きらめき 綴り

療育アドバイザーとして活動しています。日々の心の煌めきを大切にしています。

息子に誘われて。

朝、息子の新しいクリニックに確認の電話をかけた。

生育歴を話す為の予約日の確認だった。

早めに、と息子から聞いていたので、喫緊の可能な日を選んだつもりだったのに、カレンダーを確認すると1週間遅い日に印がついていた。

私の勘違いで、遅い予約になってしまったようだ。

 

息子は只今絶賛生活保護受給中。

母である私が家族受診する時、手帳やチケットなどが必要ないのか市役所に聞いてもらおうと、次に息子にも電話をしてみた。

午前9時。

世帯分離をしてからというもの、復調の兆しを見せていて、午前中に起床できる日が増えてはいるものの、最近でも2回続けて義父の元へ行く為に約束した時間には起きることができなかった。自分から行きたいと言ったのにだ。

そういうこともまだまだあるため、期待半分でコールを鳴らした。

 

ガチャ!

 

スマホもガチャ!っていうんだなぁ、と妙な感心をしつつ、それは息子が慌てて出たことを意味することに少し喜ぶ。

 

「おはようございます!」

とても元気でシャープな声だ。

 

「ああ、早く起きていたんですねw」

「はい、その通りですw」

と、他人行儀なやり取りを交わす。

 

我が家は子どもたちが小学生高学年になるころには、時々改まって、さん付けで呼び、ですますで話すことが多くなった。

その頃、小学校で働きだし、先生方が児童を男の子も女の子も区別なく、「〜さん」と呼んでいたことに大きなカルチャーショックを受けた。呼び捨てでも、あだ名でも、ちゃんでも、くんでも無い。「〜さん」。

「〜さん」と呼ぶには理由があるそうだ。

小学校に入学もすれば、もう幼児ではない。

人格を持った一人の人として扱うことで、子どもたちは自然と自覚を持ち成長するのだという。

それを聞いて、なるほどなぁ。と深く染みた私は、それからというもの、我が子に対しても、療育通って来られる子どもたちに対しても、一人一人を尊重して「〜さん」と呼ぶようになった。

腹が立っていても、「〜さん」と呼ぶと、不思議と落ち着いて対応することができる。

呼ばれた方も、神妙に「はい、なんでしょう」と暴れていても、すごすごとやってくるのが面白い。

たった二文字の言葉を、子どもはちゃんと聞いている。

 

さて、話が逸れたが、朝から起きていることを母である私に示すことができてご満悦な息子は、私の問いを受けて、すぐさま市役所の担当者に問い合わせ、折り返し電話をかけてきてくれた。

これまで病院、役所に電話1本かけるだけで、一体何日かかっただろうか。

まずは病院や役所の営業時間内に起きていなければならない。睡眠サイクルがぐるぐる回っているときは、一回りして昼間に覚醒しているタイミングを待つことから始まる。起きていたらかけられるのか?というと、そうではない。 

なんて言えばいいか分からない。

かけようと思うと緊張する。

調子が悪い時にはスマホ画面を見たくない(脳が痛くなるらしい)。

そもそも行動スイッチが入らない。

目は私を捉えて「かけます」と言うが、かけたのですか?と聞くと「かけてません」と答える。そんな日々が何日も続くのだ。

それに比べると、すぐさま折り返しの電話までかけて来るなんて大違いではないか。

3ヶ月前まではぐだぐだだったのに。

 

結局、市役所からは親子であることが分かるものを持っていけばそれで良い、という回答だったようだ。継続して通院する時は市役所から病院に月初めに連絡が入るから、わざわざチケットの様なものを取りにいかなくてもいいということらしい。

それはそうと、、、と息子が話を変える。

「今日、〇〇に小泉進次郎が来るんだって。俺見に行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」

とな?

急な不意打ちを食らい、返事に詰まる。

これで息子からの誘いは2度目だ。

 

1度目はイケアに行かない?だった。

引きこもりさんだったのに、随分な変わりよう。

私は自民党の支援者でもないし、小泉進次郎のファンでもない。その時点で誰に投票するかも決めていなかったが、近くに来る。となると、物珍しさで一度この目で見てみたくもなる。

そしてせっかくの息子の誘い。

この頃、今まで眠っていた本来の息子の質の部分、そこが成長した形で外に現れだしている。その彼の関心に乗っかってみよう。と思えた。

「では、行きますか」

そう返事した。

開始時間よりやや早めの行動がいいかもね、とADHDらしからぬ、計画性を持って早め行動を私に促している。

「はい、分かりました」

 

さて、約束の時間。

私は息子に近くに到着したことを知らせる連絡を入れた。

そこから一緒にいこうという提案だった。

ただ、息子はまだ用意が済んでいないだろうと思い、部屋まで上がりチャイムを鳴らした。

予想通り、息子はまだトイレを済ませておらず、しばし部屋に上がり、待つことに。

強迫性障害の気を持つ彼は、出かける前にはかなり長くトイレに籠る。それならその分早くから入っていればいいけれど、私が到着してから入るのはこれまでと同じだ。

諦めて、その間に部屋の様子を眺めて待つことにした。

当然、許可なく物に触れてはいけない。部屋の中央にただ立ち尽くし、四方八方を隈無く眺めるだけだ。

もうここは、息子の世界。手出しは無用だ。

しばらくして息子が、チェックは済みましたか?と笑いながら出てきた。

 

引っ越す前、私たちのマンションで、彼の部屋は足の踏み場も無いほど散乱し、カオスになっていた。そのお陰で、部屋の隅や本棚の後ろ、カーペットにはカビが発生し、荒れた時に出来たドアの欠けの修理で、引き上げ時には何万円も管理会社に取られてしまった。

引っ越して約3ヶ月。今ではかなり片付けが進み、それなりの秩序が見られるようになっていた。物の分類も進んでいる。生活するために一生懸命工夫していることも感じられる。床は掃除機をかけたようで、ティッシュやゴミは落ちていない。

「良いですね。」

そう伝えると、ニヤリと喜びを表していた。

表情は明るく、肌艶も良い。化粧水を塗ることにしたようだ。合うものが見つかったのだろう。

髪型も変化が見られた。鏡を見ては試行錯誤しているのだそうだ。

そこから生活の為に工夫している部分について、少し説明をしてくれた。

少しでも、新天地を住みやすくしたい、と主体的にあれこれ考えるのはとても良い。それもこれも、「担当者」が定期的に訪問してくれることが励みになっているからだろうと思う。

 

部屋を後にし、並んで話しながら移動する。

開場時間には間に合い、手荷物検査の列に並ぶ。

向かいのビルの出入り口から、ジャケットは着ているが、ガタイの良い男性達が余裕の表情を浮かべ歩いてくるのが見えた。

「あの人たち、自信たっぷりって感じやな」と息子が言った。

「うん?まぁそうやね。」「議員か警察関係の人なんじゃない?」と答えた。

 

空港の様に手荷物をトレーに乗せ、金属探知機を当てられ、クリアして入り口へと進む。

どの辺りの席に行く?と尋ねようと息子の方を振り向いたところ、ぴったり後ろにいたはずの息子がいない。あれ???どこに行ったのだろう?と、また来た道を戻る。

あ!いたいた。なんか関係者と話しこんでいる。まさか、捕まったのか?というのは冗談だけれども、その他に関係者と話し込む理由が見つからない。

あたかも自分も関係者かのように、びったり横に並んで立ち、スーツの年配の男性と一緒に手荷物検査の方を見ながら、深刻そうに言葉を交わしている。「う〜ん、、、なるほど、そうなんですね」としたり顔だ。なんだなんだ?

