2年ごとのクラス替えでしたから、1つ上の学年になっていましたがクラスは同じでした。

そろそろ大丈夫なんじゃない?

と、廊下で会ったそのお子さんの表情を見て感じ、伝えました。

数日後、そのお子さんの方から、

「もう、大丈夫です。クラスに戻ります」と言いに来てくれました。

「そうなんやね!また一緒に過ごそう。待ってるよ」と答えました。

数日後、本当にそのお子さんはクラスに戻って来られました。

まだ元気良すぎるクラスメートが、そばを通ると、ビクッとしていましたが、私の方を振り返り、肩をすくめて、うふふと微笑むことができるようになっていました。

体育の時間では、日本式の生真面目な授業に戸惑いはありましたが、そんな表情を見た時はそっと側に寄り添いました。

時と共にそんな戸惑いの表情も薄くなり、自然な姿でクラスに交わる様子が見られるようになった頃、

「もう、私は大丈夫です😊」

とまた、そのお子さんが私に伝えてくれました。

「そう。それは良かったよ😊」

それだけ伝え、そのお子さんの肩にぽんぽんとタッチして、私はその日からそのお子さんから完全に離れました。

3年目。

クラス替えがあり、そのお子さんのいるクラスへは私はあまり入る機会はありませんでした。

でも、廊下ですれ違ったり、全校体育で一緒になった時には、目が合うと、お互いに、うふふ、くすくす、と笑い合い、心の繋がりを感じました。

そのお子さんには、私だけでなく、下足箱近くにある事務所にいつもいる事務員の方もまた、その子の靴の上に面白おかしい手紙を置いて、やり取りしていた方がいました。

担任だけでなく、別室登校で関わった先生たち、介助員や事務員さん、と、複数人の人間が、それぞれの立場でそのお子さんのことを気にかけ、接していたことも、段々とそのお子さんが、ここは居場所だと認識していけることに繋がったのではないかと思います。

 

そうそう。

 

あの手紙のお返事には、

「先生からの手紙を読んで、元気が出ました。先生が言うように、私はこれから日本で暮らしていくことになると思うので、ゆっくりと慣れていこうと思います」

と書かれていました。

 

その言葉の通り、まだ幼かったそのお子さんは、じっくり、ゆっくり、自分の内面と向き合いながら、適応への道を進んでいかれました。

 

本来なら、フリースクールは学校に通い辛いお子さんたちの受け皿として、友達関係や学習の手厚いサポート、そして居場所として十分に機能していなくてはいけないと思う反面、機能しすぎても学校に戻るチャンスを失わさせてしまうな。と私は感じています。

そして、学校にいけないなら、フリースクール、または別の居場所へ。そう早急に大人が焦って考え行動しすぎるよりも、他にしなければならないことがあるのではないかというのが私の考えです。

そして、本人たちにちゃんとした情報を話し、長い先を見据えたビジョンをもたせ、信頼して考える余地を渡してあげることも大切だろうと思っています。

小さくても、自分のこれからを感じ、考え、選び、決めて行動していく力。

これを発動するために、どう大人たちが働きかけていくのか、またどんな問いかけをしていくのか、それが大切なのかもしれません。

託される。

私が目の網膜の病気「原田病」にかかってから、おそらく16年が経ったと思う。

ある日片目の中に異次元への入り口のような円形が見え、次の日にはもう片方の目の中にも同じものが見え、慌てて評判の良い眼科を訪ねたところ、即入院して治療しなければ失明する危険があると診断された。