まだ質問している息子の後ろで、居心地の悪さを感じながら、早く話しが終わってくれないかと気を揉んだ。

「じゃ、失礼します。ありがとうございました!」

そう丁寧に、律儀に頭を下げて挨拶し終えた息子に、すぐさま「知ってる人?何話してたん?」と聞いた。

「いや、知らん人。周りで警備に当たってる人ってどこの人ですかって尋ねてた。警察の人やって」

と息子。

やはり知らない人だったのか。

知らない人と話していたようには見えない立ち位置と振る舞いだった。

そうだ。この人は幼い頃は自閉スペクトラム症の中でも積極奇異型だった。全く知らない相手と、あたかも前から知り合いの様に振る舞える人、、、というのを思い出した。引きこもりで長らく他者と関わって来なかったので忘れていた。

調子がよくなった途端、そういう傾向が現れたことに驚き苦笑しつつ、早く席につこう、と促した。

「それにしても、警備なのだから警察の人かなって検討つくよね」と言うと、「そうなんや、オレ、分からんかった」と答えた。

要はジャケットを着た私服警官ということだろう。議員にしてはネクタイをせず、ガタイが良く、圧がある。そういうところから検討がつくかと思うが、それは彼が年齢的には20代後半になっていても、引きこもっていた年月分、社会経験がなかった影響もあるのかもしれない。出歩かなかったことで、地理的な知識も少ない。

これは、今から経験すれば、取り戻せるよ。と励ました。

 

講演会が始まり、関係者のスピーチが始まった。

息子が壇上に並ぶ関係者を見ていて、「あ!」と絶句している。

どうした?と聞くと、、、

「ほら、前で並んで座った人!」

「さっき、俺が入り口で尋ねてた人!」

え!?

と私もメガネをかけ直し、よく見てみた。

うわ、、、ほんまや。

なんと。

息子が声をかけ、びったり横に並んで話し込んだ相手は、そこの市議会議員の議長さんだったのだ。

親子で苦笑。

「なんか、話しやすそうだったから〜」と慌てて言い訳の様に呟く息子。

相変わらず、やってくれますな。息子よ。

子どもの頃からいつも、あっ!と驚かしてくれる息子っぷりが健在だった。

 

壇上には色んな人が並んでいる。近隣の市からも応援者が駆けつけているのだろう。紹介され、ひと言ずつ挨拶をする。

立候補者の演説も終わり、いよいよ小泉進次郎氏の登場だ。

 

テレビで見るまんまの人。それが息子と私2人の印象だった。

よく通る声で、ゆっくり話す。

北朝鮮からロシアに兵士が送られ、その兵士がウクライナに送られ〜、、、という下りは、連日ショート動画に流れているまんまだった。

その日の朝も、たまたま流れてきたのを見たところだ。同じ話をするんだな、というのが感想だった。

多くの人が今は同じ動画を見ているだろうことは予想できる。それなら少し、違う話もしたらどうだろう?と思ったのは私だけだろうか。

それ以外はそこの土地によって違う話をしているのかもしれないけれど。

 

その後は話の内容よりも、小泉氏の存在感の方が気になった。

周りの議員に比べ、圧倒的な存在感だ。その存在感はどこから滲み出てくるのだろうか。

それは日々の積み重ねもあるのだろうが、一つ顕著に周りと違っていたことは、服装だった。

周りには襟がヨレヨレの人、曲がっている人、開き過ぎている人、ネクタイが地味な人、髪がボサボサの人、が何人も見受けられる。

その中で、圧倒的に小泉氏のネクタイは、はっきりとした青色で目立っている。襟も曲がってなどいない。勿論スーツ自体高価な物なのかもしれない。でも、襟とネクタイ、たった、それだけでも、周りから浮き出たオーラを放つのだ。そこにあの笑顔とよく通る声、堂々とした態度が加われば充分だ。

昔から言われることだけれど、息子もそれを実際に感じて今後の参考にしてくれたら、それだけでも来た甲斐があったというものだ。

 

話の内容はともかく、

小泉氏の人柄の良さだけは伝わった。

 

さて、この記事をアップする頃には、衆院選の結果は大方出ていることだろう。

日本の運命やいかに。

 

これまでの長いブランクを埋めるかのこどく、積極的に動き出した息子の誘いのおかげで、私も面白い経験をすることとなった。

開場を後にする時、息子はそこで働く関係者達に興味深そうに目を走らせていた。

 

そろそろ、俺も働こうかな。

どう思う?

 

 

そんなことを口にしていた。

 

 

筋力の大切さ。千里の道も一歩から。

前回は「右脳に傷のある少年」について書きました。

私の元へは、他にも脳性麻痺により同じように左半身に麻痺を持つお子さんや、正式な診断名はついておられませんが、全身の筋力の発達が遅れていて、協調運動が苦手で、空間認知能力も弱いといったお子さんなども通われていました。

子どもたちはそれぞれに発達の遅れを持ちながらも、身体の骨格は年相応に成長していかれます。

女性は遺伝的な要素もありますが、年頃になるとホルモンの影響から、丸みを帯びやすいという傾向があります。

男性は中学生あたりから、みるみると大人の骨格へと変化していかれます。

どちらも第二次性徴期にはホルモンの影響を顕著に受けるようになり、精神面とのバランスが取りにくくなり、不安定な時期を迎えます。

身体の成長に伴って出てくるのが体重の問題です。

成長に沿って、日々の活動量も増えていくことが望ましいですが、様々な要因で、これが叶わない時、次第にエネルギーが余り、身体に蓄積されていきます。

身体に蓄積されたエネルギーは、体重の増加となって現れていきます。

体重の増加のスピードに、筋肉量が伴わないと、子ども本人は体重が軽かった時に比べて数倍負荷がかかり動くことがしんどくなります。

動くことがしんどくなると、動くことへの抵抗が増え、ますます活動量が減り、次第に日常生活の動作はもとより、運動は特に苦手になっていきます。

成長に沿って、筋肉も並行してつけていくことができていれば問題ありませんが、そうではない時、身体の重みを支える負担は関節にかかってきます。

 

筋肉は、関節の周りにつくことで、関節を外側に引っ張る役目をしてくれるので、重みがかかるのを緩和してくれます。

その筋肉が関節周りについていないと、関節の骨と骨の間の軟骨がすり減り、やがて骨と骨が当たり、痛みが出るようになります。

こうなると、ますます動くことは困難になります。

 

私も、年齢を重ね、つくづく体は消耗品だなと実感します。一旦すり減った軟骨や歪んだ関節や骨はなかなか治るものではないでしょう。そう考えると恐ろしくなります。

すり減る前に、歪む前に、手立てを打つことができれば、それに越したことはありません。

そこで、必要となるのは、やはり筋肉です。

 

筋肉をつける、といっても、元々身体が弱かったり、力が入りづらかったりする子どもたちですから、アスリートの様にトレーニングができるわけではありません。

腕立て伏せ、腹筋、スクワット、などといった、オーソドックスなトレーニングができなくても、体を動かすことがままならない子どもたちでもできるトレーニングもあります。

 

例えば、

わたしの元には中学生の段階で、全身の筋力が弱く、手先、足先への神経も行き届いていない為、自分の思うように体をコントロールできないお子さんも通われていました。

全身の筋力が弱く、神経が行き届いていない、という状態では、例えば硬いものを噛む顎の力が弱い、全身のボディイメージが掴めず、髪をとく(頭にブラシを当てる)、歯を磨く(歯に歯ブラシのブラシ部分を当てる)ことができない、髪が洗えない、箸、スプーン、フォークが使いづらい、鉛筆を持ちにくい、筆圧が弱い、服の着脱がしにくい、傘をさせない、などといった生活の中での基本的動作というものにも困難が生じます。

ボディイメージが掴めない、という状態には空間認知能力というものが関与しています。

全身の神経が行き届いていないとき、自分の手足の感覚や身体の向き、物と自分の位置なども掴みにくく、動き自体が阻まれ、自然と動きが少なく緩慢になります。

自分の手足を動かす為に、自分の手足が今どこにあり、どういう状態にあるか、をまずは確認することに時間がかかります。

自分の身体の位置を掴めたら、次は物との距離を目を使って測ります。

次はその距離が、自分の能力で可能かどうかの検討に入ります。

自信がなければ、そこでストップし、自信があれば勇気が出て行動に移そうとします。

ただ、それだけで成功するとは限らず、目測した距離が実際とは違う場合も多々あります。

一つ、行動に移すにも、本人なりに行動を完結する為の時間が必要となります。

これを介助者がずっと見守ろうと思うと、想像を絶する時間が過ぎていく、ということになります。

なので、親御さんが全介助に近い形でずっと付き添われていたわけなのですが、私の元では、利用日には様々な運動に取り組んでもらっていました。

•床に手を付く。

•手足をついた四足歩行で前進、後退、横歩き、障害物をまたぐ、スロープを上り下りする。

という動きは特に基本でした。

•初めは、ハイハイの様に膝をついたところからでも構いません。

•必ず、「手はパーで開くよ」と、見える位置で手を開いたところを見せてあげ、イメージしてから実際に本人の手を広げてもらうことが大切です。

•指が丸まっていると、手首で体を支えることになります。初めはそれでも腕の力がつくので良いのですが、指を広げ、指先に力が入っていくことを目的としているので、徐々に5本の指を床につけて進めるように段階を踏みます。

指先の巧緻性を養う為に、細かな作業から入る方が多いですが、特に粗大運動から始めることが大切です。

身体の発達は、中心(体幹)から末端(指先)へと進むからです。

また、四足歩行は固有受容覚(自分の体のパーツがどこにあるか、筋肉や関節の動きを感じる)を使いボディイメージが掴めるようになりますし、頭を下げることから前庭覚(体の動きや傾き、スピード)を養う事ができます。

•1本のタオルの端と端をお互いに持って引っ張りあいをすることで「掴む」「引く」という感覚が養えます。

•その場で両足ジャンプをする。ほんの少しでも足が床から離れたり、回数が一回でも増えたらハイタッチで喜び合う。

といった体全身を動かす簡単なメニューから始め、

•次第にボールをキャッチする、投げる、目で追うなどといった物を使った動き、集団での活動などへも広げていきました。

 

利用回数が少ない場合は、ご自宅でもできるメニューに取り組んでもらい、進捗状況を確認していました。

例えば

サランラップなどの芯を、両手で持てるお子さんなら、腰の辺りで持ってもらい、片足ずつ、その芯に当たる程度に太ももを上げます。右、左、交互にゆっくりでいいので当てます。自分で持つと転倒しそうな場合は体を軽く支えたり、芯を持ってあげたりしても良いです。

•椅子に座ったまま、ご自身で芯を持ち、太ももを当てるところから始めてもOKです。

•何十回もしなくても、毎日5回するだけでも、1年後、2年頃には違いが出てきます。

私の元に来られていた方は、毎日5回続け、高校生の頃には見違えるように歩いたり走ったりできるようになられました。

 

•手はその場でグーパーをするだけでも違ってきます。ゆっくり本人のペースで良いので、指を広げ、また閉じる。それを5回。

•次に脳に刺激を入れ、より動かしやすくするために、「グー!パー!」と、ややリズムをつけ、少しだけ速いテンポで声かけをします。この時、声かけは動作より1テンポ速めにかけなければ効果がありません。脳に伝わってから指に指令が届くまでにタイムラグがあるからです。

 

それは、トレーニングの様に見えないくらいの負荷かもしれませんが、ままならない子どもたちからすれば、私たちがトレーニングを行って受けるものと変わらないほどの負荷がかかっていることになります。

ただ厳しいだけでは嫌になります。

ほんの少しいつもより頑張れた、そこで「できたね!」「がんばったね!」で終われることが大切です。

また明日もしよう♪

本人がそう思えるからです。

 

ここで、別の方のお話ですが、私が出逢った頃にはすでに高校生で体が大きくなっておられた方は、筋力が間に合わないまま成長されていたので、麻痺側の膝が負荷を受けやすく、少し無理をすると膝にダメージがいくようになっておられました。

こうなると、筋力をつける為の簡単な動きも制限を受け、食事も制限していかなくてはならなくなり、なかなか良いスパイラルに入ることができない、ということがありました。

麻痺があるということは、痺れを感じたり、麻痺の無い方に比べてドンと重く感じたりすることが多いので、余計に動く為に必要な力が増えるということになります。

身体が少しでも軽い間に、地道ではありますが、少しずつ負荷をかけ、筋肉量を増やしていってあげることが、成人期に向けて大切であると、この仕事をしていてヒシヒシと感じていることでもあります。

 

手や腕、足の筋や腱も、伸び縮みが少ないと、すぐに硬く縮みがちです。

縮んだアキレス腱を伸ばす手術を受けた方もいらっしゃいますが、手術は受けても、その後、踵を床につけて歩く、という意識を続け、歩行訓練をしなくては、踵を上げて歩いていたころの癖が治らず、また腱が硬くなる、という場合があります。

自閉症も併せ持っている場合は、特につま先立ち歩きになりがちですが、こちらも前重心になっている上体を骨盤の上に垂直になるように軽く戻し、踵をつけた状態から歩き始めるという重心の修整を入れてあげる必要があります。

手を引く速度が速いと、また、上体が前傾し、腰が引けた状態で歩くことになるので、 繋ぐ手は上体が真っ直ぐを保てる高さに戻し、本人の手に力が入っても、高さが変わらない様に、介助者は腕に力を入れ、保つことが大切です。

もし、お一人でも歩けるようなら、「手を振って歩く、手を振って歩く」と、歩調にきちっとテンポを合わせて、介助者も同時に手を大きく振って歩く(本人と介助者との間の腕が同時に引っ付いて、磁石の様にひっぱるイメージで)ことで、本人たちの意識が腕に行き、振りやすくなります。

ある方はこれを重点的にしてだけで、左麻痺により、左が重く、体を左右に振ることで原動力にし歩いていたのが改善し、歩幅も広がり歩く速度が速くなっていました。

 

太ももは筋力がつくことで、足は上に引き上げやすくなり、つま先が上がり、着地が安定しだします。

外反母趾の場合は土踏まずを支える、足に合ったインソールを入れられると良いです。

 

不安定になる精神面にも細かな配慮をしながら、楽しく取り組みを続けられると、きっと効果が感じられる時が来ると思います。

 

わたしもバレーボールを18年もしていた頃は筋肉量がかなりあり、サーブは重みがあって受けた人が飛ばされる為、取れない!と言われていました。

また、他の女性たちが開けられないペットボトルのキャップなども、渡されると軽く開けることができていました。

運動量が減り、約10年かかって筋肉量が減った時、今まで出来ていたことが出来なくなっていく現象を目の当たりにし、あれは筋肉の無せる技だったのか!と初めて実感している今日この頃です。

また、別の時期に両膝をそれぞれケガし、縫ったことにより、一時足の筋力が衰え、足底筋も減ったことで足裏の痛みや脛の外側に痺れが来ていた時期がありました。一キロも歩けば痛みが出て仕事に支障が出ると心配していましたが、たまたまハードな親子体操の講師を引き受けたことで、走り回らざるを得なくなり、結果として、それが幸いし、また足底筋や脛の前方部分、そして膝上から太ももにかけての筋力が復活し、足の故障が1年で自然消滅しました。

筋肉がある時には、筋肉があり、それによって恩恵を受けているということはなかなか実感しにくいものですが、無くなって初めて、筋肉の働き、運動というものの重要性、を身を持って知りました。

私の例は極端ですが、参考までに書いてみました。

 