入院先は阪大病院。そこの眼科医の先生は、その原田病の専門医だった。

初めに見ていただいた眼科医は、その入院先の先生の先輩にあたる方だったようだ。

そこから3週間、大量のステロイド剤を投与する治療が始まった。息子は5年生だった。

難しい年頃で、置いて入院するのは気がかりだったが、こればかりは仕方なく、同居の前夫の義両親が何とか毎日学校に送り出してくれていた。

そんなある日、学校から連絡が入る。

まだ私の目は良くなっておらず、スマホの文字すらよく見えない頃だった。

電話は担任の先生からだった。

どうやら息子が6年生の卒業式の練習が嫌でごねて、連日対応に困っているというのだ。

息子に聞いてもらったところ、

「鼻がチリチリする」

と言ったそうだ。

それは、5年生が送る言葉を言い、歌を歌い、6年生から別れの言葉を返される頃に起こるらしい。

なるほど、鼻がチリチリか、、、。

私は、きっとそれは悲しくなって、泣きそうになるから鼻がチリチリ、むずむずとしているのだと思う。悲しいとか、寂しい気持ちになるんだね、と言ってやって欲しいとお願いした。きっと当日は参加できるはずだからと。

しかし、数日後、再び担任の先生から連絡があった。電話というよりは、連絡帳だったのかもしれない。記憶が曖昧になっているが。

先生は、「色々と手を尽くしてみているが、難しい。この状態では当日の参加は難しい。練習もままならない。今回は諦めても良いか」と、今回ばかりは途方に暮れた様子だった。しかも、リコーダーの演奏もしなくてはならないのに、数日前から見当たらないというのだ。だけど、なぜ人の子のことを勝手に諦めるのだ?という気持ちもあった。先生の大変さと、息子の可能性と、自分の気持ちのサンドイッチで病院のベッドの上でしばし悩んだ。

とりあえず、家人にリコーダーを探してもらったがどこにも無いという。

何故なのかは分からなかったが、先生には早急にリコーダーの手配をお願いし、当日は必ず参加できると思う。だから、諦めずに信じてやって欲しい、と話した。

それから私は息子に電話し、

「それは寂しい気持ちだと思うよ。優しいんだね。でも6年生は卒業してしまう。最後にありがとうの気持ちを込めて、参加すればそれで充分なんだよ。リコーダーは新しい物を買う。リコーダーが難しいなら、吹くマネでいい。そこに参加することに意義があるから」

と、念を押した。

6年生の卒業式当日。息子は無事に参加を果たすことができた。リコーダーは上手く吹けないところは吹くマネをしたそうだ。

毎回行事の前には大荒れになる。今度ばかりはもう無理か、と絶望するが、いや、きっと大丈夫だと、大局観で過ごしてきた。その結果、毎回ギリギリのラインだが、当日は精一杯の参加を果たしてくることができた。

先生もそれをご存知だったから、その時も、今回はもう無理だと思ったけれど、結局お母さんの言う通り、参加出来ましたね、と喜んでくださり事なきを得た。

こちらは失明するかどうかの瀬戸際に、更なる追い打ちを息子にかけられ、神に祈るしかない気持ちで入院生活を送っていて、キリキリさせられた。

そんな入院生活で、唯一救われたのが、担当医の先生のキャラだった。

ハーバード大にも留学されていたからだろうか。とてもアメリカンナイズされた感じの立ち居振る舞いで、顔は見えないけれど、非常に患者の不安に寄り添い、軽減してくださる対応で温かみがあった。老若男女どの患者さんにも出逢うと挨拶がてら、ポンとソフトに腕をタッチしお元気ですか、と声をかけられる。

年齢は私とほとんど変わらないということで、親近感もあり、住んでいた地域にも土地勘をお持ちで、診察の合間にする雑談も面白く楽しませていただいた。

 

結局、3週間の入院が終わる頃、散瞳剤の影響だと思うが、網膜が眼底に癒着し、上手く収縮できなくなり、いつも眩しいことと、今の様な3月という春先、花粉が飛ぶころや、感情の揺れる出来事などがあると、炎症がぶり返すので、多くの人が早期発見、早期治療をすれば治癒できるにも関わらず、私はその何%かの再発組に入ってしまうことになる。

その為、炎症が落ち着いても、数カ月に一度は診断を受け、状態を見ていただかねばならず、気がつけばその担当医とは16年のお付き合いとなったのだった。

 先生はマラソンもお好きで、大阪マラソンにも毎年参加されている。

医者というハードな仕事をしながら毎日走り、大きな大会にも参加するといったバイタリティには脱帽だ。

 