これは時々書いていることですが、筋肉をつけるには、やはり「千里の道も一歩から」。

こつこつと続けることが身を助けます。

 

 

右脳に傷を負った少年。

私が小学校で児童を支援する職について初めて出逢ったのは右脳に傷を負った少年でした。

小学2年生〜卒業までは小学校で担当し、その後、療育機関に移ってからは高1から卒業まで発達支援を行いました。

 

右脳に傷があるということは、左半身に不随や痺れが生じることを意味します。

右脳に傷があることがどれくらい関与しているかはわかりませんが、その少年は自閉症としても重度に値する判定が下り、重いADHD特有の特性も併せ持っておられ、学校ではそう認識されていました。

しかし、聞き返すことができなかったのですが、高機能、、、という言葉を耳にしたこともありました。右脳に損傷を受けたことによる、高次機能障害のことだったのか、高機能自閉症のことだったのか今となっては分からずじまいです。

どちらにしても、目の前の少年には、重いコミュニケーションの障がいがあり、言葉はオウム返し(エコラリア)、高い衝動性、切れ切れの集中力、そして感情面では非常に怒りっぽい反面、緊張する場面ではゲラゲラ笑うといった、感情表現のスイッチが私たちのそれとは違う場所に繋がれている様な反応の仕方をしていました。

そして何より、偏りはあるけれど、その興味、集中の続くことにはずば抜けて高い知性を持ち合わせていました。特に数学的には3桁✕3桁といった計算は低学年の時から瞬時に解けていました。また、素数などの特定の数列には固執といえるほどの関心を持っていました。カレンダーも過去何年も遡って曜日まで言い当てることができます。

所謂サヴァン症候群といえる状態でした。

しかし、サヴァンは左脳に傷がある場合に右脳がそれをカバーしようとその潜在的な力を発揮して開花すると言われています。ではこの少年は左脳に損傷を?とも考えますが、左半身に麻痺が残っていることを見ても右脳に傷があるということは確かではないかと思うのです。

とにかく、一瞬の隙でもあれば、気配を消してその場から脱走してしまうことができるため、一時も目離しならない状態のお子さんでした。

 

私が出逢った小学2年生の段階で、その少年は自力歩行は可能で、お母さん譲りの運動神経の良さから、小走りなら走ることもでき、体育は他の児童と一緒に受けることもできていました。

ただ、左半身に麻痺からくる拘縮がみられ、2年生の時では左腕はいつも肘から軽く曲げられ、手首は内向きに曲がり、指は親指、人差し指、中指以外は自由が利きにくく、開きにくい状態でした。

足は自閉症特有のつま先歩きでもあり、左足は軽い拘縮から、そのつま先だちが右よりも強い様子で、恐らく力も入りずらかったことと思います。ジャンプの着地は主に右足に頼られていました。

その少年の幼少期、園時代のことは良く知りません。どれくらい、リハビリがあったのか、言葉少ななお母さんから情報を得たことがありませんでした。

ただ、学校に上がってからは月に一度のOTに通っておられました。

3年生の頃には、そのOTの先生から、この子にはもう教えることはない、と言われ、予約を取らなくなっていました。その先生の言葉の本意は分かりません。自閉症による、コンタクトの取りづらさから、教えられない、という意味が含まれていたようにも感じますが、もし、ハンデを負っていなければ、オリンピック選手にでもなれるほど、ハイパーな能力の持ち主であるとは言われていたようですから、右脳の傷による、重いハンデを生まれながらの能力でカバーされていたことはその後の彼の行動を見ていても確かでした。

ジャンプの着地は右足、と書いたように、小5の時には体育の単元であったハードルを、右足で踏み切り右足で着地する、という離れ技を自力で編み出していましたし、高校生になってからは誰よりも高くゴム跳びを両足ジャンプで飛び越すほど、その瞬発力と体幹、バランス力は素晴らしいものを持っていました。

全身が筋肉質で、小柄で華奢な小学生ながら背中は大人顔負けの筋肉が浮かび上がっていました。

左半身に麻痺と拘縮があり、筋力が弱い中、それだけの能力を持つ右半身。

それは、成長の過程で、身体の捻れを引き起こす要因と成り得るものでした。

右側の持つ力がハイパーで、左を十分カバーできるからと、両手離しで喜べるわけではなかったのです。

早くから、その指摘がなされていたことを知っていた私は、日々、ただでさえ、多重の困難をその小さな身体に背負った彼に、不自由な左手を、庇うのではなく、精一杯使うことを要求しました。

それは、医師からの指示でもあったのです。

医師からの指示だから、といっても、幼気な、まだ発達の遅れから内面も幼いその少年に、更なる困難を課す非情さを、自分が遂行しなければならない苦悩は私としても辛いものがありました。

優しい支援員なら、すかさず、左手の代わりに補助を進んでしたことと思います。

でも、私はいつも曲げられた左手にタッチし、「左も使うよ」と促しました。

タッチされると、彼は、しぶしぶ曲げていた腕を伸ばしやすい角度に回転させ、ぐぅっと伸ばした後、手首も伸ばし、指を開く努力をしました。

それでも手首は伸び切らないし、薬指、小指は曲げられたままです。

親指、人差し指、中指は開きますが、恐らく開くのに力がいるのでしょう。いつも親指と人差し指には力が入っていました。若しくは、強張った状態だったのかもしれません。

その力が入った3本の指で、授業で使うノートやプリントが動かないように角を押さえます。

細かな物は小指側の側面をまず机につけ、小指を少し開いて握るようにして掴みます。指先では掴むことができません。

国語の音読でも、左側はその3本の指で教科書を持って読み進めました。行を右手で辿って読まなければならない時は、左手だけでは教科書を支えられない為、私が代わりに持ってサポートしました。

着替えは自閉症ADHD特有の切れ切れの集中力の為、一人で完遂するのは困難で、集中が切れ切れになるのを防ぐ為に、一連の行動が最後まで終えるよう、途中でフェイドアウトしたい彼を私の身体でさりげなく壁を作り、自然と進めないようにしながらも、次の工程を、「肌着着るよ」「ズボン履くよ」「靴下履くよ」と言う様に、端的に促し対象となる衣服を手渡しました。成長してくると、この手渡しは無くし、自分で取ってもらうようにスライドしていきました。こうすることで、次第に一連の行動を終えるまで集中が続く様になっていくのです。

ただ、上着の着脱や、ズボンの、上げ下ろしは左半身が不自由ですと、自力だけでは困難です。

できるだけ、その時々の本人の力で頑張ってもらいながら、限界だなというところからは補助を入れるというやり方でそれ以外は見守るスタンスでした。

困難の多い、彼の身の上を考えると、本当に酷で、見ている側は可哀想だな、という感情がどうしても湧きがちになります。

でも、彼が成長の過程で、側に誰もいない時、上着もズボンも履けないで、暑さ寒さの中辛抱せざるを得なかったり、どうしようもなくその姿で人前に助けを呼びに行かざるを得ないことを想像すると、やはり、今は大変でも、この先必ず努力が彼を助けることになる、と、そのことをいつも自分に言い聞かせ、心を鬼にして、淡々と側で寄り添い続けました。

寄り添うというのは、何もいつも優しく手助けすることではありません。

不自由な彼が、体育の時間の前後に着替えを行う度に、横でつく者はそれを待つという忍耐を課せられます。夏は暑く、冬は寒い教室で、じっと、必要なタイミングを見計らい、フェイドアウトを防止し、一連の行動を促し、完結するまでを見守るということは、側にいる者にとっても非常にしんどく大変なことなのです。

でも、私たちが感じるそのしんどさ、大変さは、そっくりそのまま当事者である彼が感じていることでもあるのです。

その彼のしんどさを私たちも同じように感じながら、苦を共にする。

それもまた、寄り添う、ということに他ならないと、当時の私は彼から学ばさせてもらいました。

こういった補助する側の行動は、その日その時間、つく人によって違いが出ては良くありません。

つく側の人間の性格も考え方も様々ですが、ある人は可哀想という気持ちから殆どを手助けする。またはじっと待つ大変が嫌になり、時間に遅れない為に誰も見ていないからとサッと全部してあげる。ある人は関心がなく放置。

と、この様なことが繰り広げられるとどうなるかと言えば、当事者の子どもは当然優しく楽な方になびき依存しがちになります。担当が代わり、厳しい者がついた時には、楽な時間を過ごした分だけ、余計に厳しさを感じ、拒否したり荒れたりしてしまうことにも繋がります。

チームで対応方法やそこに至る深い理由まで見解を揃えて熟知しておかなければ、当事者の子どもが混乱してしまうのです。

これは介護、特に訪問介護でも言われていることですね。

大人の見解が分かれるくらい、半身に麻痺を持つ子どもの成長の傍らで関わるということは大変で難しいことでもあるということです。

さて、その少年は、殆どの体育や水泳、遠足などのイベントを、他の五体満足な定型発達と言われる子どもたちと同じように取り組み成長しました。勿論出来る範囲ではありますが、言ってみれば特別視しない環境に置かれ、極限に切磋琢磨した状態だったと思います。

小学校時代は、高機能障害か、または知的障がいとADHD を併せ持つ重度自閉症か、そういった、診断名を先生方は議論することが多くみられましたが、可能性のある診断名は勿論頭に入れながら、目の前のこの少年が、将来やってくる自立•自律する成人期の為に、今必要なのは何か、どうすれば、その必要なことを獲得出来るのか、その為に、どんな方法があるか、どこに補助があれば、他の児童と共に同じ空間を共有し、精一杯の学習や体験ができるか、を考え抜いた5年間でした。

その少年は、見事にそれに応え、高校生になる頃には、不自由だった左手は、物を掴む時には5本の指を大きく広げ、ゆっくりと1本1本ではありますが、器用に掴めるようになっていました。

彼は、小学校時代に刷り込まれた、「左も使う」という言葉を、ずっと守り、自分の意志で常に生活の中でも使ってきたのだろうと思います。

成長し、大きくなったその手は頼もしく、筋肉質な背中を見ていると、その人の誠実さが感じられ胸が熱くなったのを覚えています。

何が適切で、過剰な補助や配慮なのか、その時々で検討し、その人が定型発達児•者の中でも精一杯学習し体験、経験できる環境を作る。

それが本当のインクルージョンではないかと思います。

脳は可能性に満ちています。

損傷を受けた場所をカバーしようと他の箇所が変わりに活発に活動し、補い出すことがあります。

初めは繋がっていなかった神経も隅々まで繋がりだします。

それは、切磋琢磨し懸命に努力することで可能になります。

可能にするために、もう一つ忘れてはいけないのは、心の繋がりです。

共に、苦楽を共にし、信頼関係がある人、仲間との心の交流があってこそ、困難なことも楽しく、また、励まされ、もうちょっと頑張ろう、もう一歩進もう、と頑張れるのです。

私たちに出来ることは、そんな彼らを信じ、共に歩むことです。

決して諦めず、その人たちの手を取り、暗い道を照らす光の役割を担うことです。

 

この先の長い年月を想うと、心が沈むこともあると思います。

それでも子どもたちの成長は待ったなしです。

身体が軽いからできること。骨組みや筋肉がつくからできること。その年齢にしかできないことがあります。

沈むことがあっても止まっている暇はありません。

前を向いて進もうとしている子どもたちの為に、今、同じ様なお子さんを抱えているお父さん、お母さんを応援しています。

 

 

 

 

関連するお話をここに掲載します。

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息子の引っ越し。

とうとう大晦日になってしまいました。

書きたいと思いながら、息子については書ききれない想いで、なかなか書き進みませんでした。

でもどうしても今年中に書きたく、今紅白を観ながら手直ししています。

 

 

私たちが新居に越してから、1ヶ月半が経ちました。

息子は私たちよりも半月ほど早い、11月始めに、最終的に自分で決定した部屋へと引っ越していきました。

私たちと再び同居を開始して1年と9ヶ月目でした。

私たちと同居していたマンションの一室で過ごしていたので、荷物は多くなさそうなものですが、元々大学時代は長野の松本で、その後も暫く地元で、私が扶養する中で一人暮らしはしていたので、それなりに荷物は多く、何気にインテリアに関心もあり、本棚、収納棚が幾つもあって、引越し業者の見積もりでも、単身パックでも3,4万はかかるとのことでした。

ただでさえ、初期費用や不足していた家電の買い足しなどで20万以上の出費。その上、引っ越し代までとなると、さすがに費用がかかりすぎます。

夫とも相談の結果、引っ越し屋さんには頼まずに、私と息子と2人で全て荷物の運搬をすることになりました。

 

息子の引っ越しに関しては、息子は引きこもっていて(買い物や散歩、散髪、病院などへは行けます)、所得がありません。

だからといって、簡単にこちらが全ての代金を出してやるわけにはいかないのです。

親のお金は無制限ではありませんし、何でも限度がある、と伝えることも、これから自分で歩んでいくという自覚に繋がる、そう考えました。

働いていなくても、所得がなくても。体調が万全ではなくても、もう成人した大人として、ここまでカバーしてもらえば、後はどこで、自分の働きを見せるのか。

もう大人ですから、丸ごと他人任せではなく、どこの部分を自分が担うか、といった視点をもってもらいたいと考えていました

しかも、自分の引っ越しですからね。荷物を運ぶことくらい、やむを得ないでしょう。

 

むしろ息子は自分の荷物です。私は巻き添え(笑)。業者に頼まないということは、私が大変になるということ。私とて、心は揺れました。

それでも覚悟を決めて、息子には「引っ越し代は出ないので、自分たちでします」と伝えました。

息子は唖然としていました。

 

前の記事にも書いた通り、とにかくマンションから荷物を運び出すことが大変なのです。初めから私もうんざりしていましたが、息子はもっとうんざりしていたと思います。

同居する時も、2人で運んだので、あの悪夢がまた再来!?と思ったことでしょう。それは私も同じでした。

 

引っ越し作業開始日が近づくにつれ、また息子の様子も少しずつ低迷していくのが見て取れました。これまでの扶養という形とは違い、今回は本当に私たちと世帯分離をするのです。その不安や葛藤はとても大きいものだったことでしょう。私は内心、本当に実行できるだろうか、とハラハラしていました。

実行できなければ、私たちも息子を置いてマンションを期日までに出ることができなくなります。息子の進捗状況と、私たちのそれを、私がコントロールしつつ、緊張の続く毎日でした。

しかし、グッと堪えて息子を信じて待つしかありませんでした。

いつ「引っ越さない」と言い出すかと、気が気ではありませんでした。しかし、息子は結局最後まで不思議とその言葉は口にしませんでした。

この頃になるとさすがに息子自身も、後には引けないことが分かっていたのでしょう。

ここが、一つ大きなポイントだったと思います。

 

ところが、「どうして業者に頼まないのか」と文句をたらたらと言うことだけは続きました。

「そんなに引越ししたければ、自分でしろ!」という言葉も飛び出していました。この手のやり取りは小学生の頃からありました。自我の境界線(バウンダリー)という、自分と他者の心の境界線が弱いタイプの息子には、この「自分」という言葉がその時々で誰を指すのかが分からない、という傾向がありました。発達障がいの子どもたちにも時々見られる傾向です。

「この引っ越しはあなたの引っ越し。自分というのはあなた。私はただの手伝いです」と説明すると、初めてハッとする表情を見せていました。自分の言っていることのおかしさにようやく気づいたのかもしれません。