そんな16年の中で、私は5年前に再婚したが、今の夫も偶然に若い頃、網膜に炎症の起こるベーチェット病にかかっていた時期があり、原田病の専門医であるその先生に、一度お会いしてみたい、ということで、私の診察に同行したことがあった。

夫の年齢が若いこともあって、長年診ている私が再婚したことへの驚きも重なったのだろうし、夫も一時期阪大で研究員をしていたことも刺激になったのか、動揺が隠せなかった。

暫く成り行きを聞いたあと、徐ろに

「でも、きらめきさんと出逢ったのは僕の方が先だよねぇ、そうだよねぇ?僕が先なんだからね」

と口走りだされたのだった。

はて。

先生、どうされました?

と思いつつ

「はい、勿論先生が先です」

と答えたら、

「ふふん。そうだよ、僕が先なんだからね!」

とご満悦なご様子でマウントを取っておられた(笑)

同じ「阪大」というキーワードがプライドを刺激してしまったのだろうか、、、。

 

帰り際、夫に向かい、先生が

「きらめきさんを頼みますよ」

と声をかけてくださった。 軽いトーンではなく、しっかりとした声かけだった。

夫は「はい、大丈夫です」と答える。

 

ほら、ホンダの山本さんから言われた時、何かどこかで同じやり取りがされたような?と過ったのは、実はこの担当医とのことだった。

あちらこちらで、私は親族でもない方々から、「頼みますよ」と託されている。

そういえば、以前には、私が見ているお子さんのお母さんにまで同じことを言われていた。

 

そして毎回、皆さん、ご主人はどうされてる?と夫のことを気にかけてくださる。

 

夫とは私が勤めていた療育施設で出逢っているが、一緒に働いて下さっていた10ほど上の職員の方などは、私たち夫婦を見るたびに、涙ぐみすらする。(夫が可哀想だからではなく)

なんだか不思議な感覚になるが、赤の他人の方々から、その様なお心遣いをいただくことの有難さを噛み締めてもいる。

長年の間に私にもそういった人間関係ができていたのだなと。

(もしかしたら、夫の人徳なのかもしれない)

 

今その先生は、淀川キリスト教病院に移られ、そこの部長先生になられている。

 

まだまだこれからもお元気でご活躍いただきたい。(私より2歳若いけど)

 

 

以心伝心。

先週末。

いつも参加している障害を持った子どもたちとその保護者の運動の会があった。

年度末ということもあって、午前は運動、午後は親睦会としての会食になっていた。役員さんと指導者との交流の場だ。

 

午前中の運動は、いつも通り子どもの部、大人の部に分かれ1時間ずつ。

そのどちらもに最後ダンスがついていて、前で見本として私が踊っている。

この頃、低学年の女の子が私の横に来て、一緒に見本役で踊ってくれている。

2回とも同じダンスなのだが、子ども向けだけど、真面目に踊ると結構しんどい。エアロビくらいの運動量だろう。したことないけど。

見本となれば、やはり動きは大きく、腕はしっかり伸ばし、躍動感を持って踊らなければならない。見本がだらけると、子どもたちもつられてだらけてしまうからだ。だから毎回私は汗だくになって踊っている。

その日もその女の子が2回目も横で踊っていたのだが、佳境に入った頃、咄嗟に私の方を向き、「しんどい!」と言った。

「これしんどい!私、2回目なんだから!」と。

笑ってしまったが、いや、わかるよそれ!と思い、

「しんどいよね!先生だって、2回目だよ!」と返した。

「あ、そうか!」

といって、その子は脱落することなく最後まで踊りきっていた。

なんか、こんな瞬間が面白いんだよなぁ。

大人とか、子どもとか、関係なく、同士みたいになる瞬間が。

 