 

今回は軽トラも借りません。

私の軽自動車で運びます。これがよく載るんです。ホンダのN-WAGON。N-BOXならもっと載ることでしょう。(でもN-BOXが好きじゃない、、、。それ故に、何度も何度も往復しなければなりません。

それが余計に困難を大きく見せていました。

 

初日。

息子は朝早く起き出し、段取りを私に確認した上で動きだしました。まずは、とにもかくにも大切にしている本の数々を運び出したいという意向でした。彼は人文学部社会学科でした。特に貧困層の子どもたちについて高い関心を持っていました。本の多くは社会問題や児童心理についてのものでした。

次に大切な服とハンガー類、そして本棚などを車に詰め込み、不動産屋で鍵を受け取りました。

買った冷蔵庫の受け取り、ガス開栓の立ち会い、ネット工事、と夕方までその日はしっかりと立ち回ることができていました。

しかし、疲れたのでしょう。

2日目は全く起きることが出来ませんでした。

残りの荷造りも7割できていません。指示を出してくれれば私も荷造りして運び出すくらいはできるのですが、潔癖症のところや拘りもあって、箱詰めは人に触らせたくないと強く主張するので手出しができません。無理にしても揉めるだけ。そしてこれは息子の引っ越しです。息子がするなというのです。それによって後が困ることになっても、それは本来息子の責任。そう自分に言い聞かし、この日は何もせずに過ごしました。

 

実は、この引っ越し、息子にとって、生活保護生活の始まりも意味しています。

体調が安定しないというのは本当です。

しかし、その「体調が安定しない」要素が複雑に多く絡み合っていて、それによって安定しないという面も強く出ているのです。

その中の一つの要素に、なんとしてでも親にすがって生きていこう、という気持ちが潜んでいました。本人は強く否定しながらも、時折ポツリとそれに関した気持ちを吐露しています。

私から離れまいと固執するからこそ、自分の思うようにならないと腹を立て、なんとか思い通りにさせようと、あの手この手で絡んできていたのです。これは自閉スペクトラム症の特性の中の一つでもあります。閉じられた空間、関係性の中に置かれると、その空間や関係性がパターン化し、視点を変える、思考を変える、出方を変える、関係性を変える、生活習慣を変える、といったことがしにくくなります。そして、本人もそのことになかなか気づけなくなり、揉めていくのです。

 

家族で体調が悪い者がいれば、家族内で面倒を見てあげることができればそれが1番良いと私も思いますけれど、こういった絡み行動が強く出る場合は関係性も改善しにくく、なかなかに困難であり、、私もいつまで元気でいるか分からない年齢になってきました。

このまま引きこもった状態で、私がいなくなった時、行政とも繋がらず、病院とも繋がらず、誰とも連絡を取っていなければ、彼は自室で成すすべもなく、困窮することになりますから、何としてでも私以外の他者との繋がりを作っておかなくてはいけません。

そこで、この1年と9ヶ月の間、本当に過酷なやり取りを重ねた結果、色々と事態が動きだしていました。

結果として彼が「まだ働かない」という選択をしたことによって、残された道は「生活保護を受ける」ということになりました。

自分の生活を行政に援助してもらいながら、これからの人生を他者との関わりの中で過ごす、という方向へとなんとか繋ぐことができたのでした。

 

息子は長い間、自分が親に依存してなんとか縋りつこうとして足掻き、余計に不安、反発、絡み行動が出ていることには気づいていませんでした。いえ、もしかしたらどこかで感じていたのかもしれませんが、認めたくない気持ちが余計に事を悪化させていたのだろうと思います。

だからこそ、体調が悪い要因の内の一つとして、世帯分離を図り、距離を取り、他者との環境に入ることで、それがどう作用するか、慎重に探っていく方が良い段階に来たのです。

甘えの効かない他者との関係性の中で、自分が理性的に振る舞えるかどうかで、それまでの自分の状態に気づくことになると思うからです。

親の関与がない、自分が主体の環境では、起こる出来事や状況は全て「自分の責任」です。1度そこに立ち返り、自分の認知の仕方を他者と話す中で修正していってもらいたいというのが私の願いです。

私ができること、すべきことは全て終わったのです。

 

さて、そういう考えで進めている世帯分離。

生活保護の申請の為に、引っ越しを完了しておかなければない日まで残すところあと4日。

3日目、昨日のゴネゴネが嘘の様に、朝から晴れやかな表情で起きてきます。2日目に体調が良くなかったのは本当だったのでしょう。

よく眠り、気分が良い息子は、さあ!今日は作業せなあかんな!とやる気を見せていました。そして、

「その前に、散歩に行って来るか♪」

と言うのです。

散歩ね。そりゃいいでしょう。お気に入りの川沿いの散歩コース、ここから行けるのももう最後かも。

ただ、せっかくチャージされた体力は、その散歩で消費され、きっと作業はできないことでしょう。

心の中ではそう思いつつ、やる気を削ぎたくはありませんし、「やる」と言った気持ちも尊重したいです。結果は分かっているけれど、それでも本人の本気度を見るために、

「そうですか、どうぞ」

とだけ言って任せることにしました。

とにかく散歩のあとは箱詰めを進める、という約束で、私たちは元々合った予定の為に夕方まで家を明けることになります。

出先からも気になり連絡しますが、反応はありません。

帰ったら即また運びだす作業を開始する約束でしたが、帰宅すると案の定、息子は寝ており、何一つ進んではいませんでした。

そう。息子は散歩で全ての体力を消耗したのです。

4日目、まだ朦朧とする息子を励まし、とにかく箱詰め作業を進めることを促しました。私は詰められた段ボールをひたすら車へと運びます。私の勢いが凄いのと、休まずひたすら運ぶので、さすがの息子も「少し休んだらどうですか」と声をかけてくるほどでした。

それでも手を止めない私を見て、恐らくその殺気に何か感じるものがあったのでしょう。

ようやく息子にも火がつき、そこからは二人三脚で、何度も転居先へと往復して運び、何とか、生活を始めている体裁か取れたのでした。

この頃になると、息子は別人のような表情になっていました。

 

こうして息子は一人で生活を始め、生活保護の担当者とやり取りしながら、自立の道を歩き始めました。

 

1年前、年の離れた友達の女性が、とにかく中山寺をお参りしなさい。必ず願いは叶う。と話してくれました。

私は彼女の言葉を信じ、夫と初詣は中山寺へ詣り、息子のことをお願いしました。

 

今年が暮れるという間際。本当に息子は私たちから離れ、他者の中で歩きだしました。

 

先日その彼女から電話をいただき、そのことを話しました。

 

願いは本当に叶いましたよ。と。

 

息子はこの大晦日、梅田にいました。

久しぶりの梅田です。

初売りで買う値打ちの服があるかどうか、下調べをしているのだそうです。

 

その声は張りがありました。

「そうか。いい服があるといいね。」

そう言って、電話を切りました。

まるで、今まで何もなかったかのような、普通の親子みたいな会話でした。

 

 

 

 

 

チョコレートケーキとカルピスソーダ。

因みに、、、

クリスマス会のおやつにお出ししたのは、チョコレートのショートケーキとカルピスソーダだ。

 

毎回、おやつにはこだわったものをお出ししている。

何に拘っているかというと、別に健康志向に傾いているということではなくて、こどもたちの様子をみながら、嫌いなものと好きなものを合わせたり、初めて食べるもの、今まで拒否していたもの、是非ご紹介したいもの、など、考えながらセレクトしている、ということ。勿論、夫が健康志向で食材には詳しい(厳しい)ので、そういった体に良いもの、をお出しする傾向にはあるし、夫手作りのおやつも登場したりする。

小学1年生から請け持ってきた子どもたちは、大変な偏食の人たちだったが、トレーニングを重ね、今では大嫌いだった野菜も食べるし、初見のものにも果敢に挑戦し、出されたものは残さない、という大変頼もしい人たちに変身しているし、私と一緒なら特に苦手なものも食べられる!と本人たちが理解しているようだ。

ただ、最近入会されたお子さんは、まだそこまでの関係性に至っていない。

 

そんな中でお出ししたチョコケーキとカルピスソーダ

チョコケーキはその最近入会されたお子さんの希望だ。

なるべく普段はチョコを出さないようにしている。中学生となっても、お母さん方はまだチョコを敬遠している為だ。何故なら、虫歯になると、感覚過敏があったり、治療の恐怖で大暴れしたりと大変になることが予想されるから。

それでも、食の幅を広げることは、お呼ばれした時やみんなで食卓を囲む時に何かと利点がある。

だから私はみんなと共に食べる機会に、お母さんの許可をいただいた上で少量からチャレンジしていた。なので、子どもたちは私と一緒に初めてチョコを食べて以来、段々好きになっているようだけれども、、、。

それでも毎年クリスマス会には生クリームと苺のショートをお出ししていた。さすがにチョコケーキはキツイから。

生クリームや苺だって、実はこの子どもたちは苦手だったのだが、今では喜んで食べている。

今回も迷ったが、新しいお子さんにも初めてのうちのクリスマス会を楽しんでもらうために、あえて今回はチョコを選んだ。

いや、厳密にいうと、チョコと生クリームの数を半々にして、各自選べるようにしていた。チョコは嫌だというお子さんもいるかもしれないから。

逆に、友達がチョコ!というと、つられて我も我もとチョコ!とみんながチョコを選ぶことも考えられる。

 

さて。

分かってはいたが、新しいお子さんに真っ先に選ばせてあげたところ、やはり勢いよく「チョコ!」と叫んだ。

すると、他のお子さんたちも、みんな「チョコ!」と意気込んで選び出していた。

これにはお母さん方が慌てだした。

「え?いいの!?あの、、、えっと、、、」と、もごもごしている。

聞くと、他のお子さん方は、やはりチョコケーキが初めてだったらしい。

いつも選ばないのに、食べたことないのに、友達の勢いにつられて選んでしまっていいの!?という戸惑いだったのだろう。

後で、「いらん!」と言われても変えることはできないし、ケーキが食べられなかったというのも残念すぎる、という親心。

ところが、いただきますをしてから、こどもたちは何の迷いもなくチョコケーキをパクパクと食べ初めた。

これにはお母さんたちがびっくり。

「今まで食べたことないのに」「絶対選ばなかったのに」と。

恐る恐るお母さんが「美味しい?」と聞いた。

こどもたちは「美味しい!」と満面の笑みだ。

信じられない!とお母さん方は仰け反っておられた。

友達の一人が勢いよく選ぶと、きっと美味しいものに違いない!という魔法がかかるよね(笑)

これが「友達」の力だ。

 

それともう一つ。

カルピスソーダ

お一人を除いて恐らく他のお子さんは炭酸飲料を飲まない。というか飲めない。

あの独特なシュワシュワの刺激が強くて苦手なのだ。

炭酸は砂糖もたくさん入っているし、飲まないなら飲まないでいい、というところもある。

だ、け、ど、、、

あえて今回は炭酸に挑戦しようと考えた。

クリスマスといえば、シャンメリー(笑)

そんなものに触れる機会も今後出てくるかもしれない。ちょっとクリスマス気分を味わえるというのもいいではないか。そう思ったのだ。

でもシャンメリーの栓が、ポン!と抜けたらびっくりするし、借りているお部屋だからそこまでは気が引ける。

それで、まだお母さん方の抵抗の少なそうな「カルピス」ソーダにした。

新しいお子さんは炭酸はまったく受け付けないそうだ。一度口にして驚いて以来、拒否だそうだ。

他のおこさんもお一人炭酸は飲まない人がいた。

「いやぁ、でもきっと〇〇さんは飲むで〜」と私が呪文を唱えたら、そのおこさんにスイッチが入り、おもむろに紙コップを手に取り、その新しいお子さんの方を向いて、カルピスソーダを飲みだした。

「飲んでる〜!」とお母さんが爆笑。

チョコケーキもソーダも初めて口にしたところを見たことになる。

飲んだお子さんは、友達の方を向いてドヤ顔をしている。

しかし、結局新しいお子さんはカルピスソーダは口にしなかった。

私がいつも使う「なめるだけ」作戦もあまり押さなかった。

小さい頃から受け持っているお子さんならもう少しお勧めするところだが、もう中学生になっている。甘えの効くお母さんのいるところで、推しても恐らく上手くいかないだろう。お母さんの感情も入るし、パニックになってもいけない。

なので、あっさりと「いいよ」と言って、お茶を飲んでもらった。

 

ここが、幼いころからトレーニングを受けているかいないかの違いではないかと思う。

受けているこどもたちは、一言で魔法がかかってどんどん新しい食べ物に挑戦していくことができている。新しいことを受け入れる、受け入れてみる、という許容範囲が広がっている。未知のものに挑戦し、初めは違和感があるけれど、やがて慣れ、親しむことができるようになるということを経験として獲得しているのである。

そして、どこか、みんなが食べているものを自分も食べられるようになりたい、と思っている節が感じられる。

 

炭酸飲料なんて、別に体に良いわけでもないし、飲まなければ飲まないでいい飲み物だ。

だから、無理して飲むこともないし、これをきっかけに、またどこかで、触れてもらえればいいな、と考えている。

とにもかくにも、家ではこれまでの経過の中で、うちのこどもはこうでなければ「ならない」、絶対に受け入れられない「はず」、と、いつからか「お母さんの拘り」になってしまい、お母さん自体が、こどものこだわりの「強化子」となってしまっていることが多いが、そんな我が子がお母さんの目の前で次々と「拘り」を脱ぎ捨てて、予想を超えた姿を現すところを見ていただくのが、私の会の目的の一つでもある。

そして、以前からそうなのだが、私の元で育った人たちは、最重度の自閉症で知的障がいも併せ持っているのにも関わらず、ある程度(高学年)成長してくると、他のお子さんに対して自分が小さいお子さんや友達へのお手本となるように行動してみせてくれるようになっていく。

今回、ソーダを自分も苦手なのに飲んでみせたお子さんも、そういう道筋を辿っている。

 

チョコケーキとカルピスソーダが、そんな子どもの力を引き出してくれた。

 

因みにカルピスソーダソーダーじゃないそーだ。

温かなクリスマス会。

今日はクリスマス会だった。

今日も朝から追加の作業。

昨日大方済ませ、それでも充分なのだけれど、時間がある限り出来ることがあればやっておきたかった。

今朝追加したのは、昨日アップしたクリアファイルで作るランプシェードの手順書だ。

画用紙に、簡潔に要点だけの図と言葉を書いていく。

言葉は必要最小限。

例えば「ハサミで線に沿って切る」と書くところは、ただ「きる」のみ。

線に沿って切るという説明は線とハサミで表せばそれで伝わる。

言葉が多いと、自閉症の人たちはどこが要点か分からなくなり、結果、何をすればいいか掴めない。

なので、限りなく情報を削ぎ落とした絵で、表すように工夫する。

口頭で説明もするが、口頭の説明は聞いた尻から記憶から消えていく。

ワーキングメモリ(短期記憶)が弱いので、消えても後から見れば分かるように視覚支援が必要なのだ。(文字は読める人たち)