毎回運動の始まりには、広い室内をみんなでぐるぐる音楽に合わせて歩いたり回ったり走ったりするプログラムがある。

いつもやってくる飄々とした女の子。ポーカーフェイスで誰とでも馴れ馴れしくしない。

なんなら声をかけられても返答しないことも多い。

だから余計にハッパをかけて関わりを持ち、気持ちを動かすことで体を動きやすくして運動に繋げている。

そういうこちらの意図がきっと伝わっているのだろう。最近は促しにのって、活動的になってきた。

その子が会ってすぐ、始まりのプログラムで歩く私の横に来て言った。

「私さぁ。今日大変やってん。便秘。」と。

「すごいお腹痛くて大変で。」と。

「そりゃ大変やったな。水分が足らんのやろ。気をつけて飲まなあかんよ」と返したら、

「そうやねん。私も前の晩から気づいててんけどな」と言う。

「でも、ポン!って詰まってたのが出たから大丈夫になった♪」と続けて話し、離れていった。

なんだか、それがとても嬉しかった。

障害を持っていると、自立神経が上手く働かなかったり、腸の動きが悪かったり、喉の渇きに気づきにくいことがある。

そんな自分の体調に気づけないことも多いし、異変を上手く他者に伝えられないことも珍しくない。

普段誰にでも心開かない、ポーカーフェイスの彼女。しかも、思春期の女の子が、こういった話しにくい話を朝イチから打ち明けて、自分から話しだしてくれたことに、何とも言えない感慨深さを感じたのだった。

そんなささやかだけれども、子どもたちの心に触れると、この上なく私の心は喜びに震える。

 

その後、この出来事をお母さんに伝えた。

始めのダンスの子のお母さんは笑い、後のポーカーフェイスの子のお母さんは驚いていた。

「恐らく、学校の先生にもそんな話はしたことがないと思う。」と仰っていた。

私にそれだけ心開いているということに、お母さんも喜びを新たにしてくれていた。

私はその子と毎回会うことを楽しみにしている。

だからだろうか。

以心伝心。

 

新しく入った幼い兄妹は、はにかみ屋さんで私が近づくと下の妹ちゃんなどは逃げていくこともある。それでも小さい身体で頑張っている側にいき、さりげなく補助をして助けてあげていた。お兄ちゃんは、緊張型で体が強張りがちだ。運動神経はいいけれど、失敗が嫌いなので、未知のものにはよりつかない。そこで安全基地として私が側にいき、ひっそり説明をしたり、気持ちの安定を図りながらサポートしていると次第に解れて動きだすことができる。

ついて来ていたお祖母様が、「この二人は先生に一番懐いている」と言ってくださった。その途端、いつも緊張して強張っている幼い兄妹が、手を広げ、私に抱きついて来てくれた。

不意打ちのご褒美に、なんとも幸せな気持ちになった。

あんたたち、分かりづらいけど、ちゃんと懐いてくれてたんだね。と。

勿論目線で分かってはいたけれど、こうして屈託なく表現してくれると間違ってなかったな、って分かって嬉しい。

 

この仕事は、独りよがりではいけない。

いつも子どもたちの心の動きを把握しながら立ち回らなければならないけれど、子どもたちに寄り添いすぎても、媚びてもいけない。

大人だけど大人ぶらず、心砕いてないようだけど、心砕き、私という存在を打ち出さないけれど、それにより打ち出している。

それを子どもたちはちゃんと感じとっている。

以心伝心。

 

その日のダンス。曲がもう終わる、、、という頃になって、プツリと音楽が止まった。

え!と驚いた子どもたちが、なんで!?と詰め寄る。

慌てた担当していた先生が、「もう一度行ってみよう♪」と言って、なんともう一度曲の初めからかけ直した。

ええ!もう1回?まじで? と思ったが、速攻切り替え「行くよ〜♪♪♪」とみんなに声をかけた。

ところが途中で曲が速くなる。振り返ると担当の先生たちがくすくす笑っている。

2回やると時間が足らなくなるから、早送りにしているのだ!なんと!

しかし逆境は楽しむもの。

その早送りのリズムにぴったり合わせて、高速ダンス!!!どうだ!

すると、目の前に小さな男の子たちが、その速いテンポに炙り出されたように出てきて狂ったように踊りだした。

ADHDの子どもたち。体の持つテンポとリンクしたんだね!と可笑しくて。あはは、と笑いながら最後まで踊りきった。

丁度、椎名林檎のライブで、宮本浩次が登場し「獣ゆく細道」を転げ回りながら歌い、それを椎名林檎が愛しく微笑み見守りながら歌っている動画のようだった。

こちらが楽しめば幼い子どもたちにも伝わる。

以心伝心。

ハプニングだったが非常に面白かった。

 

 

午後の親睦会の頃。

時々参加している夫も一緒だった。

和やかに会食が終わり、役員さんたちが諸々の相談をしている間、子どもたちと一緒に遊んで待っていてあげた。

しりとりにも飽き、連想ゲームをしていたら、ようやくお母さんたちの話も終わりを迎えた。

でも最後に、私と、夫が連想するものをそれぞれ当てたい!と子どもたちが言う。

咄嗟に私は連想したものがあったが、じゃんけんで夫に負け、先に夫が連想したものを当てることになった。

しばし、うーんと夫は唸り、連想していたが決まったようでゲームスタート。

ところが何だか混線して、みんなの会話がよく聞き取れない中、誰かから「ケーキ」という言葉が聞こえたような気がして、

「私が連想してたのケーキだったんだよね〜」と言ったら、みんなが「えっ!」と驚き、「2人で同じこと言ってる!」と言うのだ。

は?何のこと?と咄嗟に訳が分からなかったが、どうやら夫が連想したものが、「ケーキ屋」だったらしいのだ。

なんと、夫婦で同じことを連想していた。

たまげて、お互い顔を見合わせた。

きっと疲れて甘いものを欲していたんだろう。時間は15時すぎだった。

 

日常的に、私が何か頭に思い浮かべた瞬間に、夫の口からその言葉が出る、ということが多い。

 

以心伝心。

 

脳の作りも違う。見ている世界も違う。

遺伝子も違う。何もかも違う。

なのに、空間を伝わって心が、思いが、伝わり通じる。

きらめきが、そこら中に降り注ぐ。

 

面白いよね。

 

 

上を向く人、下を向く人。

皆さんは道を歩く時、空を見上げますか?

それとも地面を見つめますか?

 

私は空を見上げます。

 

若い頃は地面を見つめ歩いていました。

 

若い頃の私は、憂うことがたくさんありました。

どんよりとした、重苦しい、自分ではどうにもならないものを背負っている時、人は自然と俯き加減になります。ため息をつき、視線を落として、地面の一点を見つめます。

地面の一点を見つめていると、周りの刺激から隔離され、次第に頭の中は、どんよりとした重苦しい思いの中へ沈んでいくことができます。どうにもならない出来事が、あれやこれやと浮かんできます。

そういう時は、外を歩いていても同じです。

俯いて、地面がルームランナーの様にどんどん過ぎていくのを見つめ、やはり頭の中はやるせない思いがへばりついたまま、考え事をしながら歩いてしまいます。不思議と風景もどこか切なく見えてきます。

まるで自ら暗い感情の海の底へ沈んでいくかの様です。

誰しも辛い時、その目は伏し目がちになります。顔を上げ、目の高さを上げるには気力が要るからです。ずっと高さを保つには、精神力が必要なのです。

悩み事がある人は、心が元気ではありません。

だから、自然と目線が落ちます。

目にはその人の気力が表れるのです。

 

でも、悩み事、心配事を整理したくて、集中して考えたくて、俯いて思案していても、良い考えは浮かびません。

下を向いていると、文字通り、視点が固まるのです。視点が固まると、頭の中も同じ考えがぐるぐる回るばかりで、反芻思考から抜け出しにくくなるのでしょう。

それでも俯いている人は、まだそれだけの心の整理がついていないとか、まだまだ痛む心を感情の海に沈むことで慰めている状態にあるのかもしれません。

 