でも、慣れていないと、紙面にありったけの情報を言葉で書いてしまって意味がなくなる。

もし短くても文章が必要なら、それは単語と単語の間に空白を開けて書く。文節ではなく、単語。

施設で責任者をしていた時は、指導員の先生方に口をすっぱくして、この書き方を指導していた。

今は自分の会に必要なことは全て自分でしている。

指導していた時のことを思い出しながら、私は自分の思うように書けば良いだけなのでいいけれど、指導を受ける側の先生方は大変だったろうな、なんて考えながら作業した。

もし、時間に余裕があれば歌も歌いたい。

いつもは「赤鼻のトナカイ」を歌うが、中学生になったので、「きよしこの夜」もいいな。しかしきよしこの夜は、歌詞が二通りあるから、どちらが良いか思案したが、簡単な方をチョイスし、歌詞カードを書いた。

メンバーが分かる問題を作って◯✕クイズもしよう、と問題を考えスマホのメモ機能に打ち込んだ。

忘れ物が無いように荷物の確認をして、夫と共に家を出発。

 

フリーになってから、活動に工作を入れるのは初めてだ。小学1年生から工作に取り組んできたメンバーだけれど、一緒にするのは2年半ぶりになる。

1年生のころは、本当に大変だった。感覚遊びも兼ねた紙粘土工作では指導員の目を盗んで紙粘土を食べようとする。小さくても一度スイッチが入れば凄まじい力とスピードを発揮する。私は全体の指導があるので、その間任せた指導員では手に負えなくて、攻防が激しく汗だくになっていたので交代すると途端に落ち着いて、なんとか作品を作ることができたというようなお子さんだったが、今では見本が、目の前にあっても、その通りに作るのではなく、自分のイマジネーションを働かせて、頭の中からそれをアウトプットしながら鼻歌を歌い、楽しんでどんどん手を動かして作っている。その様子が感慨深かった。

元々センスは良いものを持っていたが、自分ではできないので、毎回通所する度に指導員にせがんで折り紙工作なんかを楽しんでいた。

その頃から考えると別人のようだ。

恐らく今のこの子どもたちを初めて見た人は、そんな小さかった頃の様子など、想像もつかないことだろう。

お母さん方も以前なら、工作のアシスト役など嫌がって拒否されたことと思うが、今では安心して横で微笑みながら我が子の様子を見ていられる。

定規で長さを測ってマジックで印をつける、なんて難しいところにはアシストしてもらった。 

みんな光るもの、キラキラしたものが大好きだ。

マジックで描いたりシールを貼ったりして飾り付けたシェードの中に電池式の蝋燭型ランプを入れてあげると手を叩いて喜んでくれた。

初めは確かセリアだったと思うが、この電池式ランプのカラー点滅のものを買ったら、速い速度で点滅するので、さすがに頭が痛くなりそうだし、万が一癲癇でも起こしたら大変なので、念の為ダイソーで普通のオレンジの光のものを買っておき、そちらを灯してみせてから、良かったらこちらも、、、とカラー点滅のものもつけたところ、子どもたちはこちらの方が好みだったようで大喜び。

お母さん方に許可を得て、結局こちらもプレゼントした。

次は、SSTを兼ねて、友達の良いところを見つけ、画用紙でできたツリーの、飾りの形をしたメッセージカードに書き、友達のツリーに貼ってあげる、というプログラムだったが、何ということか、夜なべして作成したその飾り型メッセージカードを家に忘れて来てしまった。

究極持っていたコピー用紙を同じサイズの形に切って渡し、そこに書いてもらうことにした。できた物はまた持ち帰り、家で完成させて後日お届けするということに。

これで、子どもたちの家にはランプと画用紙のツリーを飾ることができる。

重度の自閉症の子どもたちは、友達同士でお互いの家に行って遊んだり、交流するというような機会がどうしても少なくなる。

放デイや学校の様な人数の多いところで工作しても、どこかそれは個人的な楽しみという域から出にくいが、私の会ではみんなが友達としての関係にあり、やり取りに介入は必要だが、お互いが意識しあい、積極的に関わりを持とうとしているメンバーだ。だからそれだけに、そこで一緒に作った作品には、彼らにとって格別の想いが籠り、それを家に帰って部屋に飾ってからでも、じんわりと友達との思い出を感じながら眺めることができる。

更にその画用紙のツリーの飾りには、友達が書いてくれたメッセージが文字にして書かれている。その筆跡から、友達を感じ、彼らは何度も何度もそのメッセージカードをめくって楽しむことだろう。

2時間という枠の中で、工作、メッセージカード、◯✕クイズ、椅子取りゲーム(反射神経を養う)そしてオヤツにケーキ。これだけでもういっぱいいっぱいの時間となった。

最後に歌うはずだったきよしこの夜を聴きながら、お片付けをし、挨拶をしてお開きとなった。

 

それでもまだロビーで物足りず、しばらくお母さんたち、子どもたちと談笑した。結構長く立ち話したが、普通なら子どもたちが代わる代わるまだかまだかと催促に来るが、今回はみんなその場をウロウロしながらも友達と接し、誰も一度も催促しに来ることがなく、とても静かに親たちの話が終わるのを待つことができた。

きっと、子どもたちも今日が特別な日(クリスマス会)で、1年の最後の会だということを感じていたし、楽しかったのだろうと思う。

エレベーターの前で別れ、一階に降りたのに、また一階で合流し、おかしくて笑いあいながら、今度は本当にさようなら、と手を触り合って別れた。

 

また来年。1月に元気にお会いしましょう。と。

 

夜になり、早速家でランプを飾って楽しんでいます、と一報が届いた。

(下は家で完成したツリーと飾り型のメッセージカード。めくれば友達からの言葉が出てくる。)

また明日にでもツリーをお届けしよう。

 

 

明日はクリスマス会。

明日はクリスマス会。

私が持っている会の。

11月18日に引っ越しの日を迎えてから、止まること無く動いているが、まだまだしなければならないことがいっぱいだ。

その中で、障がいを持つ子と親の運動の会への参加やら、明日のクリスマス会の準備やらを進めている。

明日という日程は、先週末に決まった為大忙しだ。

新居のお披露目も兼ねて、開催しようとリビングはほぼ片付けを終え、クリスマスの飾りつけを行ったけれど、この冬のインフルエンザの猛威で参加のお子さんがダウンし、まだ本調子じゃないとのことで、いつも利用している場所で行うことになった。

新居が建つ地域は若干寒い地域なのだ。

家ならもう飾りつけが終えているけれど、いつもの場所を借りて行うとなると、それはそれでまた飾りつけが必要だ、、、と今週に入り慌てていた私。

心持ちクリスマス感が出るキラキラモールなどを買った。

あとは工作しながら盛り上げていこう♪

 

今年はクリアファイルを使った簡単ランプシェードだ。

中学生になったとはいえ、重から中程度の障がいを持つ子どもたち。複雑な物は作れないが、自分の力と少しのアシストで作品を完成できるレベルの物を考え、家で飾る時、心がホワッと明るくなってくれる様子を想像しながら検討している。勿論、あれこれネットからアイデアももらう。

これまではかなりの補助が必要だったが、みんなかなり成長し、恐らく今回は大方を自分でできるだろうと踏んでいる。(ペアレントレーニングも兼ねているので、補助はお母さんたちががんばる。しかし、手を出しすぎないというのがルール。あくまでも主体は子どもたち)

それからもう一つ。SSTを兼ねて、友達の良いところやメッセージをツリーの飾りに見立てた丸い画用紙の飾りに書いてもらい、それぞれ一つずつ作ったこれまた画用紙の相手のツリーに貼っていってもらおうと思っている。

おやつは行く道中にあるケーキ屋さんで明日調達できるよう予約を完了した。

その他にみんなで楽しみながら療育できるゲームも考える。

これらの準備をたった今完了した。

 

明日の午後。楽しいクリスマス会になりますように🎄🎅

 

非常に簡単な見本だが仕方がない。

目標時間は30分。さてどうなるか。

グリーンのファイルを入れるとこうなる。