でも、ある時私は気付きました。

下を向いて考えていても、それは自分の感情の海に浸っているだけ。打開策は浮かんで来ないと。

 

転機は療育施設で管理者をしていた時でした。管理者をしていると、次から次へと待ったなしで難問が振りかかります。同時に子どもへの対応、指導員への指示なども熟さなければなりません。じっくり下を向いて悩んでいる暇はないのです。

降りかかる火の粉や災を跳ね除けて、良い考えを導き出すには、ぐっと前を見据え、進むべき道を見定めなければなりません。

道を探すには、下を向いていては見つかりません。

下を向いていると背中も丸くなり、肺に酸素も入りにくくなります。酸素が少ないと脳も酸欠になって考えが巡らなくなります。

でも、目線を上げると顔も正面を向き、自然と呼吸は鼻呼吸になります。鼻から深く吸い込んで、静かに呼吸していると、脳にも酸素が行き渡り、目にも力が宿り、覚悟も決まり、幾つか浮かんだ案の中からより良い方法を探り当てて、決断していくことができました。

道を歩く時は、遥か遠い山並みや、空の向こうを望みます。気持ちは戦国時代の武将ですw。

視野が広がると、文字通り展望が開けます。

くよくよとした気持ちは消え、凛とし晴れ晴れします。

問題解決に向かって、明るい見通しが立つようになるのです。

 

 

だから、家族や知人が下を向いて歩いているたら、上を向いて歩こう、と声をかけます。

すぐには難しくても、何度か誘っているうちに、やがて、顔を上げて歩く日がやって来ます。

 

さあ、顔を上げて歩こう!と。

そうなれば、もうその人は大丈夫。

 

上を向いて歩くか、下を向いて歩くか。

そこに大きな違いが出るとしたら、、、

 

あなたはどちらを選ばれますか?

 

(上を向く梅、下を向く梅)

 

 

 

コミュニケーションだと思ったら、一方通行だった、、、を防ぐ、会話の視覚化•構造化。

前回、コミュニケーションについて、言葉には複数の意味があるよ、状況や意図に応じて変化するよ、だから「字義通り」の解釈になっていないか気をつけてね、相談してね、って話を書きました。

意外と自分が字義通りの解釈をしてしまっていたが為に、誤解や混乱を招いていたかもしれない!ってことに自分で気づける人は少ないかもしれません。なので、一旦、その時の状況を俯瞰して、考えたり、人に相談することが助けになったりするわけですね。

 

今回は、もう一つ、コミュニケーションの罠?について書きたいと思います。

人にはそれぞれ癖といいますか、コミュニケーションを取る時のパターンがあります。

これも、その人が今まで生きてきた中で身につけてきた癖、ASDやADHDの特性からくる癖、または親や身近な人との愛着形成が上手くいかなかったことからくる癖、など複数の要因があると思います。

自分ではコミュニケーションを取っているはずなのに、なぜか上手くいかない、という場合もありますよね。

そんな時には、自分の取っているコミュニケーションの仕方がどんな形になっているか、一度紙に書いて、客観的に見てみると、あれ?と気づきやすいかもしれません。

 

例えば、、、

Aさんが会社などで他者から「どうして失敗したのかな?」と指摘を受けたとします。

指摘を受けたAさんは、

「私は指示された通り一生懸命やりました!」

と、指示通りであったこと、真面目に頑張っていたことを主張します。

すると

「一生懸命にしたのは分かるけど、でも現にここ間違ってもいたよね。指示はしたけど、分からないところは聞いてから進めてねってお願いしてたね?」

という返事がまた返ってきます。

「でも私は頑張ったんです。指示通りしただけなんです!指示の仕方が悪かったのではないですか?」

と、Aさんからはこの後も同じ主張が繰り返されます、、、。

今、読まれている皆さんは、文章で読むと、ミスを指摘されたからって、こんな返し方するわけないわ!と思われるかもしれません。それは第三者として客観的に読んでいるからですが、実際に似た場面に遭遇すると、咄嗟にAさんの様に相手の問いかけと少し違う反応をしてしまっているかもしれませんよ?

続きます。

 

この場合、会話を矢印で表すと、

Aさん→ ←相手

と、真っ向から相手に向かって自分の主張を投げかける形になっています。

この形で何度コミュニケーションを取ろうとも、一向に相手に自分の主張が理解してもらえないばかりか、場の空気が険悪になるばかりです。なぜならこれが

自分→❌️←相手

の対立の図式になっているのですね。

相手は「どうして失敗したのかな?」と言っていますが、この言い方だと考えられるのが

①「あなたはどうして失敗したの?」と責める意味合い。

②「なんで失敗しちゃったんだろうね」と寄り添う意味合い。

③「何が原因で失敗したの?」と直接の原因を求めている意味合い。

④「どんなことがあったのか知りたいな」と背景をひっくるめて成り行きを把握したいという意味合い。

⑤「現場の構造に問題があるなら検証したい」失敗はシステムエラーとして考え、構造上の改善点を検討、検証したいという意味合い。

などなど、より分けると短い一文なのに、私が思いつくだけでも5つも違う意味合いが見つかりました。

 

このAさんは、5つの中から考えると、反射的に①の意味合いで相手の言葉を受け取っていることになります。また、反射的に一生懸命やっていた!指示通りやった!と、相手の非難から自分を防御する意味合いの言葉を返してしまっていることになります。

相手は②から⑤の意味合いで、言葉をかけていたとしても、この返し方では相手もAさんから責められていると感じ、とっさに防御の態勢になって、「でも現にここ間違ってもいたよね。指示はしたけど、分からないところは聞いてから進めてねってお願いしてたね?」と少し語尾強めの返答をすることになってしまいます。相手も戸惑いがあるのでしょう。

ただ、この時の「現に間違ってもいた」という言葉は、一生懸命したのは理解するけれど、「事実」としての間違いについて述べていることになります。

そして、「分からないことは聞いてから進めてねってお願いをしたよね?」という言葉は、指示したはずの内容から、抜けている箇所を提示し、お互いに再確認しようとしている意味合いになります。事実のすり合わせや確認をしているだけで、Aさんを責めているわけではないのかもしれません。

それに、「一生懸命したのはわかるけど」と文頭に話しています。これはAさんが一生懸命した!と主張していることと、実際にその様に動いていたことを私は理解しているよ、ということをAさんに伝えようとしているのかもしれません。

しかしAさんの耳にはそんな風には聞こえていません。なぜなら、「分かるけど」の「けど」は、前の文を打ち消す意味を持っているからです。「一生懸命したことも、失敗したら意味がない」くらいの勢いで、Aさんには否定されたと受け取られているのでしょう。

なので、その後も「でも、」と「一生懸命したのは本当なんだ!」という主張が続くのです。

ここで、考えたいことは、

Aさんの主張はあくまでも自分の正当性を押し出して失敗の責任を回避したい、という思いと、否定された!という気持ちからくる感情型になっていることです。

相手が②〜⑤の場合に言っているのは、事実確認です。

感情型と事実確認(論理)型とでは、そもそもこの議論の目的に食い違いが出るので、水掛論になりがちです。

 

もし、皆さんが、他者からいつも否定され、話し合っても理解されずに良い着地ができない、とお悩みなら、まずは自分が咄嗟に取りがちな反応や主張の仕方を思い出して、なるべく客観的に、感情を横に置いて、検討してみられると、新しい発見があるかもしれません。

逆に、もし、皆さんが、自分はただ事実確認をしたいだけ、相手の状況も理解しているよ、と伝えたいのに、なぜか伝わらない、とお悩みなら、まずはAさん側の主張はどんな背景から出ているのかについて冷静に考えてみることをお勧めします。

双方が、相手の主張している「言葉」の裏にある意図や感情を考えたり、背景を考える努力をしていれば、自然と相手の立場に立った言葉がけがなされ、会話はまとまっていくはずです。

しかしなかなかそうならないのは、お互いに自分の主張が正しいと思い込み、一歩引いて、俯瞰して考えるということができていないからです。

それぞれが、ちょっと待てよ?と立ち止まり、なぜ上手く通じないのだろう?と考えてみるのは大切なことです。

もし、相手の人が、「いつも一生懸命しているのですよね。それは分かりますよ。」と一旦文を区切り、その上で、「今回はここにミスがあったので、その時の状況を知りたいと思っています。教えてもらえますか?」と言い直すことができたなら、Aさんは自分が被害的に受け取っていたと、ハッと気づくことができるかもしれません。

更に、「もしかして、責められていると思わせたならすいません。今後、同じことが起きない為に、改善案を考えたいと思っているので、詳しく教えてもらえますか?」と丁寧に言えたなら、Aさんの防御態勢は解け、どうしてミスに繋がったのか、その経緯を話してくれるだろうと思います。

 

これは、

Aさん→❌️←相手

と、ベクトルがお互いに向いていたのが、

と、一緒に問題解決に向かってベクトルを向ける形に変化したからです。

 

長々と書きましたけれど、要は、お互いに必死に相手に対してコミュニケーションを取っている、と思っていても、気がつけば、それはただただ自分たちの主張を繰り返し、相手を攻撃しているだけかもしれないよ、ということなのです。

結局それは相手の方を向いているだけで、一方通行で、空回りし、対立だけを深めるパターン、スタイルになっているのです。

そのパターンやスタイルに気がついたら、

①今話し合うべきは何についてなのか。

②お互いに何について、どこを向いて意見を出し合うのか。

という一番の目的を割り出し、双方がその目的の方を向いて話し合う、という風に方向性と到達地点を明確にして合意すると嘘の様に上手く行きだすのです。

これは、集団でも当てはまります。

みんながそれぞれに置かれた立場や環境について不平や不満を顕にするとき、それは1つの問題点として聞き取りをし、相手の許可を取って公表できることは公表してみんなで共有します。

そして、一旦それは脇に置き、これからの話は何を目的とし、どこを向いて話し合うのか明確に提示した上で、みんなで協力して話し合おう、と宣言するのです。

そこで出た結論に対して、それぞれが理性的に考え、どうしても難しい点を修整していく、という逆方向からの論理立てをしていけば、割りと場はまとまっていくのではないかと思いますし、著しく個人の利益ばかりを追求する主張は目的に合っていないので却下しやすくなります。

今回挙げたのは一例で、日常のコミュニケーションの中には、話し言葉だけでは見えてこない構図が、絵や図式で考えてみると理解しやすくなるよ、というお話でした。

 

私はこの方法を使って、療育施設の職員たちをまとめることは勿論ですが、通ってくる子どもたちの集団適応力をあげる為のSSTにも用いて仲間作りをしていました。

すると、重度自閉症、自閉スペクトラム症、ADHD、知的障害など、様々な異なる障害を持っていて、いがみ合うことがあったとしても、きちんと交通整理をすれば、相互理解を深め、みんな深い絆で結ばれた「仲間」になっていったのでした。

 

自分たちの話を俯瞰して、ベクトルの方向性を考えたり、相手の背景を想像して言いたいことを通訳する、ということは、柔軟な視点がなければできません。空間認知能力が必要なことなのですが、定型発達であると思われる人でもこうした考え方は苦手だという人もいます。

時には発達障がいの特性を持っている方の中に長けている人がいる場合もあります。

本来なら、定型発達であろう人が先に気づいて方向性を変える働きかけをしてくれると良いのですが、逆に固定概念に縛られすぎて柔軟な思考ができないという場合もあります。

その時々で、気づいた人が、提案し、より良いコミュニケーションが取れてゆけば、争いの少ない平和な日々が増えるのではないかなと思います。

職場に限らず、ご家庭で、友人と、あらゆる場面に有効なので、お使いになってみてください。